第五十四章 誰が決めたのか
翌朝早く。
安生はまず波止場へ向かった。
趙徳全のところへは行かなかった。
西倉へ入る。
馬成林が木箱を運んでいた。
安生を見ると、少し笑った。
「本当に来たな」
「昨日、言ってただろ」
「何を?」
「お前の親父が、昔ここを管理してたって」
「ああ」
「だから、見てみたい」
「六月十二日」
「その日に、倉の記録に誰が名前を書いたのか」
馬成林は手にしていた箱を置いた。
「残ってると思うか?」
「分からない」
「じゃあ、自分で探せ」
「分かった」
――
西倉には、古い木箱がいくつも積まれていた。
新しいものに替えられた箱もあれば。
昔の番号がそのまま残っているものもある。
馬成林が古い木の戸棚を一つ引き出した。
「これは親父が残したものだ」
「その後、誰も整理してない」
安生はしゃがみ込み。
一枚ずつ紙をめくった。
ほとんどは入庫と出庫の記録だった。
簡単な備考もある。
六月九日。
「東倉より西倉へ移す」
六月十日。
「検品待ち」
六月十一日。
「未整理」
そして六月十二日。
安生の手が止まった。
紙には、
南貨 三包、出庫。
とある。
その下に、たった一文字。
「周」
安生は長いこと見つめた。
「この『周』は」
「親父だ」
馬成林が言った。
「確かか?」
「親父の字は見てきた」
「この字は、親父のものだ」
安生はうなずいた。
だが、それ以上は決めつけなかった。
紙を裏返す。
何もない。
「ほかに記録は?」
「ない」
「この紙は、もともとどこにあった?」
「倉の帳面だ」
「いつ取り出された?」
馬成林は首を振った。
「分からない」
――
安生はさらに聞いた。
「お前の親父は、この三包の荷について話してなかったか?」
「話してた」
「何て?」
「帳尻を合わせるための荷だって」
「誰の帳尻?」
「分からない」
「誰に渡した?」
「分からない」
「じゃあ、どうして『帳尻を合わせる』なんて言った?」
馬成林は少し考えた。
「売ったんじゃないからだ」
「前に借りていた金の代わりに、荷を渡した」
安生はうなずいた。
「波止場では、よくあったのか?」
「昔はな」
「どうして?」
「顔見知り同士なら」
「商人が金を払えないときもある」
「そういうときは、管事が荷を代わりに出させる」
「それで帳尻を合わせる」
安生は尋ねた。
「その場合、帳面には残す?」
「残す」
「でも?」
「貨物の帳面に書くこともある」
「借金の帳面に書くこともある」
「両方に書くこともある」
安生は眉を寄せた。
「それじゃ、混乱しないか?」
「もちろん混乱する」
馬成林は少し笑った。
「だから、あとになってやり方が変わった」
「どう変わった?」
「出す荷には、全部、受領票をつけるようになった」
「昔はなかった?」
「昔は、そこまで厳しくなかった」
安生は何も言わなかった。
ふと。
許文成が残した言葉を思い出した。
六月十二日。このことは、私が記すべきではない。
もし昔はこういう処理が珍しくなかったのなら。
許文成が書かなかったのは。
誰かに脅されたからとは限らない。
そもそもこの荷が。
彼の担当する帳面の範囲に入っていなかった可能性もある。
――
「じゃあ、この『周』は何だ?」
安生が尋ねる。
馬成林は紙を指した。
「親父かもしれない」
「周長順かもしれない」
「どうして?」
「二人とも周姓だからだ」
「でも、お前は親父の字だと言った」
「これは倉の記録だ」
「帳場の記録じゃない」
「倉の人間が書いたものだ」
安生は一瞬、黙った。
「さっき、お前は」
「この字は親父に似ていると言った」
馬成林も黙った。
「そうだ」
安生は紙を机の上へ戻した。
「じゃあ」
「今のところ、分からないということだな」
馬成林はしばらく黙っていた。
「分からない」
安生はうなずいた。
「じゃあ、分からないと書いておく」
――
昼。
安生は王福のところへ向かった。
王福は米を量っていた。
安生を見ると、そろばんを脇へ押しやった。
「また来たのか?」
「ああ」
「今度は何を調べる?」
「六月十二日」
