第四十七章 誰が署名したのか
翌朝早く。
安生は、また波止場へ向かった。
老梁は入口で、古い紙の束を日に当てていた。
安生を見ると、老人は先に笑った。
「まだ終わらんのか?」
「まだです。」
「今度は何が分かった?」
安生は、前日に書き留めたものを渡した。
「六月七日以後、あの二包の布が出庫した記録を探したいんです。」
老梁は受け取って目を通した。
「これは、簡単には見つからんぞ。」
「どうして?」
「倉庫の責任者が何人も代わったからな。」
「古い帳面が残っているものもある。」
「残っていないものもある。」
安生は尋ねた。
「もし荷物を東倉から西倉へ移して、そのあと出庫した場合。」
「当時は、誰が署名したんですか?」
老梁は少し考えた。
「出庫なら、荷物を受け取る人間が署名する。」
「倉庫の人間も記録する。」
「それから帳場が、もう一度帳面につける。」
「じゃあ、一時的に倉庫を移しただけなら?」
「移動の場合は、受取人の署名までは普通いらん。」
「誰が記録する?」
「倉庫を見ている人間だ。」
安生は頷いた。
「当時、倉庫を見ていたのは誰です?」
老梁はすぐには答えなかった。
しばらくして。
「馬という姓だった。」
「名前は?」
「馬徳順。」
安生は書き留める。
「まだ生きていますか?」
「死んだ。」
「いつ?」
「ずいぶん前だ。」
「家族は?」
「息子がいる。」
「どこに住んでます?」
老梁は城西の方を指した。
「ただ、行く前に、どう聞くか考えておけ。」
安生は顔を上げた。
「なぜです?」
「馬徳順という男はな。」
老梁は紙をまとめながら言った。
「当時、あることがあって調べられた。」
「何があったんです?」
「八十両じゃない。」
「倉庫の荷だ。」
安生の動きが止まった。
「なくなった?」
「違う。」
「多かった。」
「多かった?」
「ああ。」
老梁は言った。
「帳面にない布が、倉庫に余分にあった。」
「何日か調べた。」
「前の便の荷物が混ざったんだろう、ということになった。」
「それで終わった。」
安生は眉を寄せた。
「いつのことです?」
「その頃だ。」
「具体的には?」
「覚えてない。」
安生は、それ以上追わなかった。
ただ、
倉庫に帳面のない布が余分にあった。
と書き留めた。
そして、その文字に線を引いた。
「この件が、あの二包と関係しているかどうかは、まだ分かりません。」
老梁は安生を見る。
「お前、だんだん親父さんに似てきたな。」
安生は少し笑った。
「親父も、帳面を調べるときはこんなに面倒だったんですか?」
「お前より面倒だった。」
老梁は言った。
「一枚一枚、紙を全部ひっくり返す。」
「最後には。」
「本人まで、何を探しているのか分からなくなっていた。」
安生は黙った。
父親が以前言った言葉を思い出した。
調べ続ければ、最後には誰かが困る。
以前は、それを自分に調べるなと言っているのだと思っていた。
だが今になって。
父も、あの頃に本当に多くのものを調べていたのかもしれない。
ただ、最後まで続けなかっただけなのではないか。
⸻
城西。
馬徳順の息子は、五十を過ぎていた。
姓は馬。
名は成林。
安生が来た理由を話すと。
最初に言った。
「親父は、もうずいぶん前に死んだ。」
「知っています。」
「じゃあ、俺に何を聞きに来た?」
「昔のことを少し。」
「俺は知らん。」
安生は急がなかった。
「まず、聞かせてください。」
「分かることだけでいい。」
「分からないことは、分からないと言ってください。」
馬成林は、しばらく安生を見た。
「お前、親父さんとは違うな。」
「どこが?」
「話し方が回りくどくない。」
安生は笑った。
「じゃあ、話してもらえますか?」
「俺が知ってることだけだ。」
「分かりました。」
安生は腰を下ろした。
「お父さんは、昔、波止場の倉庫を管理していましたか?」
「していた。」
「六月七日以後。」
「東倉から西倉へ、二包の布が運ばれた。」
