第四十八章 倉庫の帳面
翌日。
安生は、また波止場へ向かった。
今回は、先に誰かを訪ねることはしなかった。
そのまま古い倉庫へ入った。
東倉は、もう何年も使われていない。
扉の錠も、何度か取り替えられていた。
中には、使われなくなった木の棚が積まれている。
壁際には、当時の木札も残っていた。
ただ、そこに書かれていた文字は、もうほとんど読めない。
安生は中を長いあいだ探した。
何も見つからなかった。
そこへ趙徳全がやって来た。
「何を探してる?」
「倉庫の古い記録です。」
「そんなもの、ここにはもうない。」
「全部ですか?」
「全部じゃない。」
趙徳全は壁際を指した。
「昔、そこに棚があった。」
「あとで運び出した。」
「どこへ?」
「帳場だ。」
安生はすぐに尋ねた。
「今もありますか?」
「たぶん、いくらか残ってる。」
⸻
古い帳場は、もう昔の姿ではなかった。
窓も扉も取り替えられている。
ただ、壁際の木の棚だけは残っていた。
趙徳全は長いあいだ探し。
ようやく、一番下から一つの木箱を引き出した。
「これかもしれん。」
安生は受け取った。
木箱には名前がない。
ただ、厚い埃が積もっていた。
蓋を開ける。
中には古い紙がぎっしり入っていた。
出庫伝票。
入庫伝票。
そして、黄ばんだ臨時の記録。
安生は一枚ずつ確認していった。
すぐに気づいた。
これまで見てきた帳面とは、記録の仕方が違う。
帳場が記録していたのは金だった。
倉庫が記録していたのは荷物だった。
二つは、すべてが同じ日に記録されるわけではない。
安生は自分の紙を取り出した。
「六月六日。」
「布十二包。」
「そのうち二包が未検品。」
何枚かめくる。
やがて、一枚を見つけた。
そこには。
六月六日。
南貨十二包。
東倉。
その下に、小さな字が一つ。
馬。
安生は、その字を見つめた。
「これ、馬徳順ですか?」
趙徳全が見る。
「似ている。」
「でも、確かじゃない?」
「確かじゃない。」
安生は頷いた。
さらにめくる。
六月七日。
何もない。
六月八日。
何もない。
六月九日になって。
ようやく一行があった。
東倉より二包、西倉へ移す。
その下には署名がない。
ただ、ぼやけた墨の跡が一つ残っている。
安生は眉を寄せた。
「どうして署名がない?」
趙徳全が答えた。
「一時的な荷の移動なら、署名しないこともある。」
「誰が決める?」
「その時による。」
「じゃあ、誰が運んだかはどうやって分かる?」
「覚えている人間がいればな。」
安生は趙徳全を見る。
「もし、誰も覚えていなかったら?」
趙徳全は答えなかった。
⸻
安生はさらにめくっていった。
六月十日。
西倉。
あの二包については何もない。
六月十一日。
何もない。
六月十二日。
ようやく一行が出てきた。
西倉 南貨六包。
安生は手を止めた。
「六包?」
趙徳全が頷く。
「どうした?」
「六月六日は十二包でしたよね?」
「ああ。」
「そのあと、西倉に六包ある。」
「じゃあ、残りの六包は?」
趙徳全は眉を寄せた。
「もう出たのかもしれん。」
「でも、出庫記録がありません。」
「別の場所にあるのかもしれん。」
安生はさらに後ろへめくった。
六月十三日。
西倉 南貨四包。
六月十四日。
何もない。
六月十五日。
西倉 南貨三包。
安生は手を止めた。
数字が、少しずつ崩れていく。
十二包。
二包。
六包。
四包。
三包。
荷物がずっと移動しているように見える。
だが。
一つのまとまった出庫記録は、どこにもない。
⸻
「待って。」
安生は紙をもう一度並べた。
「趙叔。」
「ん?」
「この記録。」
「同じ荷物じゃない可能性もありますよね?」
趙徳全は頷いた。
「もちろんある。」
「じゃあ、どうして全部『南貨』なんです?」
「荷物の種類が同じだからだ。」
安生は黙った。
そこが、まさに問題だった。
