第六十三章 臨時札
翌日。
安生はまず、埠頭の東側へ向かった。
そこには昔、小さな小屋があった。
広くはない。
机が一つと、
木箱が二つ置けるくらいの大きさだった。
趙徳全が言った。
「昔、臨時に荷を出す時は」
「ここで記録した」
安生は戸を押し開けた。
中はもう空だった。
机もない。
木箱もない。
残っているのは、
一面の壁だけだった。
壁には何枚かの板が打ち付けられている。
そのうちの一枚に、
こう書かれていた。
「臨時札」
その下には、
さらに小さな字が何行かある。
煙に燻されて、
黒くなっていた。
安生は顔を近づけた。
かろうじて読める。
「札を受け取る」
「出庫」
「札を返す」
三つの言葉。
それぞれの後ろには、
空欄が残されていた。
安生は尋ねた。
「ここを担当していたのは?」
趙徳全は少し考えた。
「昔は、呉順という男がいた」
「呉順?」
「ああ」
「その後は?」
「死んだ」
「いつです?」
「十何年か前だ」
安生は板を見た。
「家族は?」
「息子が一人いる」
「どこに住んでいます?」
趙徳全が場所を教えた。
安生は書き留めた。
⸻
呉順の息子は、
呉平という。
もう五十を過ぎている。
今は町の西側で、
木工品の店を営んでいた。
安生が訪ねた時、
呉平は一枚の板を鉋で削っていた。
父親の名前を聞くと、
手が少しだけ止まった。
「父のことを調べているのか?」
「昔の埠頭のことを調べています」
「二十年以上前の?」
「はい」
呉平は追い返さなかった。
ただ、
また木を削り始めた。
「父は、あの頃、臨時札を担当していた」
安生は尋ねた。
「記録をつけていた?」
「ああ」
「臨時札は、どうやって使うんです?」
「子供の頃、見たことがある」
「荷を急いで出さなきゃならない時」
「正式な手続きを踏む時間がない」
「だから、先に臨時札を使う」
「あとで帳面を補う」
安生は聞いた。
「誰でも使えた?」
「管事の人間」
「貨行の人間も?」
「いた」
「倉の人間は?」
「いた」
「じゃあ、父親の顔を知っていれば?」
呉平は少し笑った。
「そこまで聞くってことは」
「もう分かっているんだろう」
安生は答えなかった。
呉平は鉋を置いた。
「父はな」
「人を信用しすぎるところがあった」
「こう言っていた」
「埠頭にいるのは、毎日同じ人間だ」
「毎回、名前も荷の番号も倉の番号も全部書いていたら」
「荷を動かす前に日が暮れてしまう」
安生は尋ねた。
「問題が起きたことは?」
呉平は黙った。
「ある」
「どんな?」
「一度だけ」
「札は戻ってきた」
「でも、荷が合わなかった」
安生はすぐに顔を上げた。
「何年です?」
「分からない」
「俺はまだ小さかった」
「でも、父が怒鳴られていたのは覚えている」
「誰に?」
「帳場の人間だ」
「許文成?」
「たぶん」
「その後はどうなった?」
「帳面を補った」
「誰が?」
「知らない」
安生は、それ以上聞かなかった。
それだけでも、
十分に重要だった。
⸻
安生は懐から一枚の紙を取り出した。
「これを見てください」
そこには、
こう書かれている。
「東倉 三」
「西倉 二」
「札、違う」
呉平は一目見ると、
「父の字に似ている」
と言った。
安生は顔を上げた。
「間違いない?」
「子供の頃から、父の字を見てきた」
「でも、完全には言えない」
「どうして?」
「父は『三』を書く時」
「最後の線を少し上に跳ねる癖があった」
呉平は紙を指した。
「ここも同じだ」
安生はしばらく見つめた。
確かに、
少し特徴がある。
それでも、
すぐには断定しなかった。
「ほかに、確かめられるものは?」
呉平は考えた。
「ある」
そう言って、
奥へ入っていった。
しばらくして、
ひびの入った木箱を持って戻ってきた。
中に帳面はなかった。
古い紙が数枚あるだけだった。
そのうちの一枚には、
いくつかの臨時札の番号と、
日付が書かれていた。
一番下の一行は、
色が褪せていた。
それでも読める。
六月十二日。
安生の息が、
一瞬止まった。
だが、
すぐには手を伸ばさなかった。
先に尋ねた。
「これは何です?」
「父が残したものだ」
「そう言っていた?」
「ああ」
「これは、父が後になって残したものだ、と」
「なぜ残したのかは?」
呉平は首を振った。
「分からない」
⸻
紙に書かれていたことは、
多くなかった。
六月十二日。
東倉 三。
臨札 一。
西倉 二。
臨札 二。
札、すべて返却。
安生は、
最後の一行をじっと見た。
札、すべて返却。
これは、
許文成の記録とも重なる。
二度の出庫。
二種類の札。
そして、
二枚とも戻っている。
それでも、
荷のほうは完全には合わない。
安生はさらに下を見た。
一番下に、
小さな字が残っている。
「同じ事ではない。」
後から書き足したようにも見えた。
呉平が尋ねた。
「どういう意味だ?」
安生は首を振った。
