↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/110

第五十六章 陸成安

陸成安は、城南に住んでいた。


安生が訪ねたのは、午後になってからだった。


門は開いたままになっている。


中から、木のぶつかる音が聞こえてきた。


安生は門口に立った。


「誰か、いますか?」


しばらくして、


一人の老人が家の中から出てきた。


「誰を探してる?」


「陸成安さんを。」


老人は安生を見る。


「俺だ。」


安生は一瞬、言葉を失った。


この人がまだ、ここに住んでいるとは思っていなかった。


「安生です。」


陸成安の目が、わずかに変わった。


「安順河の息子か?」


「はい。」


「入れ。」


⸻


家の中は簡素だった。


机が一つ。


椅子が二つ。


壁には古い秤が掛かっている。


安生は腰を下ろした。


すぐには、持ってきた紙を出さなかった。


「陸叔。」


「ん?」


「以前、順豊貨行を仕切っていたんですよね。」


「やってた。」


「何年くらい?」


「十何年かな。」


「その後、どうして辞めたんですか?」


「年を取ったからだ。」


陸成安は少し笑った。


「それに、後になって波止場のやり方も変わった。」


安生はうなずいた。


「今日は。」


「二十三年前の六月のことを聞きに来ました。」


陸成安は驚かなかった。


「分かってる。」


「誰から聞いたんですか?」


「誰からも。」


「じゃあ、どうして?」


「お前くらいの年の者が。」


「昔の帳面だけを聞きに来るなら。」


「俺のところまでは来ない。」


安生は少し笑った。


「じゃあ、単刀直入に聞きます。」


「六月十二日。」


「波止場から南貨三包が持ち出された。」


「知っていますか?」


陸成安は黙った。


「知ってる。」


安生はすぐに尋ねた。


「誰が持ち出した?」


「知らない。」


「誰が決めた?」


「それも分からない。」


「じゃあ、何を知っているんですか?」


陸成安は安生を見る。


「その三包の荷は。」


「ただ持っていかれたわけじゃない。」


安生は眉を寄せた。


「抵帳?」


「ああ。」


「誰の勘定を?」


「米屋だ。」


「姓は?」


陸成安は首を振った。


「覚えてない。」


「王家ですか?」


「違う。」


安生は少し驚いた。


「王家じゃない?」


「違う。」


「じゃあ、どこですか?」


「時間が経ちすぎた。」


「覚えていない。」


安生は無理に聞き出そうとはしなかった。


「そのとき、抵帳の書類を見ましたか?」


「見た。」


「誰が持ってきた?」


「周長順だ。」


「周長順?」


「ああ。」


「何と言っていました?」


陸成安は少し考えた。


「荷主が、荷を使って米の勘定を清算することに同意した。」


「だから、手続きをしてくれ、と。」


安生はすぐに聞いた。


「荷主は誰ですか?」


陸成安は黙った。


「分からない。」


「聞かなかった?」


「聞いた。」


「何と言われた?」


「荷主はもう同意している、と。」


安生は陸成安を見る。


「それを信じたんですか?」


陸成安はうなずいた。


「そのときはな。」


「なぜ?」


「周長順は波止場の管事だった。」


「こういうことは、昔からよくあった。」


「それに、ただ口で言ったわけじゃない。」


「ちゃんと書類を持ってきていた。」


安生の中で何かが動いた。


「その書類は?」


「もうない。」


「実際に見た?」


「見た。」


「何と書いてありました?」


陸成安は目を閉じた。


記憶をたどるように、


しばらく黙っている。


「たしか、南貨三包。」


「それから、姓が一つ。」


「何という姓ですか?」


「沈。」


安生はすっと背筋を伸ばした。


「沈?」


「ああ。」


「確かですか?」


「百パーセントとは言えん。」


「これだけ昔のことだからな。」


「ただ、沈だったと思う。」


安生は何も言わなかった。


頭に、あの古い荷札が浮かんだ。


荷主――沈記。


⸻


