第五十三章 抜け落ちた一頁
翌朝。
安生は朝早く許家へ向かった。
許蘭は庭で洗濯物を干していた。
安生を見ると、少し驚いた顔をした。
「こんなに早く?」
「もう一つ、聞きたいことがある」
「何?」
「親父さんの、あの小冊子」
許蘭は手を止めた。
「どうしたの?」
「六月の途中が」
「一頁、抜けてる」
許蘭は少し考えた。
「あの帳面は、昔からそうだった」
「どの頁が抜けてるか、分かる?」
「分からない」
「お父さんは、何か言ってなかった?」
「言ってない」
安生は小冊子を差し出した。
「もう一度、よく見てみて」
許蘭は受け取り、何度か頁をめくった。
そして、六月七日と六月十五日の間で手を止めた。
「確かに、一頁ない」
「昔から?」
「覚えてる」
「いつ気づいた?」
「父が重くなった頃」
安生は顔を上げた。
「そのとき、聞いた?」
「聞いた」
「何て?」
許蘭は少し黙った。
「父は言った」
「その頁は帳面じゃないって」
安生は一瞬、言葉を失った。
「どういう意味?」
「私も、そのときは分からなかった」
「帳場に見せるための頁じゃない」
「自分で残しておいたものだって」
安生は眉を寄せた。
「その頁は、どこにある?」
「もうないって言ってた」
「自分で破ったのか?」
「分からない」
安生は、それ以上は聞かなかった。
ただ尋ねた。
「お父さん、ほかにも帳面を持ってなかった?」
「ない」
「紙は?」
「何枚かある」
「見せてもらえる?」
許蘭は安生を見た。
少し考えてから。
うなずいた。
――
許蘭は家の中へ入り。
小さな木箱を持ってきた。
中には数枚の紙が入っていた。
薬の処方箋。
古い領収書。
そして、何度も折りたたまれた小さな紙が一枚。
安生はすぐには手を伸ばさなかった。
「これは?」
「分からない」
許蘭が言った。
「父が亡くなってから」
「片づけているときに見つけた」
「見たことは?」
「少しだけ」
「何が書いてある?」
「名前と数字ばかり」
安生は紙を受け取り。
ゆっくりと広げた。
薄い紙だった。
そこには数行しかない。
六月六日。
周が、先に記しておけと言った。
六月七日。
河辺で事故。
その下に、一行。
上の二行よりも明らかに濃い。
あとから書き足したような筆跡だった。
六月十二日。このことは、私が記すべきではない。
安生の手が止まった。
許蘭も、その一文を見た。
「どういう意味?」
「分からない」
「誰が書いたか分かる?」
安生は首を振った。
「お父さんの字に似てる」
「でも、確かとは言えない」
許蘭は目を伏せた。
「私、子どもの頃に父に聞いたことがある」
「何を?」
「どうして、いつもあんなにいろんなことを書いているのかって」
「何て答えた?」
「帳場の人間は」
「ときどき、知りすぎるんだって」
安生は何も言わなかった。
許蘭は続けた。
「それで、また聞いた」
「じゃあ、どうして書くのって」
「父は言った」
「書かなければ」
「あとになって、誰も」
「自分が何を見たのか、分からなくなるからだって」
安生は紙を見下ろした。
その言葉を。
覚えておこうと思った。
――
「この紙は」
安生が尋ねた。
「ずっと、どこにあった?」
「木箱」
「この木箱は、昔は?」
「ベッドの下」
「父が病気だったときも?」
「そこにあった」
「誰かが動かしたことは?」
「分からない」
安生はうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
この紙は確かに重要だった。
だが、これだけでは六月十二日に何が起きたのかは分からない。
せいぜい。
許文成が六月十二日に、何かがあったことを知っていた。
そして、それを自分では記録すべきではないと思っていた。
なぜか。
分からない。
誰かに書くなと言われたのか。
分からない。
紙にある「周」が周長順を指しているのか。
それも分からない。
安生は、そこで考えるのを止めた。
――
許家を出たあと。
安生は波止場へ向かった。
趙徳全を見つける。
「趙叔」
「ん?」
「許文成のこと、覚えてる?」
「覚えてる」
「許文成は、全部の帳面をつけてたのか?」
「いや」
「じゃあ、どうして六月十二日は、自分が記すべきじゃないって書いたんだ?」
趙徳全は一瞬、表情を変えた。
「どこでそれを?」
「残したものに書いてあった」
趙徳全は黙った。
しばらくして。
ようやく言った。
「許文成は、全部の帳面をつけられたわけじゃない」
「なぜ?」
「波止場の帳面には、何種類かある」
「金」
「荷」
「船」
「倉」
「いろんなことを、それぞれ別の人間が記録する」
安生は尋ねた。
「六月十二日は?」
趙徳全は首を振った。
「分からない」
「じゃあ、誰が知ってる?」
趙徳全は長いこと考えた。
「正式な出庫なら」
「倉の者が知っている」
「帳尻を合わせる取引なら」
「管事が知っている」
「金のことなら」
「帳場が知っている」
「船なら」
「船の者が知っている」
安生はうなずいた。
「つまり」
「一人じゃ全部は分からない」
「そういうことだ」
安生は黙った。
そのとき、ふと分かった。
許文成の言っていた、
「帳場の人間は、ときどき知りすぎる」
という言葉は。
帳場の人間が、すべてを知っているという意味ではない。
いろんな人間の記録を、別々に目にするからだ。
だから。
それぞれの記録が食い違ったとき。
