第五十八章 あの古い勘定
翌日、安生は埠頭へは行かなかった。
代わりに、王福のところへ向かった。
王福は米袋を運んでいた。
安生を見ると、
「今日は埠頭を調べないのか」
と聞いた。
「別の勘定を調べる」
「何の?」
「私的な勘定だ」
王福は手を止めた。
「どの勘定だ?」
「二十三年前の六月に、南の荷を使って借りを返した件だ」
王福はしばらく考えた。
「それは、よく分からんな」
「親父さんは?」
「もう亡くなった」
「昔の帳面は?」
「残っている」
安生は王福を見た。
「見せてもらいたい」
⸻
王福は古い帳面を取り出した。
今度、安生は六月十二日から見始めなかった。
六月の初めまで戻り、
一頁ずつめくっていった。
六月三日。
六月四日。
六月五日。
六月六日。
ない。
六月七日。
ない。
六月八日。
ない。
六月九日。
南布三反。
米一石と交換。
六月十日。
ない。
六月十一日。
ない。
六月十二日。
南布三反。
米一石と相殺。
六月十三日。
ない。
六月十四日。
南布二反。
米と交換。
六月十五日。
米一石。
清算済み。
安生は眉を寄せた。
「この何件かは」
「親父さんは、当時どう記していた?」
王福は首を振った。
「分からない」
「借りの記録は残していた?」
「ああ」
「どこに?」
「後ろだ」
王福が帳面の後ろのほうを開いた。
そこには、簡単な借掛の一覧があった。
安生はゆっくり目を通した。
何十人もの名前が並んでいる。
ほとんどは普通の商人だった。
米を何斗。
穀物を何石。
布を何反。
その中に、一つの名前があった。
安生の手が止まる。
周長順。
安生は顔を上げた。
「この人は?」
王福が帳面を見る。
「周長順?」
「そう」
「この人も米を借りていたのか?」
「そのはずだ」
「どれくらい?」
王福が指で追った。
「ここには」
「六月八日」
「米三石」
「一石返済済み」
「残り二石」
安生は一瞬、言葉を失った。
「六月八日?」
「ああ」
「いつ返し終わった?」
王福は頁をめくった。
六月十四日。
その横に、
「二石、清算済み」
とだけ書かれていた。
返済方法については、何も記されていない。
安生は黙った。
⸻
「王叔」
「ん?」
「親父さんは、周長順がどうやって返したか知っていた?」
「分からんな」
「本当に?」
「親父は結果しか書かなかった」
「時には米」
「時には布」
「時には別のものだった」
「相手が勘定を認めれば、それで清算だった」
安生は帳面を見直した。
「じゃあ六月十二日の」
「南布三反で米一石と相殺したという記録は」
「周長順の借りだった可能性は?」
王福は首を振った。
「分からない」
「なぜ?」
「帳面に名前がない」
安生はうなずいた。
そして聞いた。
「では六月十四日」
「周長順の残り二石は」
「どうやって清算した?」
王福は帳面を指した。
「ここには書いてない」
安生はしばらく、その一行を見つめていた。
やがて、
「親父さんは六月十四日に」
「誰かが南の荷を持ってきたことを記していないか?」
と聞いた。
王福はもう一度、帳面をめくった。
しばらくして手を止めた。
「ある」
安生はすぐそばへ寄った。
その一行は小さかった。
そこには、
「南貨二反、米二石と相殺」
と書かれていた。
日付は六月十四日。
その下にも、
名前はなかった。
安生は何も言わなかった。
王福も黙っていた。
「これ……」
王福が言いかける。
安生は首を振った。
「まだ言えない」
「なぜ?」
「二反だから」
「前の三包も、二包と一包だった」
「でも、反と包は同じものじゃない」
「それに」
「この二反がどこから来たのかも分からない」
王福はうなずいた。
「そうだな」
安生はさらに頁をめくった。
六月十五日。
「米勘定、清算済み」
そこで、安生は手を止めた。
もう先はめくらなかった。
ただ、
「王叔」
と言った。
「ん?」
「親父さんは、昔からこんなふうに記していたのか?」
「そうだ」
