第四十章 三つの記録
翌日。
安生はまず波止場へ向かった。
趙徳全のところへは行かなかった。
もっと年上の老人を探した。
呉叔だった。
呉叔は入口で漁網を干していた。
安生が近づくと、顔を上げた。
「また、あの件か?」
「ああ。」
「まだ終わらないのか?」
「まだだ。」
呉叔は笑った。
「二十年以上も前のことだ。」
「そう簡単には終わらんだろう。」
安生は腰を下ろした。
「六月七日のことを聞きたい。」
呉叔の手が止まった。
「何のことだ?」
「荷だ。」
「どの荷?」
「前の日に受け取られなかった、あの荷。」
呉叔は長いこと考えた。
「お前が言ってるのは、あの布のことか?」
「たぶん。」
「確かに来た。」
「誰が検品した?」
呉叔はすぐには答えなかった。
干していた網を脇へ置く。
「どうしてそんなことを聞く?」
「帳簿に、『荷、到着。数量、未確認』とある。」
「誰が書いた?」
「許文成だ。」
「なら、検品の記録じゃない。」
安生は顔を上げた。
「どういう意味?」
「『荷が届いた』と書いてあるだけだ。」
「数量は確認していない。」
呉叔は安生の持っている紙を指した。
「自分で見てみろ。」
「『荷が届いた』のと、『荷を検品した』のは別のことだ。」
安生はうなずいた。
「じゃあ、誰が検品した?」
呉叔は首を振った。
「誰もしていない。」
「確か?」
「あの日の朝は波止場が忙しかった。」
「船が着いたら、まず荷を降ろす。」
「それから船は出ていった。」
「誰も数えなかった?」
「たぶんな。」
安生は眉を寄せる。
「どうして?」
呉叔は少し笑った。
「波止場に毎日、そんなに人が張りついてると思うか?」
「荷が届けば、まず倉庫へ運ぶ。」
「帳場は一度記録する。」
「暇になってから照合する。」
「それが普通だった。」
安生は反論しなかった。
確かに、
当時としては普通だったのだろう。
⸻
「じゃあ、六月六日は?」
呉叔が尋ねる。
「何が?」
「さっき六月七日を聞いただろう。」
「六月六日も何かあるの?」
「ある。」
「何が?」
呉叔はしばらく考えた。
「あの日、周長順が来た。」
「紙を一枚持っていた。」
安生はすぐに尋ねる。
「何の紙?」
「荷札だ。」
「誰から渡された?」
「知らん。」
「何て言ってた?」
呉叔は首を振った。
「一言だけ聞いた。」
「何?」
「『先に記しとけ』。」
安生は眉を寄せた。
「何を?」
「分からん。」
「聞かなかったの?」
「俺がどうして聞く?」
呉叔が言い返す。
「当時、俺は荷を運んでいただけだ。」
「帳場のことなんか知らん。」
安生はうなずいた。
「じゃあ、どうしてその言葉を覚えてる?」
呉叔は笑った。
「ずいぶん大きな声で言ったからだ。」
⸻
安生は、それ以上聞かなかった。
紙に書き込む。
六月六日――周長順が帳場の近くへ来て、荷札を持っていた。「先に記しとけ」と言った。何を記すのかは不明。
書き終えてから、
また尋ねる。
「呉叔。」
「ん?」
「六月七日の検品を担当したのは誰?」
「決まった人間はいなかった。」
「どういうこと?」
「手の空いてる者が見る。」
「じゃあ、最後に確認できるのは誰?」
呉叔は少し考えた。
「沈川だ。」
安生が顔を上げる。
「荷のことならな。」
「最後に判断できるのは、あいつだった。」
「六月七日、沈叔は見た?」
呉叔は首を振る。
「それは分からん。」
安生は黙った。
そして尋ねる。
「六月六日は?」
「いた。」
「誰と話してた?」
呉叔が安生を見る。
「お前の父さんだ。」
安生の手が止まった。
「何を話してた?」
「全部は聞いてない。」
「一言だけ聞いた。」
「何?」
呉叔は眉を寄せ、
記憶を探るように目を細めた。
「沈川が言ってた。」
「『俺が改めて記したんじゃない』と。」
安生は動かなかった。
その言葉は、
すでに父から聞いている。
許文成が残した紙にもあった。
そして今度は、
呉叔が実際に聞いた言葉として出てきた。
初めてだった。
ただ紙に残っているだけの一文ではない。
誰かが、
その場で耳にした言葉だった。
⸻
「もう一つある。」
呉叔が突然言った。
安生は顔を上げる。
「何?」
「お前の父さんが聞いた。」
「『じゃあ、誰が書き換えたんだ』と。」
安生は息を止めた。
「沈川は何て答えた?」
呉叔は首を振った。
「聞こえなかった。」
「どうして?」
「そのとき、周長順が来た。」
「そこで話が止まった。」
安生はゆっくりとうつむいた。
紙に書く。
六月六日。
安順河――「では、誰が書き換えた?」
沈川――回答は不明。
その後、周長順が現れる。
それ以上は書かなかった。
その先のことを、
誰も自分には教えてくれていないからだ。
⸻
家へ戻る道すがら、
安生はずっと、その言葉を考えていた。
誰が書き換えた?
