第六十五章 誰が帳尻を合わせられるのか
翌日、安生は王福の家へ行った。
古い帳簿は持っていかなかった。
一枚の紙だけを持っていた。
そこには、いくつかの文字が書いてある。
「米で清算。」
王福は門の前で穀物を干していた。
安生を見ると、
「また俺のところまで来たのか」
と言った。
「うん。」
「今度は何だ?」
「聞きたいことがある。」
「昔、誰かが荷物を米と引き換えにしたことがある。」
「お前の家では、どうやって確認した?」
王福は手にしていた箕を止めた。
「何を確認する?」
「その人に、それをする権限があったかどうか。」
王福は少し呆れたような顔をした。
「昔は、そんなにややこしくなかったぞ。」
安生は黙っていた。
王福は少し考えてから言った。
「人が来る。」
「碼頭の札を持っている。」
「それで、帳尻を合わせるんだと言われる。」
「だから、こっちは受け取る。」
「もし、その荷物が本人のものじゃなかったら?」
「そんなこと、こっちに分かるか?」
「聞かないのか?」
「聞く。」
「何を?」
「誰に頼まれて持ってきたのか。」
「もし、碼頭の人間に頼まれたと言ったら?」
王福は黙った。
「……それで、だいたい済んだ。」
安生が聞いた。
「だいたい?」
「そうだ。」
「確実じゃない。」
「ただ、そこまで調べる必要があるとは、誰も思わなかった。」
安生は頷いた。
この言葉は、
趙徳全が言っていたことと同じだった。
⸻
王福は家の中から古い帳簿を持ってきた。
六月十二日のところを開く。
そこには、今もこう残っていた。
「南布三匹、米一石と相殺。」
安生が聞いた。
「ここに、荷主を書かなかったのはなぜ?」
「昔は書かなかった。」
「どうして?」
「相殺は、双方が納得すれば成立する。」
「双方って、誰と誰?」
王福は紙を指差した。
「荷物を持ってきた人間。」
「それと、親父だ。」
「つまり、お父さんは相手が米と引き換えにすることに同意したかどうかだけを確認すればよかった?」
「そうだ。」
「じゃあ、荷物を持ってきた人間に権限がなかったら?」
王福はため息をついた。
「それなら、騙されたってことになる。」
安生は黙っていた。
そのとき、ふと分かった。
当時の「相殺」というのは、
そもそも完全な所有権の証明ではなかった。
ただの取引記録だった。
誰かが荷物を持ってくる。
誰かがそれを受け取る。
双方が同意する。
それで帳簿上の取引は成立する。
その荷物が誰のものなのか。
それは、また別の問題だった。
⸻
安生はさらに聞いた。
「お父さんは、何か証明書を見たことがある?」
「証明?」
「例えば、荷主の書類。」
「ない。」
「碼頭の書類は?」
「札はあった。」
「札だけ?」
「荷札もあった。」
安生はすぐに聞いた。
「荷札には何が書いてあった?」
王福はしばらく探した。
やがて、一枚の破れた紙を見つけた。
そこには、
「南貨。」
「三匹。」
「米一石と相殺。」
その下に、一文字だけあった。
「周」
安生はその字を見た。
何も言わなかった。
王福が言った。
「昔はずっと、周長順のことだと思っていた。」
「今のお前の話を聞いていると。」
「周札かもしれない。」
「そう。」
「じゃあ、結局これは何なんだ?」
「分からない。」
安生は紙を元の場所に戻した。
「だから、この紙だけでは。」
「周長順本人が荷物を持っていったとは証明できない。」
「それに、その荷物が周長順のものだったとも証明できない。」
王福は頷いた。
「証明できるのは。」
「『周』と書かれた何らかの手続きを持った人間が。」
「南布三匹を米一石と相殺した。」
安生が言った。
「そういうこと。」
⸻
午後。
安生は再び趙徳全のところへ行った。
「趙叔。」
「何だ?」
「もし荷主が碼頭の人間じゃなかったとして。」
「碼頭の札を使って荷物を出すことはできた?」
趙徳全は少し考えた。
「できた。」
安生は一瞬黙った。
「本当に?」
「荷主から委任されていればな。」
「その場合、何が必要?」
「荷札。」
「ほかには?」
「場合によっては、管事の署名。」
「場合によっては、いらない。」
「どうして?」
趙徳全は安生を見た。
「付き合いがあるからだ。」
安生は何も言わなかった。
趙徳全は続けた。
「いつも来る貨行なら。」
「倉の人間も相手を知っている。」
「手続きが簡単になることは多かった。」
「じゃあ、臨時札は?」
「臨時札は、倉の人間に。」
「今回は荷物を出していい、と知らせるものだ。」
「荷主の証明じゃない。」
安生は頷いた。
「つまり。」
「誰かが倉の人間に荷物を出させることができれば。」
「荷物は出ていく?」
「理屈の上ではな。」
「実際は?」
趙徳全は苦笑した。
「だいたい、そうだ。」
⸻
安生はふと思いついて聞いた。
「当時、こんなことはあった?」
「貨行の人間が荷札を持ってくる。」
「でも、荷札に書かれている荷主は、その貨行ではない。」
趙徳全は頷いた。
「いくらでもあった。」
「なぜ?」
「代わりに受け取るんだ。」
「代わりに?」
「荷主が来られない。」
「だから貨行の人間が代わりに取りに来る。」
「どうやって証明する?」
「荷札だ。」
「誰が署名する?」
「荷主だ。」
安生が聞いた。
「もし、荷札に荷主の署名がなかったら?」
趙徳全は黙った。