「結果だけ?」
「結果だけだ」
「荷がどこから来たかは、書かない?」
「書かないことも多かった」
「じゃあ、もし誰かが埠頭の荷を持ってきて、借りを返したとしても」
「親父さんには分からない?」
王福は少し考えた。
「顔見知りなら、気づくこともある」
「誰も言わなければ」
「分からないだろうな」
安生はうなずいた。
まさに、そこが問題だった。
王家の帳面が証明できるのは、
誰かが南の荷を使って米の勘定を清算したことだけだ。
その荷が埠頭から来たとは、
まだ証明できない。
⸻
安生は何件かの記録を書き写した。
六月八日。
周長順、米三石を借りる。
六月九日。
誰かが南布三反を使い、米一石と相殺。
六月十二日。
また南布三反を使い、米一石と相殺。
六月十四日。
南布二反を使い、米二石と相殺。
六月十五日。
米の勘定、清算済み。
安生は並んだ数字を見つめた。
そして、ふと気づいた。
「王叔」
「何だ?」
「親父さんが六月九日に記した分」
「誰の勘定だった?」
「分からない」
「六月十二日は?」
「分からない」
「六月十四日は?」
「それも分からない」
安生はうなずいた。
「では、なぜ六月十五日に『米勘定、清算済み』と書いた?」
王福はしばらく帳面を見ていた。
「借りていた人が、清算したと言ったからだろう」
「誰が?」
「ここには書いてない」
安生はそれ以上、聞かなかった。
⸻
王家を出たあと、
安生は周家へ向かった。
周長順は、もう何年も前に亡くなっている。
今そこに住んでいるのは、息子の周明貴だった。
安生は以前にも会ったことがある。
今回は遠回しに聞かなかった。
「周叔」
「ん?」
「お父さんは、昔、王家から米を借りていたのか?」
周明貴は眉を寄せた。
「知らない」
「この帳面を見たことはあるか?」
安生が書き写した記録を見せる。
周明貴は長い間、それを見ていた。
「……あったような気がする」
「どういう意味だ?」
「子供のころ、親父から聞いたことがある」
「何を?」
「王家に米の借りがある、と」
「その後、返した?」
「返したと言っていた」
「どうやって?」
「そこまでは知らない」
安生は尋ねた。
「お父さんは南の荷を持っていたか?」
周明貴は首を振った。
「自分の荷は持っていない」
「では、埠頭の荷は?」
「分からない」
安生は彼を見た。
「お父さんは」
「誰かの荷を処理したことがあると言っていなかったか?」
周明貴は黙った。
長い沈黙のあと、
ようやく口を開いた。
「一度だけ聞いたことがある」
「いつ?」
「酒を飲んでいた時だ」
「何と言っていた?」
「埠頭のことだ」
「時には、自分がやりたいからやるんじゃない」
「誰かに言われて、やることもある」
安生は聞いた。
「誰に?」
「知らない」
「名前は?」
「言わなかった」
「じゃあ、なぜ覚えている?」
周明貴は苦笑した。
「その時、俺が親父に聞いたんだ」
「悪いことをしたのかって」
「親父は」
「仕事をする人間は」
「自分がしていることが悪いことなのかどうか、分からない時もある」
と言った。
安生は何も言わなかった。
その言葉は、
以前、許文成から聞いた言葉と、
どこか似ていた。
だが安生は、
まだそれらを結びつけなかった。
ただ、書き留めた。
⸻
「周叔」
「ん?」
「六月十二日」
「お父さんは」
「三包の南の荷について、何か言っていなかったか?」
周明貴の表情が、わずかに変わった。
安生はそれに気づいた。
だが、すぐには問い詰めなかった。
ただ待った。
しばらくして、
周明貴が言った。
「分からない」
「本当に?」
「俺が聞いたのは」
「一批の荷があった、という話だけだ」
「米と相殺するために持っていった、と」
「いつ?」
「六月だと言っていた」
「何年の?」
「その年だ」
「なぜ、お父さんはそんなことを話した?」
「あの頃、俺はもう十何歳だった」
「親父に古い紙を探してくれと言われた」
「何の紙か聞いた」
