第七十一章 最初の一言
翌日。
安生はまず、王福のところへ向かった。
王福は店の古い帳簿を整理していた。
安生が入ってきても、顔を上げない。
「また来たのか?」
「ああ」
「今度は何だ?」
「周長順」
王福の手にしていた算盤が止まった。
「奴を調べるのか?」
「何をしたかじゃない」
「何を言ったかを調べたい」
王福が顔を上げた。
「何が違う?」
「違う」
安生は言った。
「今、知りたいのは」
「『沈家はもう同意している』という言葉を」
「最初に言ったのは誰なのかだ」
王福はしばらく黙った。
「周長順本人だと思ってるのか?」
「分からない」
「だから調べてる」
王福は頷いた。
「それなら、探したほうがいいものがある」
「何だ?」
「周長順自身の帳簿だ」
⸻
王福は棚の下から古い木箱を取り出した。
蓋を開けると、
中には何冊かの、紙が脆くなった帳簿が入っていた。
「うちの帳簿じゃない」
「昔、他の人間がここに置いていった」
「そのまま誰も取りに来なかった」
安生が聞いた。
「誰が?」
「周長順だ」
安生はすぐに顔を上げた。
「どうしてここに?」
「昔、うちから米を借りていた」
「勘定を済ませたあと」
「こういうものはもういらないと言ってな」
「しばらく預かってくれ、と」
「その後、取りに来なかった」
安生は一番上の帳簿を開いた。
碼頭の帳簿ではない。
個人的なやり取りの記録だった。
米。
木材。
工賃。
細かな出入りが並んでいる。
十数ページめくったところで、
六月の記録が出てきた。
六月八日。
米三石、借り。
六月十二日。
空白。
六月十四日。
二石。
清算済み。
安生はさらにめくった。
ない。
もう一度めくる。
やはりない。
「南布のことは書いてないのか?」
王福は首を振った。
「これは奴自身の帳簿だからな」
「書くときもあれば」
「書かないときもある」
安生はさらにページをめくった。
そのとき、一行が目に入った。
六月十一日。
「沈家の荷、三」
その下に、
二文字。
「未定」
安生の手が止まった。
「これは、どういう意味だ?」
王福が帳簿を覗き込む。
「分からない」
「周長順の字か?」
「たぶんな」
「字を知ってるのか?」
「昔、よく見ていたからな」
安生はすぐには結論を出さなかった。
ただ聞いた。
「この続きは?」
王福は首を振った。
「それだけだ」
⸻
安生はその一行を書き写した。
それから聞いた。
「六月十一日、王さんの父親は周長順に会ってるか?」
王福は長いこと考えた。
「会っていたかもしれない」
「どうしてそう思う?」
「あの頃のことは覚えてる」
「周長順が来ていた」
「南から来た布について聞いていた」
「何を聞いた?」
「米の勘定に充てられるか、と」
安生は顔を上げた。
「お父さんは何と答えた?」
「分からない」
「聞いてないのか?」
「ああ」
「じゃあ、どうして聞いたと分かる?」
王福が言った。
「親父から聞いた」
「周長順が聞いてきた、と」
「でも、もう同意したとは言ってなかった」
安生が聞く。
「お父さんは『沈家が同意した』とは言ってなかった?」
王福は首を振った。
「聞いてない」
「少なくとも、俺は聞いてない」
⸻
安生は王家を出た。
次に向かったのは、趙徳全のところだった。
趙徳全は古い木桶を直していた。
安生が周長順のことを尋ねると、
彼はため息をついた。
「また奴のことを調べてるのか?」
「知りたいんだ」
「六月十一日前後」
「周長順が『沈家は同意した』と言ったことがあるか」
趙徳全は長いこと考えた。
「似たようなことなら、聞いた」
「いつ?」
「六月十二日より前だ」
「具体的には?」
「覚えていない」
「誰が言った?」
趙徳全は顔を上げた。
「それも、はっきりとは言えない」
「どうして?」
「あの頃はな」
「みんな、人から聞いた話をそのまま言っていたわけじゃない」
安生は眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「例えば、甲が乙に言う」
「『沈家は知っているはずだ』」
「乙が丙に言う」
「『沈家はもう知っている』」
「二日も経てば」
「それが『沈家はもう同意した』に変わることだってある」
安生は何も言わなかった。
趙徳全は続けた。
「碼頭では、そういうことがあった」
「人が多い」
「荷は急ぐ」
「一つの言葉を、何度も確認する人間なんていない」
「結局、最初に誰が言ったのか」
「分からなくなる」
⸻
安生が聞いた。
「じゃあ、一番最初の言い方は覚えてるか?」
趙徳全は長いこと考えた。
「たしか……」
「『沈家のほうは知っている』だったと思う」
安生はすぐに書き留めた。
「『同意した』じゃない?」
「違う」
「知っている、だけだ」
「誰が言った?」
「たぶん周長順だ」
「たぶん?」
「確信はない」
安生は頷いた。
さらに聞いた。
「それが『同意した』に変わったのはいつだ?」
趙徳全は首を振った。
「分からない」
⸻
家に戻ると、
安生はその日に見つけたものをすべて並べた。
一つ目。
周長順自身の帳簿。
六月十一日。
沈家の荷、三。
未定。
二つ目。
王福の話。
周長順は、
南貨を勘定に充てられるかと尋ねていた。
ただし、王家が同意したという証拠はない。
三つ目。
趙徳全の記憶。
最初に聞いた言葉は、おそらく、
「沈家のほうは知っている」
だった。
「沈家はもう同意した」
ではない。
安生は、三つの言葉を見つめた。
ふと、
これまで考えていたよりも、
話は単純なのかもしれないと思った。
そして同時に、