王福の笑顔が、少しだけ止まった。
「まだ、あの南貨か?」
「知ってるのか?」
「親父から聞いた」
「何て?」
「あの日、誰かが布を持ってきて、米と交換したって」
「何反?」
「三反」
安生はすぐに聞いた。
「確かか?」
「親父の帳面に書いてある」
「見せてくれ」
王福は古い帳面を取り出した。
六月十二日のところを開く。
確かに、一行あった。
南布 三反、米一石と相殺。
名前はない。
安生は黙った。
王福が尋ねる。
「どうした?」
「親父さんは、その荷がどこから来たか知ってた?」
「波止場だと言ってた」
「確かか?」
「俺は知らない」
「帳面には?」
「書いてない」
安生はさらに頁をめくった。
六月十三日。
何もない。
六月十四日。
何もない。
六月十五日。
一行あった。
米一石、清算済み。
安生はそこを指した。
「これは?」
「米の分が、もう済んだってことだろう」
「誰に?」
「分からない」
「どうして分からない?」
「親父が帳面をつけるとき」
「昔から付き合いのある相手には、名前を書かないこともあった」
安生は顔を上げた。
「顔見知り?」
「ああ」
「親父さんが知っていた?」
「たぶんな」
「お前は?」
「知らない」
――
安生は二冊の帳面を並べた。
片方には。
六月十二日。
南貨三包。
出庫。
周。
もう片方には。
六月十二日。
南布三反。
米一石と相殺。
二つは、よく似ている。
だが。
そのまま一本の線で結ぶことはできない。
三包の荷と三反の布は、同じ単位ではない。
波止場の「南貨」と。
王記に入った「南布」も。
同じものだとは限らない。
安生は、二つを線で結ばなかった。
代わりに、新しい一行を書いた。
「対応する可能性はあるが、直接の証明はない。」
王福がそれを見た。
「お前、最近」
「だんだん帳場の人間みたいになってきたな」
安生は少し笑った。
「昔は帳面を見るのが一番嫌いだった」
「今は?」
「今は分かった」
「帳面を見るほうが、喧嘩するより面倒だ」
王福も笑った。
――
午後。
安生はまた趙徳全を訪ねた。
「趙叔」
「今度は何だ?」
「昔は、荷を使って帳尻を合わせることが」
「よくあったのか?」
趙徳全はうなずいた。
「あった」
「誰の許可が必要だった?」
「金額による」
「米数石くらいなら?」
「管事がうなずけば、それでいい」
「帳場にも伝える?」
「建前ではな」
「実際は?」
趙徳全は笑った。
「実際は」
「そのとき誰が何を知っていたかだ」
安生は尋ねる。
「じゃあ、管事が」
「この荷は、もう帳尻がついたと言ったら?」
「倉の者は、そのまま出していい」
「帳場に書かなくても?」
「そういうこともある」
「問題が起きたら?」
趙徳全は安生を見る。
「問題が起きたら」
「あとで帳面を突き合わせる」
「合わなかったら?」
「人を探す」
「誰から?」
「まず管事だ」
安生はうなずいた。
「分かった」
趙徳全は首を振った。
「まだ分かってない」
「何が?」
「昔の波止場はな」
「今みたいじゃない」
「今の人間はよく聞く」
「誰が署名した」
「誰が判を押した」
「誰が責任を持つ」
「昔はな」
「管事が一言言えば」
「それで事が動いた」
「みんな、それを知ってた」
「そして、それが当たり前だった」
安生は黙った。
ふと。
自分が昔、借金の取り立てをしていたときのことを思い出した。
陳二が、
「誰が借りてる?」
と聞く。
安生は、それ以上聞かなかった。
誰かが、
「あいつが借りている」
と言えば。
取り立てに行った。
誰かが、
「兄弟だろ」
と言えば。
助けた。
誰かが、
「これが決まりだ」
と言えば。
そのまま受け入れた。
誰も、本当には尋ねなかった。
その「決まり」を。
誰が決めたのか。
――
夕方。
安生が家へ戻ると。
安順河は庭で古い椅子を直していた。
安生は六月十二日の倉の記録を、その前に置いた。
「この『周』」
「周長順か?」
父は紙を見た。
「似ている」
「確かか?」
「確かとは言えない」
安生はうなずいた。
「じゃあ、親父は当時」
