↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/110

第六章 魚の屋台

城南は、城内よりいくらか静かだった。


二つほど通りを抜けると、魚や肉、野菜を売る屋台が増えてくる。


季節は、もう少し暑くなっていた。


魚の生臭さに泥水の匂いが混じり、道端の石溝をゆっくりと流れている。


安生が先を歩き、陳二がその横についていた。


「ほら、あそこだ。」


陳二が道端を指差した。


魚屋の奥に、四十過ぎくらいの男が座っている。


俯いて、魚の鱗を削っていた。


姓は周。


近所の者からは、周叔さんと呼ばれている。


安生が屋台の前まで行く。


周叔が顔を上げた。


手の動きが少し遅くなる。


「来たか。」


「ああ。」


安生はしゃがみ込んだ。


「昨日言ってた金、用意できたか?」


周叔は答えなかった。


しばらくしてから、鱗取りの包丁を置いた。


「まだ少し足りない。」


横から陳二が言う。


「また足りないのか?」


周叔が陳二を見る。


「三日って言ってただろ?」


「今日は二日目だ。」


陳二が言った。


「分かってる。」


周叔は手を拭いた。


「明日払う。」


安生はすぐには答えなかった。


屋台に並んだ魚を見る。


今日は、数が少ない。


横の木桶にも十数匹しか入っていなかった。


「商売、よくないのか?」


周叔が少し驚いた顔をした。


「まあ、普通だ。」


「ずいぶん少ない。」


「この二日は雨だったからな。川も荒れて、あまり獲れなかった。」


安生は頷いた。


「明日、いくら払える?」


「全部。」


「また減らすなよ。」


「減らさない。」


安生は立ち上がった。


「分かった。」


陳二が意外そうに安生を見る。


「それだけで帰るのか?」


安生が陳二を見る。


「じゃあ、どうする?」


「前も同じこと言ってたじゃないか。」


周叔が俯く。


「今度は本当に払う。」


安生は何も言わなかった。


三人は魚屋を離れた。


しばらく歩いてから、陳二が口を開く。


「お前、最近どうしたんだ?」


「何が?」


「前なら、ああいう奴にあんなに話なんかしなかっただろ。」


「金が戻れば、それでいい。」


陳二が笑った。


「いつからそんなに物分かりがよくなった?」


安生が足を止める。


「気に入らないなら、お前が取りに行け。」


陳二はすぐに黙った。


隣で趙順が笑う。


「まあ、やめとけ。」


陳二が趙順を睨む。


「お前に何が分かる。」


安生はまた歩き出した。


数歩進んだところで、振り返る。


「陳二。」


「何だ?」


「明日は俺一人で来る。」


「なんで?」


「お前は来なくていい。」


陳二の顔色が変わった。


「どういう意味だ?」


「別に。」


「じゃあ、なんで俺は来ちゃいけない?」


安生は陳二を見る。


「俺一人でいい。」


陳二は数秒、安生を見つめた。


やがて鼻を鳴らす。


「勝手にしろ。」


三人はまた歩き出した。


誰も、それ以上は話さなかった。


薬屋の前まで来たところで、安生が足を止めた。


店の棚には、包みにされた薬が並んでいる。


父親が腰を押さえていた姿を思い出した。


「お前ら、先に行ってくれ。」


陳二が振り返る。


「何するんだ?」


「ちょっと買い物。」


「何を?」


「父さんの薬。」


陳二は薬屋を見る。


「お前、薬なんか分かるのか?」


「分からない。」


安生は店の中へ入った。


「店主。うちの親父が腰を痛めてる。」


帳場の奥にいた老人が顔を上げた。


「どのくらい前からだ?」


「かなり前から。」


「どんなふうに痛む?」


安生は考えた。


「荷物を運んだあとに痛くなる。」


老人はさらにいくつか尋ねた。


だが、安生は一つも答えられなかった。


老人は首を振る。


「何も分からないんじゃ、薬を出しようがない。」


安生は気まずそうに立っていた。


「じゃあ、どうすればいい?」


「本人を連れてきて診てもらいな。」


「本人が嫌がる。」


老人は笑った。


「それじゃあ、仕方ない。」


安生はしばらく立っていた。


結局、打ち身用の薬を少し買った。


店を出ると、陳二が通りの角で待っていた。


「ずいぶん遅かったな。」


「買い物。」


「何を?」


「薬。」


陳二は手にした紙包みを見る。


「親父さんのか?」


「ああ。」


