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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第三十九章 空白もまた事実

翌朝。


安生は許家へ向かった。


許蘭は庭で洗濯物を干していた。


安生を見ると、驚いた様子もない。


「また来たの?」


「ああ。」


「父の帳簿のこと?」


「そうだ。」


許蘭は洗濯物を掛け終えると、


「中で話しましょう」と言った。


家の中は、前に来たときと変わっていなかった。


目立った物は何もない。


壁際には古い木の箪笥が置かれている。


許文成が残したものは、ほとんどそこにしまわれていた。


許蘭が箪笥を開ける。


「何を見たい?」


「六月六日。」


「もう少し具体的に。」


「父さんが『未収』について何か残していないか。」


許蘭は少し考えた。


「小さな帳面がある。」


「帳簿じゃない。」


「父が自分でつけていたもの。」


箪笥の下から、薄い帳面を取り出す。


表紙は擦り切れていた。


安生は受け取った。


開く。


最初のほうは、日々の雑記だった。


薬代。


米代。


誰にいくら借りているか。


それから、誰かに貸した金。


真ん中あたりまで来て、


ようやく波止場のことが出てくる。


六月三日。


六月四日。


六月五日。


六月六日。


六月七日。


安生の手が止まった。


六月三日の下には、


六十両、金は見た。


その横に、小さな字で、


荷、未だ全からず。


とある。


六月四日。


記録はない。


六月五日。


二文字だけ。


待検。


六月六日。


二十両、未収。


その下に、さらに小さな字があった。


周、すでに届いたと言う。


安生は眉を寄せた。


「この『周』って、誰?」


許蘭は首を振る。


「分からない。」


「父さんは説明してない?」


「してない。」


安生は続きを見る。


六月七日。


荷、到着。数量、未確認。


安生はゆっくり帳面を閉じた。


「これ、前に誰かに見せた?」


許蘭は首を振る。


「父が亡くなってから、ずっとここにあった。」


「あなたは見た?」


「少しだけ。」


「意味は分かってた?」


「前は分からなかった。」


許蘭は安生を見る。


「あなたが来てから、もう一度見直すようになった。」


安生はうなずいた。


そして、もう一度帳面を開く。


「父さんは、『周』が誰か言ってなかった?」


「言ってない。」


「周長順?」


許蘭は少し考える。


「その名前なら、聞いたことがある。」


「いつ?」


「父が病気だった頃。」


「誰から聞いた?」


「父自身。」


安生が顔を上げる。


「何て言ってた?」


許蘭はしばらく黙っていた。


「一度だけ。」


「『周長順は受け取ったと言っている。でも、帳場はそんなふうには書けない』って。」


安生の指が、紙の上で止まった。


「他には?」


「ない。」


「確か?」


「私が覚えているのは、それだけ。」


安生は、それ以上聞かなかった。


もう一度、小さな字を見る。


周、すでに届いたと言う。


この一文には、


もう一つの可能性がある。


周長順は、荷が届いたと言った。


だが、許文成はそれを確認していない。


だから帳簿には、


「未収」


と記した。


⸻


安生は帳面を持ち帰る前に、


許蘭へ尋ねた。


「書き写してもいい?」


「いいよ。」


「原本は置いていく。」


「分かった。」


安生は机に座った。


一字ずつ書き写す。


文字を変えない。


自分の解釈も加えない。


六月三日。


金は見た。


荷、未だ全からず。


六月五日。


待検。


六月六日。


二十両、未収。


周、すでに届いたと言う。


六月七日。


荷、到着。


数量、未確認。


書き終えると、


安生はさらに尋ねた。


「父さんは、その後の周長順について何か書いてない?」


許蘭は首を振る。


「ない。」


「沈川については?」


許蘭は何頁かめくった。


「ここ。」


安生が見る。


そこには一行だけ。


沈は、自分が改めて記したのではないと言う。


日付はない。


説明もない。


安生はしばらく見つめた。


そして尋ねる。


「これ、いつ書いたか分かる?」


許蘭は首を振った。


「父は何も言ってない。」


安生は、この一文を六月六日の記録とは扱わなかった。


分からないものを、


勝手につなげることはできない。


その一行も別に書き写す。


その横に、


日付不明。


と記した。


⸻


許家を出たあと、


安生はまっすぐ家へ帰らなかった。


波止場へ向かった。


趙徳全を見つける。


「趙叔。」


「また来たか?」


「ああ。」


「今度は誰のことだ?」


「周長順。」


趙徳全が少し笑った。