どこかがおかしいことに気づける。
――
午後。
安生は馬成林を訪ねた。
「また来た」
馬成林は安生を見る。
「本当に終わらないな」
「あと少し」
「何が?」
「お父さんは、許文成のことを話してなかった?」
馬成林はしばらく考えた。
「話してた」
「いつ?」
「病気になった頃」
「何て?」
「許文成は、あまりにも真面目だったって」
「どういう意味?」
「分からない」
「ほかには?」
「一つ、言ってた」
馬成林は少し間を置いた。
「『帳面によっては、あまりはっきり残さないほうがいい』って」
安生が顔を上げた。
「確かか?」
「覚えてる」
「なぜ?」
「俺がそのとき聞いたからだ」
「帳面は、詳しいほうがいいんじゃないのかって」
「父は言った」
「仕事をする人間は、そう思う」
「でも、管事をする人間は、そう思わないこともある」
安生は黙った。
その言葉で初めて。
六月十二日の問題が。
単に、
「誰が荷を持っていったのか」
という話ではないのかもしれないと思った。
むしろ。
なぜ普通に出庫されたはずの荷について。
許文成は、自分が記録すべきではないと思ったのか。
――
夜。
安生が家へ戻ると。
安順河は食事をしていた。
安生は向かいに座った。
すぐには聞かなかった。
何口か食べてから。
ようやく口を開いた。
「親父」
「ん?」
「許文成を知ってる?」
父は顔を上げた。
「知ってる」
「どんな人だった?」
安順河は少し考えた。
「仕事が細かい人間だった」
「何でも記録する?」
「そうだ」
「『記さないほうがいい帳面もある』って、言われたことは?」
父の箸が止まった。
安生は、それを見た。
だが、追及はしなかった。
ただ尋ねた。
「六月十二日」
「何があったか、知ってる?」
安順河は黙った。
長い沈黙のあと。
ようやく言った。
「全部は知らない」
「じゃあ、何を知ってる?」
「その日」
父は箸を置いた。
「誰かが波止場へ荷を取りに来た」
「誰?」
「分からない」
「何を?」
「布だ」
安生の呼吸が一瞬止まった。
「何包?」
「三包」
「見たの?」
「見た」
「誰が渡した?」
「分からない」
「周長順?」
「分からない」
「許文成は知ってた?」
「知ってた」
「どうして記録しなかった?」
安順河は目を伏せた。
「その三包は」
「普通の出庫じゃなかった」
安生は父を見た。
「どういう意味?」
「誰かが言った」
「帳尻を合わせるための荷だと」
「でも、正式な手続きはそろっていなかった」
「誰が決めた?」
「分からない」
「誰が持っていった?」
「分からない」
「じゃあ、どうして調べなかった?」
安順河は答えなかった。
安生は待った。
長い時間が過ぎて。
父がようやく口を開いた。
「その日」
「周長順が俺に言った」
「もう調べるな、と」
安生は尋ねた。
「何て?」
「この荷は」
「もともと倉に置いておくべきものじゃなかった、と」
安生は言葉を失った。
「どういう意味?」
「分からない」
「説明は?」
「なかった」
「親父も、それ以上聞かなかった?」
「聞かなかった」
安生は父を見る。
「なぜ?」
父は目を伏せた。
「翌日」
「お前が、また具合を悪くしたからだ」
安生は黙った。
また、この理由だった。
どこまで調べても。
最後には六月七日に戻ってくる。
あの川へ。
そして。
自分自身へ。
――
その夜。
安生は一人で机に向かった。
今日分かったことを、もう一度書き出す。
六月十二日。
南貨三包が出庫した。
帳尻を合わせるための荷だった可能性がある。
手続きは完全ではなかった。
許文成は知っていた。
だが正式な帳面には残していない。
周長順も知っていた。
安順河も知っていた。
少なくとも一人が、荷を受け取っている。
だが、その人物は分からない。
そして。
安生はふと気づいた。
自分はずっと、
「誰が三包の布を持っていったのか」
と考えていた。
だが、それより大事な問いがある。
誰が、この三包の荷を普通の帳面に入れないと決めたのか。
荷を持っていった人間は。
ただ指示されたことを実行しただけかもしれない。
本当に決めた人間は。
一度も布に触れていないかもしれない。
安生は、その言葉を書き残した。
そして、その下にもう一行。
「決めた者」と「実行した者」は、分けて考える。
書き終えると。
安生は筆を置いた。
そこへ、安平が帰ってきた。
机の上の紙を見る。
「また何か分かったのか?」
安生は紙を渡した。
安平は読み終えると。
しばらく黙っていた。
「お前が今調べてるのは」
「もう、八十両じゃないな」
安生はうなずいた。
「そうだ」
「じゃあ、何を調べる?」
安生は机の上に置かれた古い紙を見た。
「六月十二日」
「誰が決めたのか」
「誰が実行したのか」
「誰が知っていたのか」
「そして、あとになって誰が黙ったのか」
安平は安生を見る。
「もし最後に分かったのが」
「こいつらの誰も、金を取ってなかったら?」
安生は少し黙った。
そして言った。
「そのときは」
「俺が、最初から問いを間違えてたってことだ」
安平はうなずいた。
「じゃあ、今は?」
安生は窓の外を見る。
「今はまず」
「問いを正しくする」
机の上の灯が、かすかに揺れた。
抜け落ちた一頁は。
まだ戻ってこない。
けれど安生は、初めて分かった。
あの一頁から失われていたのは。
数字ではないのかもしれない。
一つの決定だった。