「陸叔。」


安生が尋ねる。


「当時、沈記の人間に会ったことはありますか?」


「ある。」


「六月十二日ですか?」


「違う。」


「いつ頃?」


「六月十日くらいだったと思う。」


「何と言っていました?」


「荷はもう届いている、と。」


「それから?」


「受け取る準備をしてくれ、と言った。」


「準備したんですか?」


「した。」


「それなのに、どうして後になって抵帳に?」


陸成安は首を振った。


「分からない。」


安生は黙った。


しばらくしてから尋ねる。


「その三包の荷は。」


「六月六日に入った十二包と同じですか?」


陸成安はすぐには答えなかった。


「分からない。」


「なぜ?」


「倉の中の荷を、俺が検品していたわけじゃない。」


「俺が担当していたのは、貨行側の手続きだけだ。」


「倉の中のどの荷かまでは、分からない。」


安生はうなずいた。


この言葉は重要だった。


陸成安が知っていたのは、


誰かが書類を持ってきて、


荷主が抵帳に同意したと言ったこと。


そして、それに従って手続きをしたこと。


だが、


倉の中のどの荷だったのかまでは知らない。


⸻


安生は六月六日の古い荷札を取り出した。


「これは、知っていますか?」


陸成安は受け取る。


一目見たあと、


明らかに表情が変わった。


「これを。」


「どこで見つけた?」


「倉で。」


「昔のものか?」


「はい。」


陸成安はもう一度、紙を見る。


「これは沈記のものだ。」


「確かですか?」


「確かだ。」


「誰が書いた?」


「それは分からん。」


「沈記の荷。」


「十二包だった?」


「ああ。」


安生は尋ねた。


「じゃあ、六月十二日に。」


「三包持ち出された。」


「それは沈記の荷ですか?」


陸成安は答えなかった。


安生も急かさなかった。


長い沈黙のあと、


陸成安がようやく口を開いた。


「そのときは、そう思っていた。」


「今は?」


「今は、確かめられない。」


安生はうなずいた。


⸻


「もう一つ。」


安生が尋ねる。


「当時、抵帳の書類を許文成に渡しましたか?」


陸成安は首を振った。


「渡してない。」


「なぜ?」


「現金の勘定じゃなかったからだ。」


「貨行と荷主の間の話だった。」


「じゃあ、許文成はどうして知っていた?」


「倉の記録を見たからだろう。」


「何を見た?」


「それは分からん。」


安生は目を伏せた。


ようやく、いくつかの線がつながってきた。


許文成は知っていた。


周長順も知っていた。


陸成安は、その一部を知っている。


安順河も、一部を知っていた。


誰もが、


出来事の一部分しか持っていなかった。


⸻


安生は立ち上がった。


「陸叔。」


「ん?」


「当時、おかしいと思いませんでしたか?」


陸成安は少し笑った。


「もちろん思った。」


「どこが?」


「抵帳の手続きが。」


「簡単すぎた。」


「それでも、なぜやったんですか?」


「周長順を信じていたからだ。」


安生は尋ねた。


「もし、周長順に騙されていたとしたら?」


陸成安は黙った。


「それなら。」


「俺が人を見誤ったってことだ。」


「その後、調べましたか?」


「調べた。」


「いつ?」


「事件の後だ。」


「六月七日?」


「いや。」


「もっと後だ。」


陸成安は棚のところまで歩いていった。


中から古い鉄の箱を取り出した。


蓋を開ける。


中には、黄ばんだ紙が何枚か入っていた。


「これは、その後に俺が残したものだ。」


安生が受け取る。


一枚目は、


六月十三日。


二枚目は、


六月十五日。


三枚目には日付がなかった。


そこには、一文だけ書かれていた。


「周は、もう清算したと言った。」


安生は尋ねた。


「誰が書いた?」


「俺だ。」


「いつ?」


「事件の後だ。」


「なぜ?」


陸成安は、その紙を見た。


「あとになって分かった。」


「その抵帳が。」


「きちんと清算されていなかった。」


安生は顔を上げた。