ただ帳簿を普通に修正しただけなら、
父はなぜ「誰が書き換えた」と聞いたのか。
もし周長順が自分で書き換えたのなら、
なぜ「もう届いた」と言ったのか。
許文成が確認していないのなら、
なぜ帳簿には「未収」と残ったのか。
どれもまだ答えはない。
それでも、
少しずつ一本の時間の流れが見えてきた。
一つの物語ではない。
実際に起きたことを、
順番に並べた時間の流れだ。
⸻
王記米屋の前まで来ると、
王福が米袋を運んでいた。
安生を見ると、声をかける。
「今日は取り立てじゃないのか?」
「違う。」
「じゃあ、何しに来た?」
「通りかかっただけ。」
王福が笑う。
「昔のお前なら、『通りかかった』なんて言わなかったぞ。」
安生も笑った。
「昔は分からなかった。」
「今は分かるのか?」
「まだ勉強中だ。」
王福は、それ以上言わなかった。
安生も歩き出しかけたが、
ふと足を止める。
「王叔。」
「ん?」
「もし誰かが、金を借りていると言われたとする。」
「でも、その人は『もう払った』と言っている。」
「どうする?」
王福はすぐに答えた。
「帳簿を見て確かめる。」
「帳簿になかったら?」
「人に聞く。」
「両方とも、自分は間違ってないと言ったら?」
王福は安生を見る。
「証拠があるほうを見る。」
安生はうなずいた。
「どちらにもなかったら?」
王福は笑った。
「そりゃ、運が悪かったと思うしかない。」
安生は笑わなかった。
「じゃあ、自分のほうが間違っている可能性は?」
王福は一瞬、言葉を失った。
「そのときは、自分で認めるしかない。」
安生はうなずいた。
「ありがとう、王叔。」
「何だ、急に。」
「いや。」
安生は、そのまま歩き出した。
⸻
家へ戻ると、
安生は紙を全部、もう一度並べ直した。
今度は、
「誰が怪しいか」
では分けなかった。
三つに分ける。
自分で見たこと。
人から聞いたこと。
自分で推測したこと。
六月三日。
孫福が、許文成に金を渡したのを見た。
これは第一の分類。
六月六日。
呉叔が、周長順の「先に記しとけ」という言葉を実際に聞いた。
これも第一の分類。
六月六日。
許文成が「二十両、未収」と記した。
これも第一の分類。
ただし、
それによって本当に金が届いていなかったとは証明できない。
六月七日。
荷が届いた。
これも第一の分類。
だが、
誰が検品したのかは分からない。
一方、
「周長順が金を持っていった」
「沈川が帳簿を書き換えた」
「誰かが八十両を一つの勘定にまとめた」
こうしたことは、
すべて第三の分類。
推測だ。
安生は、その三文字を長いこと見つめた。
そして、
一番上に書いてあった言葉を消した。
そこには、
八十両を持っていったのは誰か?
と書いてあった。
安生は、その下に書き直す。
六月三日から七日までに、
実際に何が起きたのか。
安平が戸口から入ってきた。
机の上の紙を見る。
「書き直したのか?」
「ああ。」
「どうして?」
安生は筆を置いた。
「前は、最初に誰が問題を起こしたのか知りたかった。」
「今は?」
「まず、何が起きたのかを知る。」
安平は紙を見つめた。
しばらくして、
少し笑った。
「そのやり方だと、ずいぶん時間がかかるぞ。」
安生はうなずいた。
「でも、少なくとも人を間違って疑わずに済む。」
言ってから、
安生自身も少し黙った。
こんな言葉が、
自分の口から出てくるとは思わなかった。
以前、金を取り立てていた頃は、
そんなことを考えたこともなかった。
誰が自分に借りているのか。
その人間が金を返せば、それでいい。
なぜ返せないのか。
本当に払っていないのか。
以前に払ったのではないか。
そんなことは、
相手の事情だと思っていた。
だが今になって、
少しずつ分かってきた。
一つの勘定を本当に確かめるためには、
まず自分自身が間違っている可能性を、
認めなければならない。
窓の外は、もう暗くなっていた。
安生は六月六日の行を見る。
あの、最後まで聞き取れなかった言葉。
それはまだ、そこに残っている。
だが安生は、
もう急いでその続きを埋めようとはしなかった。




