第四十二章 最初の八十両
翌日。
安生は、また古い帳場へ向かった。
今度は、許蘭から書き写してもらった数枚の紙を持っていた。
父親が残した古い紙も持っている。
陳二は連れてこなかった。
一人で中へ入った。
部屋は、もう長いあいだ使われていない。
窓枠には埃が積もっていた。
机も、すでに入れ替わっている。
ただ、隅には古い棚が一つ残っていた。
安生は、父から聞いたことを覚えていた。
許文成は、以前ここで帳面をつけていた。
安生はしゃがみ込み、棚の扉を開けた。
帳簿はなかった。
カビの生えた紙が、何枚か残っているだけだった。
安生は、むやみにかき回さなかった。
読めるものだけを、一枚ずつ取り出していく。
その中に、一枚の紙があった。
いくつかの名前が書かれている。
安生は何度か目を通した。
六月三日もない。
六月六日もない。
元に戻そうとしたとき。
紙の裏にも文字があることに気づいた。
ひっくり返す。
そこには、一行だけ書かれていた。
「旧帳は移した。」
下には、名前がない。
安生は、その三文字をしばらく見つめた。
それから、紙をしまった。
⸻
安生は趙徳全のところへ行った。
「趙叔。」
「どうした?」
「昔、許文成がいなくなってから。」
「誰が帳場を引き継いだんですか?」
趙徳全は一瞬、言葉に詰まった。
「誰も引き継いじゃいない。」
「どういう意味です?」
「帳場そのものが、あとでなくなったんだ。」
「誰も管理しなかった?」
「そういうわけじゃない。」
「しばらくは、誰かが臨時に整理していた。」
「誰が?」
趙徳全は長いあいだ考えた。
「たしか、周長順だった。」
安生は眉を寄せた。
「周長順?」
「ああ。」
「あいつは金を見ていた。」
「許文成が病気になってから、いくつかの帳面は周長順が続けて見ていた。」
「六月の帳面も、整理し直したんですか?」
「たぶん。」
「たぶん?」
趙徳全は苦笑した。
「何十年も前のことだ。」
「毎日のことまで覚えていられるわけじゃない。」
安生は頷いた。
「じゃあ、覚えていることだけ教えてください。」
趙徳全はしばらく黙っていた。
「一度な。」
「周長順が帳面を持って出てきたことがある。」
「何と言っていました?」
「こう言った。」
安生が顔を上げる。
「何て?」
「『この何筆かは、まとめなきゃならん』って。」
安生の目が大きく開いた。
「どの何筆です?」
「分からん。」
「いつです?」
「許文成が、もうほとんど波止場へ来なくなった頃だ。」
安生は、それ以上聞かなかった。
一つ、重要なことが分かった。
誰かが、あとから帳面を整理している。
⸻
「趙叔。」
「ん?」
「どうしてまとめる必要があるって言ってたか、覚えてますか?」
趙徳全は首を振った。
「帳面が乱れているからだと言ってた。」
「まとめないと、あとで誰も分からなくなるって。」
安生は黙った。
「ほかには?」
「ない。」
趙徳全は、ふと何かを思い出した。
「ああ。」
「もう一つ、言ってたな。」
「何です?」
「『まず、合うところから合わせよう』って。」
安生は何も言わなかった。
その言葉を、紙に書き留めた。
⸻
家へ戻ると、安生は手元にある資料を、もう一度すべて広げた。
今度は、六月三日から見なかった。
先に六月七日以後を見た。
ようやく気づいたのだ。
六月七日より前から帳面が乱れていたのなら。
「八十両」という数字を一つにまとめたのは、最初に荷物を運んだ人ではないかもしれない。
あとから帳面を整理した人かもしれない。
紙の上に書く。
許文成――最初の記録。
六月七日――事故。
その後――周長順が整理。
さらに一行。
「この何筆かは、まとめなきゃならん。」
そこへ安平が入ってきた。
紙に目を落とす。
「何か見つかったのか?」
「あとから帳面を整理した人がいたらしい。」
「誰?」
「周長順。」
安平はしばらく紙を見た。
「それは、周長順に何か問題があったってことか?」
安生は首を振った。
「それだけじゃ言えない。」
「どうして?」
「帳面を整理すること自体は、悪いことじゃない。」
「本当に乱れていたなら。」
「合うところをまとめるのは、普通のことだ。」
安平は頷いた。
「じゃあ、何を調べる?」
安生は、その一文を見つめた。
「知りたいのは。」
「どの勘定を、どの勘定と一緒にしたのか。」
「それから。」
「どうして最後に八十両になったのか。」