もっと厄介なのかもしれないとも思った。
単純なのは、
一つの言葉が伝わっていく途中で変わった可能性があること。
厄介なのは、
その変化がどこで起きたのか、
今となっては誰にも証明できないことだった。
⸻
午後。
安生は沈家へ向かった。
周長順の帳簿にあった一行を、沈砚に見せる。
沈砚は目を通した。
表情は変わらない。
「沈家の荷、三」
「未定」
「少なくとも」
「六月十一日の時点で」
「奴は三包の荷が沈家に関係していることを知っていた」
安生は頷いた。
「ああ」
「でも、それが六月十二日に米と引き換えられた三包と同じものだとは限らない」
「それに、沈家が同意したと知っていたことにもならない」
「まして、誰かを騙した証拠にはならない」
沈砚はしばらく黙った。
「どうして、そこまで区別する?」
安生は彼を見る。
「今、一番簡単に間違えるのは」
「いくつかのものが繋がって見えるからって」
「そのまま一つの出来事にしてしまうことだ」
「でも、本当は」
「ただ近い場所に並んでいるだけの出来事かもしれない」
沈砚は頷いた。
「続けよう」
⸻
沈砚は父親の六月十一日の記録をもう一度取り出した。
「これは前にも見ただろ」
「ああ」
「もう一つある」
彼は、
「周来、南貨可先処理」
と書かれたところを指した。
その下に、小さな文字がある。
安生は以前、見落としていた。
「問」
と読める。
非常に薄い。
まるで後から水に濡れたように滲んでいる。
沈砚が言った。
「父は記録を残すとき」
「誰かがすでに決めたことなら」
「普通、『問』とは書かない」
「『問』と書くなら」
「相手がただ聞きに来たということだ」
安生はその文字を見た。
「じゃあ、『不明』は?」
「答えがなかったということだ」
「少なくとも、答えは記録されていない」
安生は頷いた。
二人の視線が、同じ紙の上に落ちる。
六月十一日。
周来。
南貨、先に処理できるか。
問。
不明。
⸻
安生がふいに聞いた。
「もし沈川が同意していないなら」
「どうして周長順は翌日、荷を出せた?」
沈砚は黙った。
「そこが問題なんだ」
安生は言った。
「今のところ確認できるのは」
「六月十一日」
「周長順がすでに聞きに来ていたこと」
「六月十二日」
「誰かが札を持っていったこと」
「荷が二回に分かれて処理されたこと」
「でも沈川の側には」
「明確な同意が残っていない」
沈砚が聞いた。
「じゃあ、周長順は嘘をついたと思うか?」
安生は首を振った。
「まだ、そうは言えない」
「なぜ?」
「勘違いした可能性がある」
「誰かから、沈家は同意したと聞いた可能性もある」
「あるいは、自分なら沈川も反対しないと思ったのかもしれない」
「それどころか」
「沈川が何か一言言っただけなのに」
「それを同意だと受け取った可能性もある」
どれも、まだ否定できない。
沈砚は何も言わなかった。
⸻
安生は、もう一度周長順の個人帳簿を見た。
六月十一日。
沈家の荷、三。
未定。
突然、安生が聞いた。
「王さん」
「ここに、周長順のほかの帳簿は残ってないか?」
沈砚は首を振った。
「さっき言っただろ」
「王家に残っているのは、これだけだ」
「そうか」
安生は言った。
「なら、一つだけ調べたい」
「何を?」
「六月十二日以降」
「周長順が『未定』を書き換えているかどうか」
沈砚は少し驚いた。
「どういうことだ?」
「六月十一日に『未定』と書いたなら」
「六月十二日以降」
「改めて記録した可能性がある」
「もし後から『決定済み』のような記録があれば」
「少なくとも」
「本人は、その時点で話が決まったと思っていたことになる」
「逆に」
「最後まで書き換えていなければ」
「それにも意味がある」
沈砚はすぐに立ち上がった。
「探そう」
二人は再び帳簿をめくった。
六月十二日。
ない。
六月十三日。
ない。
六月十四日。
ただ一行。
米二石、清算済み。
六月十五日。
ない。
六月十六日。
ない。
帳簿を最後まで見ても、
「沈家の荷」という言葉は、
二度と出てこなかった。
安生は、そのページを見つめた。
「ないな」
沈砚が頷く。
「ああ」
安生は、しかし失望していなかった。
むしろ、ゆっくりと言った。
「これは、逆に使える」
「なぜ?」
「もしこれが周長順自身の帳簿として残っているものなら」
「六月十一日に『未定』と書いたあと」
「少なくとも、沈家から正式に同意を得たという記録は残していない」
「だから今のところ言えるのは」
「奴がこの話を知っていたこと」
「そこまでだ」
「正式な許可を得たとは証明できない」
沈砚は、父親が残した文字を見下ろした。
長い沈黙のあと、
言った。
「じゃあ、あの言葉は」
「最初から一つの言葉じゃなかったのかもしれない」
安生が顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「最初は」
「ただ『沈家は知っている』だった」
「それが『沈家は了承した』になり」
「最後には『沈家はもう同意している』になった」
安生は答えなかった。
ただ筆を取った。
紙に書く。
六月十一日:沈家の荷、三。未定。
考えられる最初の言い方:沈家は知っている。
その後に現れた言い方:沈家は了承した。
さらに後になった言い方:沈家はもう同意している。
最後に、その下へ一本の線を引いた。
それ以上は書かなかった。
途中に、
一番大事なものが一つ欠けている。
誰が最初に、
「知っている」を
「同意している」に変えたのか。
その人間が誰なのかは、
まだ分からない。