「どういうことですか?」


「米屋のほうは。」


「確かに米一石を受け取っていた。」


「でも、三包の南貨は。」


「米屋の帳面には、全部は記録されていなかった。」


安生は言葉を失った。


「どうして分かった?」


「あとで照合した。」


「じゃあ、残りの二包は?」


陸成安は首を振った。


「分からない。」


「いつ分かった?」


「六月十五日より後だ。」


「どうして、それ以上調べなかった?」


陸成安は苦笑した。


「その頃には。」


「沈川はもう死んでいた。」


「波止場も混乱していた。」


「許文成は病気になっていた。」


「周長順も、もう何も話そうとしなかった。」


「俺は貨行の人間だ。」


「それ以上調べても。」


「意味がないと思った。」


安生は何も言わなかった。


その言葉は、


安順河から聞いた話と、


ほとんど同じだった。


⸻


「つまり。」


安生はゆっくり言った。


「六月十二日の時点で。」


「実際に清算されたのは、一部だけだった可能性がある。」


陸成安はうなずいた。


「少なくとも、俺が後で確認した限りでは。」


「米屋が認めたのは一石だけだった。」


「三包の荷は。」


「一石の米に対応していたはずだ。」


「でも、なぜ三包だったのか。」


「それは分からない。」


安生は陸成安を見る。


「じゃあ、残りの二包は?」


「分からない。」


「誰が持っていった?」


「分からない。」


「誰が決めた?」


「分からない。」


「周長順は知っていた?」


「たぶん知っていた。」


「なぜ、たぶん?」


「書類を持ってきたのが、あいつだからだ。」


安生はそれ以上、聞かなかった。


陸成安が証明できるのは、


ここまでだった。


周長順が二包を持ち出したとは証明できない。


周長順が着服したとも証明できない。


ただ、


周長順が一枚の書類を持ってきて、


三包の南貨を抵帳として処理するよう求めた。


そして、その後、


その勘定が最後まで合っていなかった。


そこまでは確認できる。


⸻


安生が帰ろうとしたとき、


陸成安が突然呼び止めた。


「安生。」


「はい?」


「お前の父親は。」


「当時、何も調べなかったわけじゃない。」


安生は振り返った。


「どういう意味ですか?」


「調べていた。」


「どこまで?」


「六月十五日までだ。」


「その後は?」


「こう言っていた。」


「このことを続けて調べれば。」


「いろんな人を巻き込むことになる。」


「だから、やめたんですか?」


陸成安は首を振った。


「違う。」


「何と言ったんですか?」


「先に、生きている人間の面倒を見よう、と。」


安生は動かなかった。


陸成安は続けた。


「お前は、あの頃まだ小さかった。」


「お前の母親を、これ以上心配させたくなかったんだろう。」


「だから、確かめられることだけ残した。」


「確かめられないことは。」


「それ以上、追わなかった。」


安生は長い間、黙っていた。


「どうして、俺には何も言わなかったんですか?」


陸成安は少し笑った。


「お前は、あの頃。」


「まだ七歳だったからな。」


安生は何も言わなかった。


家を出る頃には、


空はもう暗くなりかけていた。


街角に立ち、


今日分かったことを一つずつ思い返す。


六月十二日。


南貨三包。


米一石。


少なくとも一部の勘定は合っていた。


それでも、残りの二包は行方が分からない。


けれど安生が気にしていたのは、


その二包のことだけではなかった。


陸成安が最後に言った言葉だった。


――「お前の父親は、当時、何も調べなかったわけじゃない。」


安生は初めて気づいた。


自分がこのところ調べていたのは、


父親が途中で終わらせた事件ではなかった。


父親が、途中まで調べたうえで、


自分から手を止めたものだった。


そして今、


安生は父親が立ち止まった場所まで来ている。


この先には、


もう誰も代わりに答えを教えてくれる人はいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。