同じ荷物の名前だからといって。
同じ船から来た同じ荷物とは限らない。
同じ数だからといって。
同じ勘定とも限らない。
安生は六月六日の記録を丸で囲んだ。
次に六月九日。
そして六月十二日。
三つを囲んだあと。
その下に書いた。
直接つなげてはいけない。
趙徳全が見る。
「お前、だんだん帳場の人間みたいになってきたな。」
安生は少し笑った。
「俺は帳簿なんて読めません。」
「少なくとも、勝手につなげちゃいかんことは分かってきた。」
⸻
昼。
安生は孫記へ向かった。
孫福は店先で荷物を運んでいた。
安生を見ると。
何を調べているのかとは聞かなかった。
ただ。
「飯は食ったか?」
「まだです。」
「入れ。」
孫福は安生を中へ入れ、熱い湯を一杯出した。
安生は一口飲んでから言った。
「倉庫の記録を見つけました。」
「何年の?」
「六月六日の荷です。」
孫福の手が一瞬止まった。
「西倉まで調べたのか?」
「はい。」
「あの二包は?」
「六月九日に、東倉から西倉へ移したと書いてあります。」
孫福はしばらく黙っていた。
「それなら、つながったな。」
安生はすぐに顔を上げた。
「何がです?」
「いや。」
孫福は、それ以上言わなかった。
安生も無理には聞かなかった。
ただ尋ねる。
「前から、このことを知っていたんですか?」
「人から聞いた。」
「誰です?」
「昔の仲間だ。」
「名前は?」
孫福は首を振った。
「覚えてない。」
安生は見る。
「その人は、そのあとどうなりました?」
「田舎へ帰った。」
「まだ生きていますか?」
「たぶん。」
「どこの村です?」
孫福は答えなかった。
しばらくして。
「まず、自分のことを調べろ。」
「何もかも一度に調べようとするな。」
安生は少し笑った。
「親父にも、同じことを言われました。」
「お前の親父さんは、間違ってない。」
孫福は俯き。
また荷物を整理し始めた。
安生は、それ以上聞かなかった。
⸻
午後。
安生は再び古い帳場へ戻った。
見つかった記録を、もう一度すべて書き写した。
それから、三つに分けた。
金。
荷物。
人。
金の欄には。
六十両。
二十両。
そして、まだ確認できないいくつかの数字。
荷物の欄には。
十二包。
二包、未検品。
その後に出てくる六包、四包、三包。
人の欄には。
許文成。
周長順。
沈川。
安順河。
そして馬徳順。
安生は長いあいだ、それを眺めていた。
そして、ふと気づいた。
自分はこれまで、ずっとこう聞いていた。
八十両を誰が持っていったのか。
だが。
今では、この問いそのものが違っている。
八十両は、そもそも一つの金だったとは限らない。
二包の布も。
二十両に対応する荷物だったとは限らない。
そして。
「六月六日、未収」と。
「六月九日、東倉から西倉へ移す」という記録も。
同じ荷物について書かれたものとは限らない。
最初から無理に結びつけてしまえば。
そのあとの推測は、すべて間違った方向へ進む。
安生は、以前書いた一文を線で消した。
そして、書き直した。
まず、同じ荷物なのかどうかを確かめる。
書き終えたあと。
孫福の言葉を思い出した。
「それなら、つながったな。」
安生は、その五文字をじっと見つめた。
孫福は、いったい何を知っているのか。
安生は、それ以上考えなかった。
ただ、紙に孫福の名前を書いた。
その横に。
確認が必要な人物。
と記した。
⸻
夕方。
安生が家へ戻ると。
母親が野菜を選っていた。
「今日は早かったね。」
「うん。」
「食べる?」
「食べる。」
安生は座った。
母親が一度、安生を見る。
「調べものはどう?」
「だんだん分からなくなってきた。」
母親は笑った。
「それでも調べるの?」
「分からなくなったからこそ。」
母親は、それ以上聞かなかった。
しばらくして。
ふと思い出したように言った。
「お前、小さい頃もそうだった。」
「何が?」