⸻
午後。
安生は孫記へ向かった。
孫福は店先で商品を日に当てていた。
「また来たか。」
「うん。」
「今度は何だ?」
「周長順。」
孫福は小さく笑った。
「最近、お前は周長順とばかり付き合ってるな。」
「聞きたいことがある。」
「何だ?」
「周長順は、あの頃、六月の帳面を整理し直したんですか?」
孫福は少し考えた。
「たぶん、した。」
「どうやって?」
「分からん。」
「見たことは?」
「一度ある。」
安生はすぐに聞いた。
「いつ?」
「許文成が来なくなってからだ。」
「周長順が帳面を一冊持っていた。」
「机の上で、何かを書き直していた。」
「どう書き直していた?」
孫福は首を振る。
「書き直したというより。」
「写し直していた。」
「写し直す?」
「ああ。」
「どうして?」
「古い帳面は乱れていると言ってた。」
安生の胸が動いた。
「元の帳面を破ったりは?」
「してない。」
「じゃあ、元の帳面は?」
「残ってた。」
「そのあと?」
孫福は少し考えた。
「たしか、持っていかれた。」
「誰が?」
「知らん。」
安生はそれ以上聞かなかった。
ふと気づいた。
自分がずっと探していたのは。
隠された一枚の紙ではないのかもしれない。
二冊の帳面なのだ。
一冊は、許文成が残したもの。
もう一冊は、周長順があとから整理して写したもの。
もし、その二冊に違いがあるなら。
話は、ずっと分かりやすくなる。
⸻
「孫叔。」
「ん?」
「一つ、思い出してもらえますか。」
「何だ?」
「周長順が帳面を写し直したとき。」
「八十両って書いていましたか?」
孫福は少し黙った。
「……たぶん、書いてない。」
安生は顔を上げた。
「書いてない?」
「いや。」
「俺も確かじゃない。」
「さっき、見たことがあるって言ったじゃないですか。」
「見た。」
「だが、数字までは覚えてない。」
安生は頷いた。
「大丈夫です。」
立ち上がる。
「ありがとうございました。」
孫福は安生を見た。
「安生。」
「ん?」
「お前が今、こんなことを調べてるのは。」
「親父のためか?」
安生は少し考えた。
「違う。」
「じゃあ、誰のためだ?」
「自分のためだ。」
孫福は、それ以上聞かなかった。
⸻
夜。
安生は家へ戻った。
父親の部屋から、あの古い紙を持ってくる。
六月三日。
六十両。
金は確認済み。
荷はまだ全部そろっていない。
紙の隅には、小さな「許」。
次に、許蘭が書き写してくれた六月六日の記録。
二十両。
未収。
周が、届いたと言った。
最後に。
古い帳場で見つけた紙を、その間に置いた。
旧帳は移した。
三枚の紙。
どれ一枚として、それだけで何かを証明できるものではない。
けれど。
三枚を並べると。
安生は初めて、一つの順序が見えた気がした。
許文成が記録した。
途中で、何かが途切れた。
周長順が引き継いだ。
帳面が、あとから整理された。
そして。
最初の帳面も。
あとから整理された帳面も。
完全な形では残っていない。
安生は長いあいだ座っていた。
やがて、「八十両」という三文字を書き直した。
その下に、一行。
この数字を最初に書いたのは、誰だったのか。
安生は、その言葉を見つめた。
それ以上は書かなかった。
今度は分かっている。
自分は、ようやく本当の問いに近づいている。
誰が金を持っていったのか、ではない。
誰が一番怪しいのか、でもない。
二十三年前。
いったい誰が最初に、皆にこう伝えたのか。
――ここでは、八十両が足りない。
その人を見つけられれば。
初めて分かるかもしれない。
あの八十両が。
本当に存在していた一つの欠損だったのか。
それとも、あとから帳面を整理する過程で。
いくつもの違う間違いが重なり。
一つの数字になったのか。
安生は筆を置いた。
外は、もう静まり返っていた。
ふと、子供の頃のことを思い出した。
父親が、金の数え方を教えてくれた。
一枚ずつ。
一枚でも足りなければ、最初から数え直す。
あの頃は、それが面倒だった。
一枚や二枚くらい足りなくても、何が違うのだと思っていた。
今になって、ようやく分かる。
本当に厄介なのは、その一枚の金がなくなったことではない。
皆が、もう一度数えようとしなくなったとき。
最後には、
「そもそも、本当に足りなかったのか」
ということさえ。
誰にも分からなくなってしまうのだ。