「お前、いつからそんなことまで気にするようになった?」


安生は薬を袖の中へしまった。


「前から気にしてる。」


陳二は何も言わなかった。


しばらくして、ふいに言う。


「安生。」


「ん?」


「俺が最近、お前に面倒ばかりかけてると思ってるか?」


安生は陳二を見る。


「思ってない。」


「じゃあ、なんで明日、俺を連れていかない?」


「俺一人で行けばいい。」


「俺がまた話を大きくすると思ってるのか?」


安生は答えなかった。


陳二の顔から笑いが消えていく。


「分かった。」


小さく頷く。


「お前一人で行け。」


そう言うと、陳二は背を向けて歩き出した。


趙順はその場に残り、陳二と安生を交互に見た。


「俺、あいつを見てくる。」


安生は頷いた。


趙順は陳二の後を追った。


安生は一人で帰り始めた。


通りの角まで来たとき、ふと一人の男が目に入った。


朝、波止場で見た趙徳全だった。


布屋の脇に立ち、手には空の籠を提げている。


安生を見ると、何も言わなかった。


安生も足を止めた。


「趙叔さん。」


趙徳全が頷く。


「帰るのか?」


「ああ。」


「親父さんは元気か?」


「腰が痛い。」


「あいつは昔からそうだ。」


趙徳全はそう言ってから、安生の顔に目を向けた。


しばらく見つめる。


「お前、だんだん親父さんに似てきたな。」


安生が少し笑う。


「俺の親父、若い頃はどんな顔だった?」


趙徳全も笑った。


「お前より、ずっと真面目な顔をしてた。」


「本当か?」


「ああ。本当だ。」


それだけ言うと、趙徳全は背を向けた。


安生はふと思い出した。


「趙叔さん。」


「ん?」


「今日、俺に何か言いたいことがあったんじゃないのか?」


趙徳全の足が止まった。


しばらくして、首を横に振る。


「何もない。」


そう言って、そのまま歩いていった。


安生はその背中を見ていた。


趙徳全が別の通りへ曲がるまで、動かなかった。


やがて、安生も家へ向かった。


夜。


母親は庭で野菜を選り分けていた。


安生は薬を卓の上に置いた。


「父さんのだ。」


母親が少し驚いた。


「お前が買ったの?」


「ああ。」


「いくらした?」


「たいした額じゃない。」


母親は薬包を手に取って見る。


「お父さん、こういうものは使わないよ。」


「なんで?」


「そんなもの効かないって言うから。」


「だったら、使わせればいい。」


母親が小さく笑った。


「今度は父親の世話まで焼くようになったね。」


安生は答えなかった。


家の中から父親の声がした。


「誰が買った?」


母親が答える。


「お前の息子だよ。」


父親は少し黙った。


「そんなものに金を使って。」


安生が戸口から言った。


「使わないなら、それでいい。」


「使わないとは言ってない。」


「じゃあ、使って。」


父親はそれ以上何も言わなかった。


母親は俯いたまま、野菜を選り分けている。


庭がしばらく静かになる。


やがて母親が尋ねた。


「明日も出かけるの?」


「ああ。」


「どこへ?」


「金を取りに行く。」


母親の手が止まった。


「人と揉めないでよ。」


安生が笑う。


「俺だって毎日喧嘩してるわけじゃない。」


母親が安生を見る。


「自分で分かってるなら、それでいい。」


安生は何も答えなかった。


その夜、安生はなかなか眠れなかった。


頭の中に、陳二の顔が浮かぶ。


趙徳全の言葉も浮かぶ。


それから、魚屋の前で俯いていた周叔の姿。


そして、あの言葉。


――お前、だんだん親父さんに似てきたな。


安生は寝返りを打った。


趙徳全がなぜ急にそんなことを言ったのか、分からなかった。


今日、自分に何か言いたそうだった理由も分からない。


そして、通り角にいた見知らぬ男が誰なのかも。


ただ、この二、三日、いつもより多くの人に出会っている。


そんな気がした。


だが、それ以上は考えなかった。


明日はまた、金を取りに行かなければならない。


安生は目を閉じた。


庭の外から風が吹き、塀の向こうを抜けていく。


誰も気づかなかった。


母親が卓を片付けるとき、そこに置かれた薬包を手に取った。


しばらく眺めてから、元の場所へ戻す。


何も言わない。


ただ、卓の上の灯りを、ほんの少しだけ内側へ寄せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。