「最近、どうしてそんなにその名前ばかり追ってる?」


「一つ、言っていたかもしれない言葉がある。」


「何だ?」


「二十両は、もう届いていると。」


趙徳全の笑顔が消えた。


「いつ?」


「六月六日。」


趙徳全は考えた。


「その日なら。」


「そう言っていた可能性はある。」


「聞いたの?」


「いや。」


「じゃあ、どうして分かる?」


「許文成が残したものだ。」


趙徳全は、それ以上聞かなかった。


しばらくしてから言う。


「あの日、周長順は帳場へ来た。」


「いつ?」


「午後だ。」


「一人で?」


「分からない。」


「見た?」


「見た。」


「誰と話してた?」


趙徳全は首を振る。


「そこまでは覚えてない。」


安生はうなずいた。


「何か持っていた?」


趙徳全は考えた。


「たしか、紙を一枚持っていた。」


「どんな紙?」


「荷札だ。」


「誰の?」


「それは分からない。」


安生は、それ以上聞かなかった。


これだけあれば、


もう一度整理できる。


⸻


夜。


安生は、これまで集めた紙を全部、机の上に広げた。


今度は、


「誰が金を盗んだのか」


とは書かなかった。


六月三日。


六十両。


金は見た。


荷、未だ全からず。


許文成が、金が届いたことを記録。


――


六月五日。


待検。


荷はまだ最終確認されていない可能性。


――


六月六日。


二十両。


未収。


周長順は、すでに届いたと言っていた。


しかし、許文成は確認していない。


――


六月七日。


荷、到着。


数量、未確認。


安生は最後の一行を見つめた。


「数量、未確認。」


荷が届いたのなら、


なぜ数量を確認できなかったのか。


本当に荷が足りなかったのか。


それとも、


誰も検品しなかったのか。


あるいは、


届いた荷が最初の荷とは違っていたのか。


安生は、そこで考えるのを止めた。


横に疑問だけを書いておく。


そして、その下に一行加えた。


現時点では、二十両を誰かが持ち去ったと証明するものはない。


書き終える。


椅子にもたれた。


ふと、陳二を思い出した。


以前の自分なら、


誰かが金を借りていれば、


こんなことは考えなかった。


いくら借りているか。


いつ返すのか。


一文でも足りなければ許さない。


「金がない」と言われれば、


嘘をついていると思った。


だが今になって分かる。


ある人が、


「もう渡した」


と言い、


別の人が、


「受け取っていない」


と言っていたとしても、


二人とも嘘をついているとは限らない。


そもそも、


二人が話している「受け取った」が、


同じことを意味していないのかもしれない。


⸻


戸の外から足音がした。


安平が入ってくる。


「まだ寝てないのか?」


「まだだ。」


安平は机の上を見る。


「何か分かった?」


安生は首を振った。


「まだ。」


「調べ終わった?」


「少しだけ、分かった。」


「何が?」


安生は紙を指した。


「前は、八十両がなくなったと思ってた。」


「今は?」


「今は、最初から『八十両』という一つのものがあったのかも分からない。」


安平は黙って紙を見る。


安生は続けた。


「何本かの勘定があった。」


「そのうち、後から合ったものもある。」


「合わないまま残ったものもある。」


「最後に、それが全部八十両として計算された。」


「だから、みんなが聞いた。」


「八十両は、誰が持っていったのかって。」


安平はゆっくりとうなずいた。


「じゃあ、今は何を調べてる?」


安生は六月六日の行を見る。


「知りたい。」


「どうして周長順は、受け取ったと言ったのか。」


「どうして許文成は、受け取っていないと記したのか。」


「それから……」


一度言葉を切る。


「六月七日に、最後に荷を確認したのは誰なのか。」


安平が腰を下ろす。


「その人が見つからなかったら?」


安生はしばらく黙っていた。


「その場合は……」


「当時の帳簿が、あの日からもう誰にも全部は説明できないものになっていたってことだ。」


部屋が静かになった。


窓の外から、通りの音が聞こえる。


店を閉める音。


戸を下ろす音。


遠くで、子供が家へ帰るよう呼ばれている。


安生は机の上の紙を見る。


初めて、


自分が古い事件を調べているだけではないように思えた。


何人もの人間が、


あの頃、自分の目で見たもの。


自分の耳で聞いたもの。


それを一つずつ、


もう一度並べ直しているのだ。


つながらないところは、


そのまま空けておく。


急いで埋めない。


今の安生には、


もう分かっている。


空白そのものも、


また一つの事実なのだ。

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