「知っていますか?」
馬成林は眉を寄せた。
「どの二包だ?」
「南から来た布です。」
「それは知らん。」
「では、昔、帳面にない布が倉庫に余分にあったことは?」
馬成林は少し黙った。
「親父から聞いたことはある。」
「いつです?」
「分からない。」
「何と言っていました?」
「誰かが荷物を間違えて記録したと言っていた。」
「誰が?」
「そこまでは言わなかった。」
安生は続ける。
「お父さんは、古い帳面を残していましたか?」
馬成林は首を振った。
「知らない。」
「もう一度、考えてみてください。」
「本当に知らない。」
安生は無理に聞かなかった。
紙をしまい、立ち上がろうとした。
そのとき。
馬成林が突然尋ねた。
「どうして、これを調べてる?」
安生は立ち止まった。
「知りたいんです。」
「何があったのか。」
「あの頃、実際に何が起きたのか。」
馬成林は安生を見る。
「お前の親父さんに関係しているのか?」
「関係しています。」
「なら、他人の話だけを聞くな。」
「分かっています。」
「親父も、あの頃に何人かから聞かれた。」
安生が振り返った。
「誰に?」
「いろんな人間だ。」
「俺が子供の頃だった。」
「家に人が来た。」
「ある荷物のことを聞いていた。」
「親父は、そのあと俺に言った。」
「荷物はなくなったんじゃない。」
「ただ。」
「誰のものなのか、誰にも分からなくなったんだ、と。」
安生は一瞬、言葉を失った。
「どういう意味です?」
「俺にも分からん。」
馬成林は首を振った。
「あの頃は、まだ子供だった。」
「ただ、親父が一つだけ言っていたのを覚えてる。」
「荷物が届いた場所にあるからといって。」
「帳面に載っているとは限らない。」
安生は、ゆっくり腰を下ろした。
「ほかには?」
「何も。」
⸻
波止場へ戻る。
安生は老梁を見つけた。
「馬徳順が、昔こう言っていたそうです。」
「何と?」
「荷物が届いた場所にあるからといって、帳面に載っているとは限らない。」
老梁は聞き終えると。
驚きもせず、ただ頷いた。
「その通りだ。」
「どうして?」
「荷物が倉庫に入った。」
「それは、物が届いたというだけだ。」
「それから誰かが検品する。」
「誰かが受け取る。」
「誰かが記録する。」
「最後に、それで帳面に載る。」
安生は尋ねた。
「じゃあ、もし荷物がもう出庫していたら?」
老梁は安生を見る。
「もっと面倒になる。」
「どうして?」
「出庫した人間が署名していない。」
「倉庫の人間も記録していない。」
「帳場にも記録がない。」
「そうなれば、その荷物は。」
「最初から存在しなかったみたいになる。」
安生は黙った。
しばらくして。
「昔、そういうことはありましたか?」
「ある。」
「多かった?」
「多くはない。」
「だが、ないわけでもない。」
安生は俯いた。
そのとき。
老梁が何かを思い出したように言った。
「待て。」
「どうしました?」
「お前、六月七日と言ったな。」
「はい。」
「その日のあと。」
「倉庫に誰か来たんじゃなかったか?」
安生は顔を上げた。
「誰です?」
「そこは、はっきりしない。」
「ただ、翌日のことだけ覚えている。」
「俺が西倉へ荷物を運べと言われた。」
「何を?」
「布だ。」
安生の手が止まった。
「何包です?」
老梁は眉を寄せる。
「確か、二包だった。」
二人の間に、静かな時間が流れた。
「確かですか?」
「確かじゃない。」
「二十年以上前だからな。」
「ただ、その日、誰かに言われた。」
「東倉を空けるから。」
「二包、先に向こうへ移してくれ、と。」
安生はすぐに聞いた。
「誰に言われたんです?」
老梁は首を振った。
「覚えてない。」
「その二包を、自分で見ましたか?」
「見た。」
「印はありましたか?」
「あった。」
「どんな印?」
老人は目を閉じ、長いあいだ考えた。
「赤い糸だ。」
安生は尋ねる。
「赤い糸だけ?」