「荷札だと言っていた」
安生はすぐに聞いた。
「その荷札は?」
「もうない」
「誰が持っていった?」
「知らない」
「見たことは?」
「一度だけ」
「何が書いてあった?」
周明貴は目を閉じた。
記憶を探るように。
「……たしか」
「『沈』という字があった」
安生の指に力が入った。
「ほかには?」
「ない」
「間違いないか?」
「間違いない」
安生は、それ以上問い詰めなかった。
「沈」という字だけで、
再び警戒するには十分だった。
だが、
それでもまだ証拠ではない。
⸻
帰り道、
安生はずっと考えていた。
周長順は王家から米三石を借りていた。
六月八日に借り、
六月十四日に清算している。
その間、
六月十二日には、
南布三反で米一石を清算。
六月十四日には、
さらに南布二反で米二石を清算。
ちょうど三石になる。
もしこの布が同じところから来たものなら、
周長順の米の借りは確かに説明できる。
だが、まだ二つ問題がある。
一つ。
その布は、本当に埠頭の荷なのか。
もう一つ。
もしそうなら、
周長順にはそれを使う権限があったのか。
そして、
さらに厄介な問題があった。
六月十二日。
埠頭の記録には、
「南貨三包」
とある。
王家の帳面には、
「南布三反」
とある。
数字だけを見ると近い。
だが、
包と反は、まったく同じものではない。
安生は河辺まで来た。
そして足を止めた。
しばらくその場に立ったあと、
懐から半分だけ残った紙を取り出した。
そこには相変わらず、
いくつかの文字しか残っていない。
六月十二日、沈記……
安生はそれを見つめた。
ふと考えた。
もし本当にこの紙が周長順の筆跡なら、
なぜ当時、
「沈記」
とだけ書いたのか。
その後の文字が破り取られたのか。
それとも、
もともと最後まで書かなかったのか。
分からない。
⸻
夜。
安生が家に戻ると、
安平はすでに帰っていた。
安生の手にある紙を見ると、
「また何か分かったのか?」
と聞いた。
安生は、ここまでのことを話した。
安平は最後まで聞いた。
すぐには何も言わず、
ただ尋ねた。
「今のところ、周長順が埠頭の荷を使ったと確定できるか?」
「できない」
「周長順が王家から米三石を借りていたことは?」
「確定できる」
「南の荷で返したことは?」
「王家が南の荷を受け取ったことまでは分かる」
「それが埠頭の荷だとは?」
「分からない」
安平はうなずいた。
「じゃあ、今お前が調べているのは」
「結局、二つの帳面だな」
安生は彼を見る。
「そう」
「一つは埠頭の荷の帳面」
「もう一つは王家の米の帳面」
「その間をつなぐものがない」
安平が聞いた。
「誰ならつなげられる?」
安生は黙った。
長く考えてから、
「荷主だ」
「沈記か?」
「そう」
「じゃあ、沈記の人間は?」
安生は首を振った。
「分からない」
安平は安生を見る。
「なら、探せばいい」
安生は答えなかった。
ただ、机の上に広げた紙を一枚ずつ整理した。
そして一番上に、
こう書いた。
「まず、荷が誰のものだったのかを確かめる。そのうえで、誰に処理する権限があったのかを確かめる。」
書き終えてから、
もう一行付け加えた。
「帳面がつながるからといって、二つの出来事を一つのことにしてはいけない。」
安平はその言葉を見た。
そして少し笑った。
「お前が昔から、そのくらい気長だったらな」
「そんなに借金を作らずに済んだかもしれない」
安生が顔を上げる。
「兄貴」
「ん?」
「少し黙っててくれ」
安平は笑った。
「分かった」
部屋が静かになった。
安生はまた帳面に目を落とした。
その夜、
答えは見つからなかった。
だが、
新しい線は見つかった。
周長順の三石の米勘定。
そしてその勘定は、
三包の南の荷が倉から出された前後に、
ちょうど重なっている。
ここから先を調べるなら、
次に探すべきなのは、
埠頭の人間ではない。
二十三年前、
周長順と商いをしていた人間だった。




