第五十六章 陸成安
陸成安は、城南に住んでいた。
安生が訪ねたのは、午後になってからだった。
門は開いたままになっている。
中から、木のぶつかる音が聞こえてきた。
安生は門口に立った。
「誰か、いますか?」
しばらくして、
一人の老人が家の中から出てきた。
「誰を探してる?」
「陸成安さんを。」
老人は安生を見る。
「俺だ。」
安生は一瞬、言葉を失った。
この人がまだ、ここに住んでいるとは思っていなかった。
「安生です。」
陸成安の目が、わずかに変わった。
「安順河の息子か?」
「はい。」
「入れ。」
⸻
家の中は簡素だった。
机が一つ。
椅子が二つ。
壁には古い秤が掛かっている。
安生は腰を下ろした。
すぐには、持ってきた紙を出さなかった。
「陸叔。」
「ん?」
「以前、順豊貨行を仕切っていたんですよね。」
「やってた。」
「何年くらい?」
「十何年かな。」
「その後、どうして辞めたんですか?」
「年を取ったからだ。」
陸成安は少し笑った。
「それに、後になって波止場のやり方も変わった。」
安生はうなずいた。
「今日は。」
「二十三年前の六月のことを聞きに来ました。」
陸成安は驚かなかった。
「分かってる。」
「誰から聞いたんですか?」
「誰からも。」
「じゃあ、どうして?」
「お前くらいの年の者が。」
「昔の帳面だけを聞きに来るなら。」
「俺のところまでは来ない。」
安生は少し笑った。
「じゃあ、単刀直入に聞きます。」
「六月十二日。」
「波止場から南貨三包が持ち出された。」
「知っていますか?」
陸成安は黙った。
「知ってる。」
安生はすぐに尋ねた。
「誰が持ち出した?」
「知らない。」
「誰が決めた?」
「それも分からない。」
「じゃあ、何を知っているんですか?」
陸成安は安生を見る。
「その三包の荷は。」
「ただ持っていかれたわけじゃない。」
安生は眉を寄せた。
「抵帳?」
「ああ。」
「誰の勘定を?」
「米屋だ。」
「姓は?」
陸成安は首を振った。
「覚えてない。」
「王家ですか?」
「違う。」
安生は少し驚いた。
「王家じゃない?」
「違う。」
「じゃあ、どこですか?」
「時間が経ちすぎた。」
「覚えていない。」
安生は無理に聞き出そうとはしなかった。
「そのとき、抵帳の書類を見ましたか?」
「見た。」
「誰が持ってきた?」
「周長順だ。」
「周長順?」
「ああ。」
「何と言っていました?」
陸成安は少し考えた。
「荷主が、荷を使って米の勘定を清算することに同意した。」
「だから、手続きをしてくれ、と。」
安生はすぐに聞いた。
「荷主は誰ですか?」
陸成安は黙った。
「分からない。」
「聞かなかった?」
「聞いた。」
「何と言われた?」
「荷主はもう同意している、と。」
安生は陸成安を見る。
「それを信じたんですか?」
陸成安はうなずいた。
「そのときはな。」
「なぜ?」
「周長順は波止場の管事だった。」
「こういうことは、昔からよくあった。」
「それに、ただ口で言ったわけじゃない。」
「ちゃんと書類を持ってきていた。」
安生の中で何かが動いた。
「その書類は?」
「もうない。」
「実際に見た?」
「見た。」
「何と書いてありました?」
陸成安は目を閉じた。
記憶をたどるように、
しばらく黙っている。
「たしか、南貨三包。」
「それから、姓が一つ。」
「何という姓ですか?」
「沈。」
安生はすっと背筋を伸ばした。
「沈?」
「ああ。」
「確かですか?」
「百パーセントとは言えん。」
「これだけ昔のことだからな。」
「ただ、沈だったと思う。」
安生は何も言わなかった。
頭に、あの古い荷札が浮かんだ。
荷主――沈記。
⸻
「陸叔。」
安生が尋ねる。
「当時、沈記の人間に会ったことはありますか?」