「この三包が持ち出されたことを知っていた?」
「知っていた」
「誰が決めた?」
父は黙った。
「周長順だ」
「本人がそう言った?」
「ああ」
「何て?」
安順河は少し間を置いた。
「誰かが荷を持っていって、米と相殺した」
「もう帳尻はついている、と」
安生は尋ねた。
「誰なのか、聞いた?」
「聞いた」
「答えた?」
「こう言った」
「分かっても仕方がない」
安生は眉を寄せる。
「どういう意味?」
「その人間が借りていたのは、波止場の金じゃない」
「個人の勘定だった」
「荷も、その人間のものだった」
「だから」
「全部を波止場の帳面に残す必要はない、と」
安生は言葉を失った。
「荷は、波止場のものじゃなかったのか?」
「当時はな」
「荷が倉に入っても」
「持ち主がそのままのものもあった」
「波止場が預かっているだけのものもあった」
「もう引き渡しが済んでいるものもあった」
「境目は、今ほどはっきりしていなかった」
安生は黙った。
そのとき初めて気づいた。
自分はずっと。
「倉に入った」
ということを。
「波止場のものになった」
と同じ意味で考えていた。
だが。
その二つは。
もともと同じではなかった。
――
「親父」
安生が尋ねた。
「じゃあ、どうして当時」
「このことを問題だと思った?」
安順河は安生を見る。
「帳面が合わなかった」
「どこが?」
「許文成のところでは」
「記録がない」
「倉のほうには」
「記録がある」
「だから疑った?」
「違う」
父は首を振った。
「ただ」
「普通に帳尻を合わせた荷なら」
「どこから来たのか」
「誰のものなのか」
「その記録が残っているはずだと思った」
「でも、あの日はなかった」
安生は尋ねた。
「それで、あとから調べなかった?」
父は椅子の修理に目を戻した。
「周長順が言った」
「もう片づいた、と」
「俺には、あいつが荷を取った証拠もなかった」
「誰かを騙した証拠もなかった」
「そもそも、あの荷が持ち主のものじゃないという証拠もなかった」
「だから、そこで止めた」
安生は父を見た。
「今、後悔してる?」
安順河の手が止まった。
長い沈黙のあと。
「後悔している」
「でも、誰が何をしたか分かっているからじゃない」
「自分でも、おかしいと思っていたのに」
「もういいだろうと思って、聞くのをやめたことを後悔している」
安生は何も言わなかった。
父は顔を上げた。
「お前が今、これを調べてるなら」
「俺と同じ間違いをするな」
「どんな間違い?」
「証拠がないからといって」
「何も起きなかったことにするな」
「でも」
「おかしいと思ったからといって」
「自分で誰かを犯人にするな」
安生は父を見た。
しばらくして。
一度だけ、うなずいた。
「分かった」
――
その夜。
安生はすべての紙を、もう一度並べた。
六月三日。
六十両。
六月六日。
二十両、未収。
六月七日。
河辺で事故。
六月九日。
二包、あるいは三包の南貨を倉から倉へ移す。
六月十二日。
南貨三包、出庫。
周。
六月十二日。
南布三反、米一石と相殺。
六月十五日。
米一石、清算済み。
それから。
許文成の、抜け落ちた一頁。
安生は長いこと見つめた。
そして紙に書いた。
「今、確かめられるのは、誰かが三包の荷を盗んだということではない。」
「六月十二日に、三包の荷を使って、一つの勘定が処理されたということだ。」
少し止まってから。
さらに書く。
「だが、その勘定が誰のものだったのか。」
「荷が誰のものだったのか。」
「誰にそれを決める権限があったのか。」
「そして、最後に誰が持っていったのか。」
「それは、まだ分からない。」
書き終える。
安生は筆を置いた。
窓の外は、もう静かだった。
今度は。
急いで誰か一人を責任者にしようとは思わなかった。
ようやく分かり始めたからだ。
一つの出来事を調べるとき。
難しいのは、悪い人間を見つけることではない。
そもそも。
その出来事が。
いったい誰の問題だったのか。
そこからまだ、分かっていないことなのだ。




