第四章 身内の人
翌朝早く、安生がまだ家を出る前に、門を叩く音がした。
「誰だ?」
「俺だ。」
声を聞いて、安生は少し驚いた。
門まで行って開ける。
外に立っていたのは、四十を過ぎた男だった。手には竹籠を二つ提げている。
「二叔。」
男は安生を見ると、笑った。
「まだ飯を食ってないのか?」
「今、起きたところ。」
「母さんは?」
「中にいる。」
二叔――安成山は籠を持ったまま庭に入り、壁際に置いた。
中には卵が何斤かと、米が小さな袋に入っていた。
「ばあさんが、お前たちに持っていけってな。」
安生が中を覗く。
「ばあちゃん、元気?」
「足は相変わらずだ。」
「医者に診てもらうって言ってなかった?」
「行ったよ。」
「なんて?」
「年だから、ってさ。」
安生は黙った。
その言葉は、何度も聞いたことがある。
年だから。
何かにつけて「年だから」と言ってしまえば、それ以上尋ねなくてもいいような気がする。
安成山は家の中へ入り、母親と話し始めた。
安生は庭に残り、顔を洗った。
しばらくすると、家の中から母親の声が聞こえてきた。
「兄さんは?」
「県外にいる。」
「まだ帰ってこないの?」
「帰ってない。」
「まったく。あの子は、正月になっても帰ってこないんだから。」
安生は顔を拭いた。
兄がいる。
安平という。
安生より七つ年上だった。
幼い頃、兄弟二人は同じ部屋で寝起きしていた。
安平は安生より大人しかった。
勉強もよくできた。
その後、町を出て、よその土地で木工の仕事をするようになった。
父親は昔からよく言っていた。
「兄ちゃんはしっかりしてる。」
その言葉を、安生は子供の頃から何度も聞いてきた。
最初は、何とも思わなかった。
けれど、何度も聞かされるうちに、だんだん腹が立つようになった。
ある日、父親がまた言った。
「お前も兄ちゃんを見習え。十六の頃には、もう外へ出て稼いでたぞ。」
安生はそのとき、門のところにしゃがんで木を削っていた。
顔を上げずに言った。
「じゃあ、兄ちゃんだけ育てればよかったじゃないか。」
家の中が、しんと静まった。
母親が安生を叱った。
父親は何も言わなかった。
その夜、安生は父親に頬を叩かれた。
あのとき初めて思った。
自分は、どうやっても兄には敵わないのだ、と。
それから安生は、兄と比べなくなった。
何かを悟ったからではない。
どうせ勝てない。
だったら、比べなければいい。
そう思っただけだった。
安成山が家から出てきた。
庭でぼんやりしている安生を見る。
「何を考えてる?」
「別に。」
「兄ちゃん、二、三日したら帰ってくるかもしれんぞ。」
安生が顔を上げた。
「何しに?」
「ばあさんの誕生日だ。」
「ああ。」
二叔は安生を見た。
「お前たち兄弟も、もう何年も会ってないんじゃないか?」
「そうか?」
「自分で数えてみろ。」
安生はしばらく考えた。
だが、本当に思い出せなかった。
二叔は小さく笑った。
「子供の頃は、仲がよかったじゃないか。」
「子供の頃のことなんて、誰が覚えてるんだ。」
「兄ちゃんは、昔からお前を可愛がってたぞ。」
安生は何も言わなかった。
もちろん、覚えている。
雨の日には、兄が背負ってくれた。
隣の家の窓を割ったときも、兄が代わりに叱られた。
一度、安生が父親の財布から二文を盗んで、飴を一つ買ったことがあった。
兄はそれを知っても、両親には言わなかった。
ただ、自分の飴を半分に割って、その片方を安生にくれた。
その後、二人とも大きくなった。
一人は遠くへ行き、一人は家に残った。
顔を合わせる回数は、少しずつ減っていった。
正月に同じ卓を囲んでも、何を話せばいいのか分からないことさえあった。
安成山が帰ろうとしたとき、ふと思い出したように懐から二文を取り出した。
「ほら、持っていけ。」
安生は受け取らなかった。
「いらない。」
「お前にやるんだ。」
「金ならある。」
二叔が笑った。
「お前が?」
安生は少しばつが悪くなった。
「本当にある。」
「そうか。」
二叔は金を懐へ戻した。
門まで行ったところで、もう一度振り返る。
「母さん、最近あまり体調がよくないぞ。」
「知ってる。」
「あまり外を出歩くな。」
安生は頷いた。
「分かった。」
二叔が出ていく。
母親が家の中から出てきた。