「ある。」
「六月十二日ですか?」
「違う。」
「いつ頃?」
「六月十日くらいだったと思う。」
「何と言っていました?」
「荷はもう届いている、と。」
「それから?」
「受け取る準備をしてくれ、と言った。」
「準備したんですか?」
「した。」
「それなのに、どうして後になって抵帳に?」
陸成安は首を振った。
「分からない。」
安生は黙った。
しばらくしてから尋ねる。
「その三包の荷は。」
「六月六日に入った十二包と同じですか?」
陸成安はすぐには答えなかった。
「分からない。」
「なぜ?」
「倉の中の荷を、俺が検品していたわけじゃない。」
「俺が担当していたのは、貨行側の手続きだけだ。」
「倉の中のどの荷かまでは、分からない。」
安生はうなずいた。
この言葉は重要だった。
陸成安が知っていたのは、
誰かが書類を持ってきて、
荷主が抵帳に同意したと言ったこと。
そして、それに従って手続きをしたこと。
だが、
倉の中のどの荷だったのかまでは知らない。
⸻
安生は六月六日の古い荷札を取り出した。
「これは、知っていますか?」
陸成安は受け取る。
一目見たあと、
明らかに表情が変わった。
「これを。」
「どこで見つけた?」
「倉で。」
「昔のものか?」
「はい。」
陸成安はもう一度、紙を見る。
「これは沈記のものだ。」
「確かですか?」
「確かだ。」
「誰が書いた?」
「それは分からん。」
「沈記の荷。」
「十二包だった?」
「ああ。」
安生は尋ねた。
「じゃあ、六月十二日に。」
「三包持ち出された。」
「それは沈記の荷ですか?」
陸成安は答えなかった。
安生も急かさなかった。
長い沈黙のあと、
陸成安がようやく口を開いた。
「そのときは、そう思っていた。」
「今は?」
「今は、確かめられない。」
安生はうなずいた。
⸻
「もう一つ。」
安生が尋ねる。
「当時、抵帳の書類を許文成に渡しましたか?」
陸成安は首を振った。
「渡してない。」
「なぜ?」
「現金の勘定じゃなかったからだ。」
「貨行と荷主の間の話だった。」
「じゃあ、許文成はどうして知っていた?」
「倉の記録を見たからだろう。」
「何を見た?」
「それは分からん。」
安生は目を伏せた。
ようやく、いくつかの線がつながってきた。
許文成は知っていた。
周長順も知っていた。
陸成安は、その一部を知っている。
安順河も、一部を知っていた。
誰もが、
出来事の一部分しか持っていなかった。
⸻
安生は立ち上がった。
「陸叔。」
「ん?」
「当時、おかしいと思いませんでしたか?」
陸成安は少し笑った。
「もちろん思った。」
「どこが?」
「抵帳の手続きが。」
「簡単すぎた。」
「それでも、なぜやったんですか?」
「周長順を信じていたからだ。」
安生は尋ねた。
「もし、周長順に騙されていたとしたら?」
陸成安は黙った。
「それなら。」
「俺が人を見誤ったってことだ。」
「その後、調べましたか?」
「調べた。」
「いつ?」
「事件の後だ。」
「六月七日?」
「いや。」
「もっと後だ。」
陸成安は棚のところまで歩いていった。
中から古い鉄の箱を取り出した。
蓋を開ける。
中には、黄ばんだ紙が何枚か入っていた。
「これは、その後に俺が残したものだ。」
安生が受け取る。
一枚目は、
六月十三日。
二枚目は、
六月十五日。
三枚目には日付がなかった。
そこには、一文だけ書かれていた。
「周は、もう清算したと言った。」
安生は尋ねた。
「誰が書いた?」
「俺だ。」
「いつ?」
「事件の後だ。」
「なぜ?」
陸成安は、その紙を見た。
「あとになって分かった。」
「その抵帳が。」
「きちんと清算されていなかった。」
安生は顔を上げた。
「どういうことですか?」
「米屋のほうは。」