「まだ分からない」
紙を裏返した。
何も書かれていなかった。
⸻
安生はしばらく座っていた。
それから尋ねた。
「お父さんは、言っていませんでしたか?」
「六月十二日に」
「二枚の臨時札を誰が持っていったのか」
呉平は少し考えた。
「一人だけ覚えている」
「誰です?」
「たしか、梁という姓だった」
安生はすぐに聞いた。
「梁?」
「ああ」
「名前は?」
「覚えていない」
「埠頭の人間?」
「たぶん」
安生はそれ以上尋ねなかった。
今回は、
新しい名前が一つ出てきた。
だが、
名前は名前にすぎない。
まだ確かめる必要がある。
⸻
安生は埠頭へ戻った。
まず老梁を探した。
だが、
老梁はもう以前の場所にはいなかった。
何人かに聞いて、
ようやく分かった。
老梁は若い頃、
荷物の記録を担当していた。
その後、
別の土地へ移った。
今では七十を過ぎている。
町の外に住んでいるらしい。
安生はそこまで足を運んだ。
老梁に会った時、
老人は庭先で薬草を干していた。
「六月十二日」
そう聞くと、
顔を上げた。
「沈家の荷を調べているのか?」
安生は隠さなかった。
「はい」
老人は驚かなかった。
「臨時札まで来たか」
「ご存じなんですか?」
「当時、俺が人を連れて確認した」
安生は腰を下ろした。
「何を確認したんです?」
「荷だ」
「六月十二日?」
「ああ」
「東倉三包」
「西倉二包」
老梁は頷いた。
「五包じゃない」
安生の胸が動いた。
「どうして?」
「同じ荷じゃない」
「確かですか?」
「確かだ」
「東倉の三包は?」
「南布だ」
「西倉の二包は?」
「それも南貨だ」
安生は眉を寄せた。
「それなら、なぜ同じ荷ではない?」
老梁は安生を見た。
「荷札の番号が違った」
「荷札?」
「荷には、それぞれ印がある」
「東倉の三包には」
「沈記の印がなかった」
安生は言葉を失った。
「西倉の二包は?」
「ある」
「沈記?」
「ああ」
部屋が静かになった。
安生は、
すぐには何も言わなかった。
この一言で、
これまでのいくつもの推測が変わってしまった。
老梁の記憶が正しいなら、
六月十二日の五包の南貨を、
すべて沈記の荷として扱うことはできない。
そのうち三包は、
別の荷である可能性が高い。
そして西倉の二包のほうが、
沈記の荷だった可能性がある。
安生は尋ねた。
「では、六月十五日の九包は?」
老梁は首を振った。
「分からない」
「なぜ?」
「あの日、俺は関わっていない」
「誰が確認した?」
「沈川だ」
安生は顔を上げた。
老梁は続けた。
「あの日は、本来なら沈川が確認するはずだった」
「だが、その後……」
そこから先は、
言わなかった。
安生には、
分かっていた。
あの日、
何が起きたのか。
⸻
帰る途中、
安生はほとんど口を開かなかった。
この古い事件で、
一番間違えやすいのは、
証拠がないことではない。
証拠が、
あまりにもよく似ていることだった。
三包。
二包。
十二包。
九包。
南貨。
南布。
数字は合ってしまう。
名前も、
つながってしまう。
だが、
荷札の番号が違えば、
そもそも同じ荷ではないかもしれない。
夜になると、
安生はこれまで書いた紙をすべて取り出した。
そして、
「五包」
という言葉を線で消した。
その下に、
書き直した。
六月十二日。
東倉三包――荷の出所、不明。
西倉二包――沈記の印あり。
臨時札二枚。
二枚とも返却済み。
それから、
六月十五日の下に、
こう書いた。
九包――六月六日の残りの荷かどうか、なお不明。
書き終えると、
安生は椅子にもたれ、
机いっぱいに広げた紙を見つめた。
以前は、
一つのことを調べるというのは、
一つの答えを見つけることだと思っていた。
今は少し違う。
調べるというのは、
間違っていた答えを、
一つずつ取り除いていくことなのかもしれない。
最後に残るのは、
数行だけかもしれない。
それでも、
その数行なら、
少なくとも嘘はつかない。
窓の外を、
誰かが通り過ぎた。
通りから、
麺を売る声が聞こえてくる。
安生は紙をしまった。
その時、
老梁の最後の言葉を思い出した。
「あの日は、本来なら沈川が確認するはずだった」
もし六月十五日の九包が、
本当に沈川の最終確認を必要としていたのなら。
沈川が死んだ後、
誰がこの仕事を引き継いだのか。
そして、もっと重要なのは――
六月十二日の二枚の臨時札を、
いったい誰が持っていったのか。
老梁は言わなかった。
呉平も知らなかった。
それでも、
安生には一つだけ分かったことがある。
あの二枚の札は、
周長順のものではない。
誰か一人が専用に持っていた札でもない。
埠頭の札だった。
埠頭にいる人間が、
それを使って仕事をしていた。
問題が起きても、
札は戻ってくる。
人も、
「手続きは終わっている」
と言える。
だが、
荷だけは、
自分から何も語ってくれない。




