第六十六章 誰が署名したのか
翌日、安生は沈家の旧宅へ行った。
沈川が死んでから、もう二十年以上になる。
庭のものは、ほとんど入れ替わっていた。
ただ一つ。
古い部屋だけには、
当時のままの棚が残っていた。
沈砚は、父親が残したものを整理していた。
安生が入ってくると、
顔を上げた。
「また何か分かったのか?」
安生はすぐには答えなかった。
六月十二日の古い紙を、
机の上に置いた。
「一つ、聞きたい。」
沈砚が紙を取り上げる。
「南布三匹。」
「米一石と相殺。」
「周。」
しばらく見ていた。
「この字。」
「父の字じゃない。」
安生は頷いた。
「俺もそう思う。」
沈砚が聞いた。
「どうして、これを俺に見せる?」
「六月六日に。」
「十二包の南貨。」
「荷主・沈記。」
「そう書かれた記録がある。」
「だから、知りたい。」
「昔、沈記では、誰かに荷物を代わりに受け取らせることがあった?」
沈砚は少し考えた。
「あった。」
安生が顔を上げる。
「本当に?」
「時々な。」
「誰が代わりに受け取れた?」
「貨行の人間。」
「それか、付き合いのある人間。」
「何が必要だった?」
「父の字。」
「それか、印だ。」
安生はすぐに聞いた。
「印?」
「ああ。」
「じゃあ、六月十二日のあの紙には?」
沈砚はもう一度見た。
「ない。」
「署名は?」
「それもない。」
安生は黙った。
これは思っていた以上に重要だった。
沈記が普段どおり代わりの受け取りを認めていたのなら、
少なくとも何らかの委任を残すはずだった。
だが六月十二日には、
何もない。
⸻
沈砚は立ち上がった。
棚の前まで歩いていく。
「古い荷札が、まだ何枚かあったはずだ。」
「どこに?」
「探してみる。」
棚の中は乱雑だった。
古い布。
木札。
黄ばんだ紙。
そして、小さな木箱が一つ。
沈砚が木箱を開けた。
中には十数枚の荷札が入っていた。
一枚ずつめくっていく。
安生は横で見ているだけだった。
しばらくして、
沈砚が一枚を取り出した。
「これだ。」
そこには、
「沈記南貨二包」
と書かれていた。
その下に、小さな印がある。
安生が聞いた。
「誰が受け取った?」
「貨行だ。」
「名前は?」
「ある。」
沈砚が下のほうを指した。
陸成安。
安生は頷いた。
これなら分かりやすい。
通常の代受けなら、
少なくとも荷主の情報がある。
そして、受け取った人間の名前もある。
印もある。
日付もある。
荷物の数量まで記録されている。
⸻
沈砚はさらに探した。
何枚か見つかった。
あるものには、
「沈記南布三匹。」
あるものには、
「沈記南貨一包。」
どの紙にも、
印があった。
中には沈川の字が残っているものもあった。
安生が聞いた。
「『周』だけ書いてあるものは?」
沈砚は首を横に振った。
「ない。」
「『米と相殺』は?」
「それもない。」
安生は黙った。
これで、ようやく確認できた。
六月十二日のあの紙は、
沈記が普段行っていた処理とは違っていた。
⸻
沈砚が聞いた。
「つまり、お前は。」
「六月十二日の荷物は。」
「沈記のものじゃなかったと思っているのか?」
安生は首を横に振った。
「まだ、そこまでは言えない。」
「なぜ?」
「俺が証明できるのは。」
「あの荷札が、沈記の通常の出庫手続きとは違っていることだけだ。」
「その荷物が沈記のものではなかった、とまでは証明できない。」
沈砚は頷いた。
「そうだな。」
「あと一つ足りない。」
「何が?」
「荷主の委任だ。」
安生は言った。
「それが見つかれば。」
「どうしてこの三匹の南布を米と相殺できたのか分かる。」
「見つからなければ。」
「少なくとも、当時の手続きが完全ではなかったことは分かる。」
沈砚は安生を見た。
「前より、ずいぶん細かく調べるようになったな。」
安生は少し笑った。
「昔の俺が、こんなこと分かるわけないだろ。」
⸻
二人はさらに紙を探した。
そして木箱の一番下から、
何度も折り畳まれた紙が一枚出てきた。
開いてみる。
半分しか残っていない。
そこには、
「六月十一日。」
「南貨。」
「三……」
そこから先は、
破り取られていた。
安生は紙を見る。
「これ、荷主の委任?」
「分からない。」
「印は?」
沈砚は首を横に振った。
「ない。」
「父は、こういう印のない紙を書くことがあった?」
「時々な。」
「どんな時?」
「急いでいる時だ。」
「顔なじみに伝えるだけなら。」
「それでも書いた。」
安生が聞いた。
「もしかして。」
「これが六月十二日の三匹の南布と関係している可能性は?」
沈砚は答えなかった。
長い間、
紙を見ていた。
やがて言った。
「可能性はある。」
安生は頷いた。
「でも、確定はできない。」
「ああ。」
⸻
安生は紙を置いた。
それ以上は考えなかった。
そのとき、
半分になった紙の裏側に、
薄い字があることに気づいた。
「王」
沈砚も見た。
「王?」
安生が聞く。
「父親は王家と付き合いがあった?」
「あった。」
「よく取引していた?」
「昔はな。」
「米を買っていた?」
「ああ。」
安生の中で、
一つの考えが浮かんだ。
もし、この紙が本当に六月十二日の件と関係しているなら。
「王」は荷主ではないかもしれない。
米を受け取った側かもしれない。
あるいは、
ただ記録を書いた人間を示しているだけかもしれない。
今の段階では、
何も確定できなかった。
⸻
午後。