「二叔、何か言ってた?」
「別に。」
「最近また賭け事をしたって?」
安生は眉を寄せた。
「なんでも話すんだな。」
「心配してくれてるんだよ。」
「俺はあの人の金を使ってない。」
母親が安生を見る。
「まったく、お前は……」
安生は何も言わなかった。
母親は籠の中を片付け始めた。
「卵、少しばあちゃんのところに残しておこう。」
「うん。」
「米も全部食べるんじゃないよ。」
「分かってる。」
「それから――」
「母さん。」
安生が遮った。
「分かってるから。」
母親の手が止まった。
息子をしばらく見つめてから、静かに息を吐く。
「分かってるなら、それでいい。」
⸻
午後、安生は東街へ向かった。
王記の米屋は、客の姿がずいぶん減っていた。
王福は帳場の奥で帳面を計算していた。
安生が入ってくると、すぐに立ち上がった。
「安生。」
「金は?」
王福の顔が少し曇った。
「まだ、少し足りない。」
「三日って言っただろ。」
「分かってる。」
「だったら出してくれ。」
王福は帳場の下から布袋を取り出した。
机の上に置く。
「これだけしかない。」
安生が開けて中を見る。
銀と銭を数えた。
王福が借りている額には、少し届かなかった。
「あといくらだ?」
王福が金額を答える。
安生は顔を上げた。
「いつ払える?」
「あと五日、待ってくれ。」
安生はすぐには答えなかった。
その後ろでは、陳二が少し苛立った様子で立っている。
「安哥、そんなに話さなくても――」
王福がうつむく。
安生はしばらく王福を見ていた。
やがて、金をしまった。
「七日だ。」
「分かった。」
「七日経ってもなかったら――」
「なくさない。」
安生は頷いた。
そして店を出た。
陳二が後からついてくる。
「安哥、今日はずいぶん話が分かるじゃないか。」
「何が?」
「前なら、こういう奴にはすぐ――」
陳二は言葉を濁した。
安生が振り返る。
「すぐ、何だ?」
陳二は笑った。
「いや、何でもない。」
二人はしばらく歩いた。
やがて陳二がまた口を開く。
「安哥、最近、金に困ってるのか?」
「困ってない。」
「じゃあ、なんでさっきもっと取らなかった?」
「あれしかなかったんだ。」
「でも店には米があるだろ。」
安生が足を止めた。
「お前、なんでもすぐ持っていこうとするな。」
陳二は目を丸くした。
「昔からそうだったじゃないか。」
安生は答えなかった。
そのまま歩き出す。
数歩進んだところで、後ろから声がした。
「安生。」
振り返る。
王福が米屋の入口に立っていた。
手には、帳付けに使う木札を持っている。
「さっきの勘定、一つ多くないか?」
安生が戻る。
「何が?」
王福は木札を差し出した。
「これだ。先月、もう払ってる。」
安生は木札を見る。
確かにそうだった。
自分が間違えていた。
王福が言わなければ、安生は一つ分余計に取っていた。
陳二が横から小さな声で言った。
「そのままでいいだろ。」
安生は陳二を一度見た。
それから王福を見る。
「悪かった。」
王福は、少し意外そうな顔をした。
安生は余計に受け取った金を机の上に戻した。
「俺の勘違いだ。」
王福は金を受け取った。
「いや、いい。」
安生はそのまま店を出た。
外へ出ても、陳二は納得できない様子だった。
「安哥、前は帳面のことなんて、誰が覚えてるか分からないって言ってたじゃないか。」
「向こうは覚えてた。」
「でも、あいつ自身が認めたんだぞ。」
安生は何も言わなかった。
手の中の金を見る。
数文、少なくなっている。
ふと、朝、母親が言っていた薬のことを思い出した。
父親の腰のことも。
そして、二叔が帰り際に言った言葉も。
――あまり外を出歩くな。
安生は金をしまった。
「行こう。」
「どこへ?」
「家に帰る。」
陳二は呆気に取られた。
「こんなに早く?」
「うん。」
「夜は出ないのか?」
「今日は出ない。」
陳二は、安生の背中を見つめた。
それ以上は聞かなかった。
往来には、相変わらず人が行き交っている。
安生はその中を、一人先に歩いていく。
自分でも、どうして今日は早く帰ろうと思ったのか、よく分からなかった。
ただ――
家には、自分を待っている人がいる。
そう思った。
そして、そのことを初めて、鬱陶しいとは思わなかった。