「それと、小さな木札がついていた。」
「何と書いてあった?」
老梁は答えなかった。
長いあいだ記憶を探っている。
やがて。
「たぶん、『許』という字だった。」
安生は、はっと顔を上げた。
許文成。
帳場の人間。
だが。
すぐに二つを結びつけることはしなかった。
ただ尋ねる。
「『許』だったと?」
「断言はできん。」
「なら、分からないとして記録します。」
老梁は安生を見る。
「お前、今じゃ何でも。」
「余計なことを言わなくなったな。」
安生は笑った。
「余計に言うと。」
「最後には、それが本当のことになってしまうから。」
⸻
夕方。
安生が家に戻ると。
父親は庭で古い椅子を直していた。
安生を見る。
だが、今日はどこへ行っていたのかとは聞かなかった。
安生は父親の隣に座った。
しばらくしてから。
「親父。」
「ん?」
「六月八日のこと。」
「覚えてる?」
安順河の手が、一瞬止まった。
「どうして、そんなことを聞く?」
「今日、分かった。」
「あの二包の未検品の布。」
「八日に動かされた可能性がある。」
安順河は何も言わなかった。
安生は続ける。
「知ってた?」
長い沈黙のあと。
父親が言った。
「知ってる。」
安生は父を見る。
「どうして、前に言わなかった?」
「その時は、まだ何も分かっていなかった。」
「そのあと?」
「そのあと……」
安順河は俯いた。
「誰にも、あの二包がどこへ行ったのか証明できなかった。」
安生は聞いた。
「調べたの?」
「調べた。」
「誰が運んだ?」
「馬徳順だと言う者がいた。」
「信じた?」
「分からない。」
「誰が運ばせた?」
「それも分からない。」
安生は黙った。
父親は続けた。
「お前があの日、事故に遭ってから。」
「波止場は全部めちゃくちゃになった。」
「お前を助ける者がいた。」
「沈川を助ける者もいた。」
「船を見る者がいた。」
「荷を見る者がいた。」
「医者を呼びに行く者もいた。」
「帳場の人間もいなかった。」
「そのあと、いろんなことが。」
「翌日になってから。」
「その次の日になってから。」
「後から書き足された。」
「だが、その頃には。」
「最初がどうなっていたのか。」
「もう誰にも分からなくなっていた。」
安生は黙って聞いていた。
ふと尋ねる。
「じゃあ、あの二包は最後にどうなった?」
父親は首を振った。
「分からない。」
「本当に?」
「本当に分からない。」
安生は、それ以上聞かなかった。
俯いて、自分の手を見る。
初めて思った。
二十三年前のあの夏は。
答えが一枚の紙の中に隠されていたわけではない。
ただ、一群の人間が。
その日を必死に生きていただけなのかもしれない。
誰かが川へ落ちた。
誰かが死んだ。
誰かが荷物を運んだ。
誰かが帳面を書いた。
誰かが家へ帰った。
そして翌日。
皆、それぞれの日常へ戻っていった。
ただ。
いくつかのことだけが。
二度と正確には書き直されなかった。
安生は立ち上がった。
「親父。」
「ん?」
「俺、まだ調べる。」
安順河は止めなかった。
ただ、言った。
「調べて、そのあとどうする?」
安生は少し考えた。
「本当に誰かのものなら、その人のものだと言う。」
「誰のものでもないなら。」
「誰のものでもないと言う。」
父親は長いあいだ、安生を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「それでいい。」
安生は家の中へ戻った。
机の上には、まだあの紙が置かれていた。
安生は筆を取り。
六月八日の下に、一行を書き加えた。
二包の布――移された可能性あり。許文成との関係も考えられるが、いずれも直接の証拠はない。
書き終える。
それ以上は書かなかった。
紙を折り、しまう。
初めて分かった。
古い事件を調べるとき。
一番難しいのは。
答えを見つけることではない。
自分がまだ答えを持っていないと。
それを知っていることだった。




