第三章 残された勘定
王記の米屋は、東街の角にあった。
店先には古びた木斗が二つ置かれていて、中には田舎から仕入れたばかりの米が入っている。
主人の王福は腰をかがめ、一俵の米を店の中へ引きずり込んでいた。
安生たち三人が近づいてくると、その手が止まった。
「王叔父さん」
先に陳二が声をかけた。
王福は答えず、安生を見た。
安生は店先に立った。
「この前の勘定、そろそろ払ってもらおうか」
王福は額の汗を手の甲で拭った。
「分かってる」
「いつ払う」
「あと何日か待ってくれ」
陳二が横から笑った。
「前もそう言ってたじゃないか」
王福の顔が曇った。
「ここ数日、商売がよくないんだ」
安生は店の中を見た。
今日は通りにも人が多い。
店先には、荷を担いだ客が二人立っている。
「商売がよくない?」
「今年は米の値が下がってるんだ」
安生は何も言わなかった。
米の値段のことなど、彼にはよく分からない。
ただ、どういうときに何を言えばいいかくらいは知っていた。
「王叔父さん」
一歩、前へ出る。
「俺だって、あんたを困らせたいわけじゃない」
王福が顔を上げた。
安生は続けた。
「とりあえず半分だけ出してくれ。残りは何日か待つ」
王福は一瞬、言葉を失った。
「今は本当に出せないんだ」
陳二が口を挟んだ。
「じゃあ、中へ入って取ればいい」
王福の顔色が変わった。
「お前たち、そんなことをしていいと思ってるのか」
「俺たちが何をした」
陳二が一歩前へ出る。
安生は手を伸ばして、それを止めた。
「いい」
陳二が安生を見る。
「安哥?」
「何日か待ってくれって言ってるだろ」
安生は王福を見た。
「三日だ」
王福は頷いた。
「分かった」
「三日後、取りに来る」
それだけ言って、安生は背を向けた。
陳二が追いついてくる。
「安哥、どうして今、取らなかったんだ?」
「何を」
「金だよ」
「持ってない」
「でも、店には米がある」
「米は金じゃない」
陳二は頭を掻いた。
「売れば金になるだろ」
安生は陳二を見る。
「じゃあ、あいつは何を売って商売するんだ」
陳二は黙った。
安生はまた歩き出した。
急に人が善くなったわけではない。
ただ、頭の中で勘定をしただけだった。
王記の米屋が潰れれば、これから金を取る相手が一人減る。
勘定は切ってはいけない。
人も追い詰めすぎてはいけない。
それが、安生が自分で覚えたやり方だった。
そのやり方が正しいのかどうか。
そんなことを考えたことはなかった。
三人は東街を離れた。
趙順は、さっきからほとんど口を開かなかった。
橋まで来たところで、ふいに尋ねた。
「安哥、お母さん、病気なんですか」
安生の足が止まった。
「誰から聞いた」
「母さんが言ってた」
「どうして知ってる」
「孫叔母さんから聞いたって」
安生は眉を寄せた。
「女ってのは、そういう話が好きだな」
趙順は笑った。
「俺の母さん、安哥のお父さんも昨日、波止場へ行ったとき腰が痛かったって言ってた」
安生は答えなかった。
橋の下を流れる水を見た。
川は浅かった。
岸辺では、何羽かの鴨が水の上をゆっくり進んでいる。
しばらくして、安生が言った。
「午後、様子を見に行く」
「何の?」
「父さんのところ」
陳二が横から笑った。
「安哥も、ずいぶん親孝行になったな」
安生は足を上げた。
陳二が横へ逃げる。
「一言言っただけだろ」
「黙れ」
三人はまた歩き始めた。
城南まで来ると、趙順と陳二はそれぞれ家へ帰った。
安生は一人で波止場へ向かった。
遠くから、安順河の姿が見えた。
父親は木箱の上に腰を下ろし、煙草を指に挟んでいた。
その隣には男が一人いる。
安生も知っている男だった。
周成。
四十を越えていて、波止場で働いている年数も長い。
安生が近づくと、周成が顔を上げた。
「お前の息子が来たぞ」
安順河が振り返った。
「どうした」
「近くまで来たから」
安順河は安生の靴を見た。
「波止場の近くまで来たのか」
「うん」
「嘘をつくな」
安生は少し笑った。
「父さんの顔を見に来た」
周成が笑った。
「お前、そんなことを言うようになったのか」
安生も笑った。
「昔は言わなかったか?」
「子どものころは言ってたぞ」
「いつ?」
「お前の父親が一度、酒を飲みすぎたことがあっただろ。お前、泣きながら言ったんだ。大きくなったら働いて、父さんに酒を買ってやるって」