安生はその半分の紙を持って、
王福のところへ行った。
王福は紙を見ると、
明らかに表情を変えた。
「それ、どこで見つけた?」
「沈家だ。」
「知っているのか?」
「親父の字に似ている。」
「お前の父親も見たことがあるはずだ。」
安生が聞いた。
「六月十一日に何があったか、知っている?」
王福は長い間考えた。
「知らない。」
「じゃあ、どうしてこの紙を知っている?」
「親父が昔、言っていた。」
「六月十二日のあの布。」
「最初から米と相殺するために持ってきたものじゃなかったらしい。」
安生はすぐに聞いた。
「じゃあ、何だった?」
「知らない。」
「親父は何と言っていた?」
「誰かが先に来て。」
「南布で帳尻を合わせられないか、と聞いた。」
「それから荷物が届いた。」
安生は眉を寄せた。
「誰が聞きに来た?」
「周という姓だったと言っていた。」
「周長順?」
「分からない。」
「親父は、その人を見た?」
「見た。」
「周長順だった?」
王福は首を横に振った。
「そこまでは聞いていない。」
安生はそれ以上聞かなかった。
やはり、
答えはまだ確定していない。
⸻
王福が続けた。
「親父は、もう一つ言っていた。」
「何を?」
「その人が言ったらしい。」
「荷主は知っている、と。」
安生は一瞬、動きを止めた。
「荷主が知っている?」
「ああ。」
「誰のことだ?」
「分からない。」
「名前は?」
「ない。」
安生は俯いた。
もし当時、本当に誰かが、
「荷主は知っている」
と言っていたのなら。
それなら、正式な委任が残っていなかった理由も説明できる。
その場にいた人間は、
荷主はすでに同意していると、
信じていたのかもしれない。
ただ、その「同意」を、
誰も紙に残さなかった。
⸻
夜。
安生は再び机に向かった。
半分になった紙を、
机の中央に置く。
そして書いた。
六月十一日。
南貨。
三……
裏側・王。
その横に、
沈記の通常の代受け。
印あり。
受取人あり。
さらに横に、
六月十二日の相殺。
印なし。
荷主なし。
受取人なし。
最後に、
こう書いた。
「六月十二日の件と関係する可能性のある前段階の記録が存在する。ただし、証明できない。」
安生はその一文を見つめた。
ふと、
問題が少しずつ、
「誰が荷物を盗んだのか」
というものから、
別の問いに変わっていくのを感じた。
あのとき、
本当に荷主の口頭による同意があったのか。
もしあったのなら、
それは手続きの不備による、
不完全な代行処理だったのかもしれない。
もしなかったのなら。
誰かが、
「荷主は知っている」
という一言だけで、
自分のものではない荷物を、
自分の帳尻に組み込んだことになる。
その二つの間にあるのは、
たった一言だった。
⸻
翌日。
安生はまた陸成安に会いに行った。
「陸叔。」
「何だ?」
「当時の六月十一日。」
「誰かが来なかったか?」
「沈記の荷物を米と相殺していい、と言って。」
陸成安は長い間考えた。
そして、突然言った。
「いた。」
安生はすぐに姿勢を正した。
「誰?」
「名前は覚えていない。」
「姓は?」
「周だ。」
安生は何も言わなかった。
「周長順?」
「分からない。」
「何と言った?」
陸成安は安生を見た。
「沈家のほうでは、もう話がついている。」
「荷物は先に処理していい、と。」
安生が聞いた。
「それを信じた?」
「あのときはな。」
「なぜ?」
「言い方が自然だった。」
「それに。」
「翌日、本当に荷物が出た。」
安生が聞いた。
「沈川には確認しなかった?」
陸成安は黙った。
それから首を横に振った。
「しなかった。」
「なぜ?」
「もう、あいつも知っていると思った。」
安生は俯いた。
この言葉は、
これまで聞いてきた人間の答えと、
ほとんど同じだった。
俺は、あの人が知っていると思った。
誰かが認めていると思った。
手続きは終わっていると思った。
荷主が同意していると思った。
二十年以上経って、
それらの「思った」が、
ようやく一つの場所に積み重なった。
⸻
帰り道。
安生は、
もう誰のところにも寄らなかった。
ただ、ゆっくり歩いた。
六月十一日。
誰かが、
「沈家は同意している」
と言った。
六月十二日。
南布三匹が、
米一石との相殺に使われた。
札は戻った。
荷物は届いた。
帳簿にも残った。
けれど、
沈家自身が残した正式な委任状は、
一枚も見つかっていない。
安生はふと足を止めた。
もし、あのとき沈川が本当に知っていたのなら。
なぜ、
自分の荷札にはこの取引が残っていない?
もし知らなかったのなら。
誰が、
皆に「知っている」と思わせた?
今度も、
安生は急いで答えを書かなかった。
ただ、一行だけを書いた。
「六月十一日、誰かが『沈家はもう同意している』と言った。」
その下に、
もう一行。
「次に探すべきもの――この言葉を最初に言った人間。」
安生はその一文を見つめた。
長い間そうしてから、
紙をしまった。
ようやく分かってきた。
今回追っているのは、
もう札でもない。
一つの荷物でもない。
一つの言葉だ。
当時、誰もが信じた。
けれど、
誰一人として本当に確かめなかった言葉。
「沈家は、もう同意している。」
そして、
その言葉を最初に口にしたのは、
誰だったのか。
もしかすると、それこそが、
六月十二日の三匹の南布の行き先を、
本当に変え始めた場所なのかもしれない。