「確かに米一石を受け取っていた。」
「でも、三包の南貨は。」
「米屋の帳面には、全部は記録されていなかった。」
安生は言葉を失った。
「どうして分かった?」
「あとで照合した。」
「じゃあ、残りの二包は?」
陸成安は首を振った。
「分からない。」
「いつ分かった?」
「六月十五日より後だ。」
「どうして、それ以上調べなかった?」
陸成安は苦笑した。
「その頃には。」
「沈川はもう死んでいた。」
「波止場も混乱していた。」
「許文成は病気になっていた。」
「周長順も、もう何も話そうとしなかった。」
「俺は貨行の人間だ。」
「それ以上調べても。」
「意味がないと思った。」
安生は何も言わなかった。
その言葉は、
安順河から聞いた話と、
ほとんど同じだった。
⸻
「つまり。」
安生はゆっくり言った。
「六月十二日の時点で。」
「実際に清算されたのは、一部だけだった可能性がある。」
陸成安はうなずいた。
「少なくとも、俺が後で確認した限りでは。」
「米屋が認めたのは一石だけだった。」
「三包の荷は。」
「一石の米に対応していたはずだ。」
「でも、なぜ三包だったのか。」
「それは分からない。」
安生は陸成安を見る。
「じゃあ、残りの二包は?」
「分からない。」
「誰が持っていった?」
「分からない。」
「誰が決めた?」
「分からない。」
「周長順は知っていた?」
「たぶん知っていた。」
「なぜ、たぶん?」
「書類を持ってきたのが、あいつだからだ。」
安生はそれ以上、聞かなかった。
陸成安が証明できるのは、
ここまでだった。
周長順が二包を持ち出したとは証明できない。
周長順が着服したとも証明できない。
ただ、
周長順が一枚の書類を持ってきて、
三包の南貨を抵帳として処理するよう求めた。
そして、その後、
その勘定が最後まで合っていなかった。
そこまでは確認できる。
⸻
安生が帰ろうとしたとき、
陸成安が突然呼び止めた。
「安生。」
「はい?」
「お前の父親は。」
「当時、何も調べなかったわけじゃない。」
安生は振り返った。
「どういう意味ですか?」
「調べていた。」
「どこまで?」
「六月十五日までだ。」
「その後は?」
「こう言っていた。」
「このことを続けて調べれば。」
「いろんな人を巻き込むことになる。」
「だから、やめたんですか?」
陸成安は首を振った。
「違う。」
「何と言ったんですか?」
「先に、生きている人間の面倒を見よう、と。」
安生は動かなかった。
陸成安は続けた。
「お前は、あの頃まだ小さかった。」
「お前の母親を、これ以上心配させたくなかったんだろう。」
「だから、確かめられることだけ残した。」
「確かめられないことは。」
「それ以上、追わなかった。」
安生は長い間、黙っていた。
「どうして、俺には何も言わなかったんですか?」
陸成安は少し笑った。
「お前は、あの頃。」
「まだ七歳だったからな。」
安生は何も言わなかった。
家を出る頃には、
空はもう暗くなりかけていた。
街角に立ち、
今日分かったことを一つずつ思い返す。
六月十二日。
南貨三包。
米一石。
少なくとも一部の勘定は合っていた。
それでも、残りの二包は行方が分からない。
けれど安生が気にしていたのは、
その二包のことだけではなかった。
陸成安が最後に言った言葉だった。
――「お前の父親は、当時、何も調べなかったわけじゃない。」
安生は初めて気づいた。
自分がこのところ調べていたのは、
父親が途中で終わらせた事件ではなかった。
父親が、途中まで調べたうえで、
自分から手を止めたものだった。
そして今、
安生は父親が立ち止まった場所まで来ている。
この先には、
もう誰も代わりに答えを教えてくれる人はいなかった。