安生は目を丸くした。
「俺が?」
「言った、言った」
周成は楽しそうに笑った。
「それで、その後どうなった?」
安順河が煙草を地面へ落とした。
「その酒、こいつが自分で飲んだ」
三人とも笑った。
安生も笑った。
ずいぶん昔の話だった。
自分でも覚えていないほど昔のことだ。
しばらく笑っていた安順河が、ふいに腰へ手を当てて立ち上がった。
動きが遅い。
安生の顔から笑みが消えた。
「痛いのか」
「昔からだ」
「医者には行ったのか」
「何をしに行く」
「診てもらえよ」
「そんなことに金を使ってどうする」
安生は黙った。
周成が横から言った。
「お前の親父はいつもそうだ。二、三日痛めば、そのうち治る」
安生は父親を見た。
「もう働くなよ」
安順河が睨んだ。
「お前が俺を養うのか」
「俺……」
安生は言葉に詰まった。
安順河は息子の肩を軽く叩いた。
「いい」
「まだ働けないほど老いちゃいない」
安生は俯いた。
何かを失ったような気がした。
自分の手の中から、何かが一つ足りなくなったような。
だが、何が足りないのか、いくら考えても分からなかった。
それを思い出したのは、家へ帰る途中だった。
金だ。
自分には、もうほとんど金がない。
昨日は博打で負けた。
この前取り立てた金も、ほとんど使ってしまった。
母親の薬も必要だった。
父親の腰も診てもらわなければならない。
それでも、王記の米屋には三日後に取りに行くと言った。
あの金は、もともと自分のものではない。
使ってはいけない。
そのことが、初めてはっきりと頭に浮かんだ。
そして、一瞬だけ、面倒だと思った。
今日、王福が金を払ってくれればよかったのに。
昨日、あんなに負けなければよかったのに。
もし――。
そんなことを考えながら歩いていると、路地の入口に小さな女の子がしゃがんでいた。
目の前には、塗装の剥げた木のおもちゃがいくつか散らばっている。
安生はその子を知っていた。
隣の路地に住んでいる子だった。
以前、父親が通りで小さな露店を出していた。
安生は一度、借金を取り立てに行ったことがある。
その男は二文を払おうとしなかった。
安生は、ただ机を一度叩いた。
それだけで、金は出てきた。
それ以来、そのことを思い出したことはなかった。
だが、その女の子が顔を上げた。
安生を見ると、すぐに地面に落ちた木のおもちゃを拾い始めた。
その動きがひどく早かった。
女の子はおもちゃを抱えたまま、少し横へ逃げた。
まるで、取られるのを恐れているようだった。
安生は動かなかった。
しばらくして、聞いた。
「俺が怖いのか」
女の子は答えなかった。
安生も、何と言えばいいのか分からなかった。
そのまま背を向けた。
十数歩歩いたところで、足を止める。
振り返った。
女の子はもう、おもちゃを抱えて路地の奥へ走っていった。
安生はその場に立っていた。
通りの向こうから風が吹いてくる。
安生は自分の手を見下ろした。
傷はない。
血もついていない。
いつもの手と何も変わらなかった。
それでも、その手が今までにずいぶん多くのことをしてきたような気がした。
もう覚えていないこともある。
名前さえ知らない人もいる。
安生はしばらくそこに立っていた。
そして、何も言わず家へ帰った。
その夜、母親が尋ねた。
「父さん、どうだった?」
「何ともない」
「本当に?」
「ああ」
母親はほっとしたように息をついた。
「それならいい」
安生は卓の前に座った。
しばらくしてから、ふいに尋ねた。
「母さん」
「何だい」
「どうして俺に、この名前をつけたんだ」
母親の手にあった針が止まった。
「どの名前?」
「安生」
母親はしばらく息子を見た。
それから、少し笑った。
「お前は小さいころ、育てるのが大変だったんだよ」
「よく病気になってね」
「だから父さんと二人で、せめて大きくなったら、安らかに、何事もなく生きていってほしいって思ったんだ」
安生は俯いた。
「そうか」
母親はまた針に糸を通した。
「急にどうしたんだい」
「何でもない」
窓の外を誰かが通り過ぎた。
足音が、少しずつ遠ざかっていく。
安生は何も言わず、そこに座っていた。
自分がこの名前を使って、もう二十年以上になる。
その日になって初めて。
安生は、自分の名前を聞いたような気がした。