「それは面倒なことになる。」
「でも、六月十二日のあの荷札は?」
「なかった。」
「どうして分かる?」
「俺が見たことがあるからだ。」
安生はすぐに聞いた。
「間違いない?」
「間違いない。」
「『沈記』の字はなかった?」
「ない。」
「南貨だけ?」
「そうだ。」
「それと『周』?」
「そうだ。」
安生はゆっくり頷いた。
これは重要だった。
六月十二日の荷物に、
「沈記」という荷主の記載がないのであれば。
六月六日に「荷主・沈記」と書かれていた荷物の記録と、
六月十二日の荷物を直接つなげることはできない。
少なくともその間には、
本当の荷主による譲渡か、
正式な委任を示す何かが一つ足りない。
⸻
夜。
安生はすべての紙をもう一度整理した。
今、三つの性質の違う記録がある。
一つ目。
六月六日。
南貨十二包。
荷主・沈記。
二つ目。
六月十二日。
南布三匹。
米一石と相殺。
周。
三つ目。
六月十五日。
九包。
数量は合っている。
以前の安生なら、
自然にこの三つをつなげていた。
十二包。
三包が出ていった。
残り九包。
数字だけなら、ぴったり合う。
だが今は、
そう書くことができなかった。
六月十二日の三匹の南布には、
沈記の荷主証明がない。
六月十五日の九包にも、
「六月六日のあの荷物」とは明記されていない。
数字が一致する。
それだけでは、
同じ荷物だとは言えない。
⸻
安生は紙に書いた。
「十二 ≠ 三+九。
同じ一群の荷物だと証明できる場合を除く。」
書き終えて、
しばらく見つめた。
それから少し考え、
書き直した。
「数字は対応していても、荷物まで同じとは限らない。」
そのほうが、
今の自分が本当に分かっていることに近かった。
⸻
翌日。
安生はもう一度、陸成安を訪ねた。
「陸叔。」
「また何か出てきたのか?」
「六月十二日の。」
「あの三匹の南布。」
「荷札を見たことがある?」
「ある。」
「沈記と書いてあった?」
「ない。」
「間違いない?」
「間違いない。」
「じゃあ、どうして当時は出庫していいと思った?」
陸成安はしばらく黙っていた。
「周札があった。」
「それと、帳尻を合わせるという話もあった。」
「誰が言った?」
「周長順だ。」
安生は顔を上げた。
陸成安が、ここまではっきりその名前を口にしたのは初めてだった。
「本人が言った?」
「ああ。」
「何と言った?」
「この三匹は。」
「王家の米と相殺するためのものだ、と。」
安生が聞いた。
「誰の荷物だと言っていた?」
陸成安は首を横に振った。
「そこまでは言っていない。」
「聞かなかった?」
「聞いた。」
「何て答えた?」
陸成安は安生を見た。
「帳簿の上で、誰かが認めている、と。」
安生は眉を寄せた。
「誰が?」
「分からない。」
「名前は言わなかった?」
「言わなかった。」
⸻
安生はその場に座ったまま、
しばらく動かなかった。
そのとき、ふと気づいた。
「誰かが認めている。」
この言葉こそ、
当時の問題の中心だったのかもしれない。
問題は、
「誰がその荷物を所有していたのか」
だけではない。
当時の人間は、
こう考えていたのではないか。
誰かがこの帳尻合わせを認めている。
それなら、
荷物を使って相殺してもいい。
だが、その「誰か」が、
誰だったのか。
そのことだけが、
どこにも書かれていない。
⸻
家に戻ってから。
安生はすぐに新しい推測を書かなかった。
ただ、六月十二日の出来事を、
もう一度書き直した。
誰かが相殺を持ちかけた。
王家が受け入れた。
倉が荷物を出した。
貨行が関わった。
周札が返却された。
荷物は確かに届けられた。
そして最後に、
一行を加えた。
「しかし、明確な荷主の委任は見つかっていない。」
安生はその一文を見つめた。
初めて思った。
自分は、
当時の本当の問題に近づいているのかもしれない。
八十両を盗んだのは誰か、
ということではない。
三包の荷物を誰かが勝手に持ち出した、
ということでもない。
当時には、
皆が慣れきっていたやり方があった。
顔なじみであること。
札があること。
荷札があること。
そして、
「帳尻を合わせる」という一言。
それらが揃えば、
多くの人間は、
それ以上を確かめようとはしなかった。
その結果、
本来なら一つの記録として明確に残すべきだったことが、
何人もの人間にとって、
それぞれ別々に「終わったこと」になっていった。
倉は、
荷物を出したから仕事は終わったと思った。
貨行は、
手続きを済ませたから終わったと思った。
米商は、
帳尻が合ったから終わったと思った。
帳房は、
札が戻ってきたから終わったと思った。
そして二十年以上経った今。
安生は、
その古い紙の中に立っていた。
そこで初めて気づいた。
誰もが、
自分の手元にある一つの仕事は終えていた。
けれど、
最後の問いを引き受けた人間は、
どこにもいなかった。
この荷物を、
どう扱う権限があったのか。
それを決められる人間は、
誰だったのか。
安生は筆を置いた。
今日はもう、
これ以上調べなかった。
問題によっては、
もう一人名前を見つけたところで、
答えにはならない。
まずは、
当時の仕組みそのものを、
一つずつほどいていく。
そうしなければ、
どこが最初から、
誰にも引き受けられていなかったのか。
それすら分からない。