「一つ分からないことがあると。」
「どうしても分かるまでやろうとした。」
安生は笑った。
「子供の頃から帳面を調べてた?」
「違う。」
母親は野菜を選りながら言った。
「昔、一度。」
「お兄ちゃんの飴がなくなったことがあった。」
「お前は、隣の家の子が取ったと言って聞かなかった。」
「それで?」
「見つかった。」
「どこに?」
「お前が自分で食べてた。」
安生は呆然とした。
母親は笑った。
「忘れた?」
「忘れた。」
「お兄ちゃんは怒らなかった。」
「ただ、どうして言わなかったのかと聞いた。」
安生はしばらく黙った。
「俺、そのとき何て言った?」
母親は少し考えた。
「怖かったんだろうね。」
「怒られるのが。」
安生は俯いて笑った。
「兄貴なら、確かに怒ったと思う。」
「でも、そのあとちゃんと飴をくれた。」
「うん。」
母親はまた野菜に目を戻した。
「だから、お兄ちゃんはあの頃から分かってたんだろうね。」
「お前は、自分が悪いことをしたのが分からないんじゃない。」
「ただ、認めるのが怖かった。」
安生は何も言わなかった。
しばらくして。
「母さん。」
「ん?」
「もし、人が何か悪いことをして。」
「そのあと、ずっと認めなかったら。」
「だんだん、何が起きたのか分からなくなるのかな。」
母親は顔を上げた。
「そうだと思うよ。」
「どうして?」
「人は、そのあとも生きていくから。」
「今日言わなければ。」
「明日には忘れる。」
「その次の日には、また別のことが起きる。」
「そうしているうちに。」
「本人まで、最初に何があったのか分からなくなる。」
安生は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
⸻
夜。
安生は今日見つけた紙を、もう一度机の上に並べた。
六月六日。
六月九日。
六月十二日。
三枚の紙。
その間には、三日間の空白がある。
だが。
どの一枚にも。
それが同じ荷物だと証明するものはない。
安生は筆を取り。
一番下に書いた。
古い帳面を調べるなら、まず名前と日付を見る。次に数字を見る。
書き終える。
少し考えてから。
もう一行を加えた。
数字が合っても、出来事まで合っているとは限らない。
窓の外から足音が聞こえた。
安生が顔を上げる。
安平だった。
安平は戸を開ける。
机の上の紙を見る。
「まだ調べてるのか?」
「うん。」
「どこまで分かった?」
「二包の布が、そのあと西倉へ移されたところまでは分かった。」
安平が近づいて、紙を見る。
「それから?」
「それからは、ない。」
「記録が?」
「ない。」
「人は?」
「分からない。」
安平は笑った。
「分からない、か。」
そして、笑みを消した。
紙を見つめたまま、しばらく黙っている。
やがて言った。
「なあ。」
「何?」
「あの頃。」
「誰も調べなかったとは限らないぞ。」
安生は顔を上げた。
安平は続ける。
「もしかしたら、最後まで調べた。」
「でも。」
「誰も、自分がやったことの一部分しか証明できなかったのかもしれない。」
「だから、途中で止まった。」
安生は兄を見る。
何も答えなかった。
安平は座った。
「お前が今調べてるのは。」
「たぶん、あの頃の人たちが行き着いた場所と同じなんだ。」
「ただ。」
「お前は二十年以上遅れて、そこに来た。」
安生は俯いた。
指先で、六月九日の記録をそっと押さえる。
そのとき初めて。
本当の意味で気づいた。
自分が向き合っているのは。
誰かが隠してしまった答えではないのかもしれない。
二十三年前。
途中で終わってしまった調査、そのものなのだ。
だから、自分がやるべきことも。
最初から決まっていた一人を探し出すことではない。
当時、途中で途切れた記録を。
一つずつ。
もう一度、つなぎ直していくこと。
その先に。
最後に何が残るのかを確かめることだった。




