第二章 家へ帰る
安生が家に着いたころには、空はもう薄暗くなっていた。
門はきちんと閉められておらず、わずかに隙間が残っている。
安生が手を伸ばして押すと、蝶番が小さく軋んだ。
庭は静かだった。
壁際には薪が何束か積まれている。軒下には、干した唐辛子が一列に吊るされていた。
数日前に降った雨のせいで、土はまだ乾ききっていない。踏むと、靴の底が少し沈んだ。
安生は足元を見た。
靴に泥がついている。
門口で二度ほど靴底を擦ってから、家の中へ入った。
「帰ったのかい」
奥から母親の声がした。
「ああ」
安生は短く答えた。
上着を脱ぎ、入口の木の架け台に無造作に掛ける。
母親が奥の部屋から出てきた。
手にはまだ針と糸を持っている。
安生の顔を見るより先に、外の暗さを確かめた。
「早く帰っておいでって言っただろ」
「ちょっと用があった」
「何の用だい」
「たいしたことじゃない」
母親は安生を見た。
それ以上は聞かなかった。
こういうやり取りは、もう何年も続いている。
安生が「たいしたことじゃない」と言うときは、本当に話したくないときだった。
母親も、それを知っていた。
母親は台所へ行き、鍋の蓋を開けた。
中には粥が半椀ほど、まだ残っていた。
「少し食べな」
「腹は減ってない」
「昼は何を食べたんだい」
「食べた」
「何を?」
「馄飩だ」
母親の手が止まった。
「また孫叔母さんのところでつけにしたのかい」
安生は黙った。
母親は小さく息を吐いた。
「いつになったら、あの人の勘定を返すんだい」
「あと二、三日」
「毎回そう言ってるじゃないか」
「今度は本当だ」
母親は何も言わなかった。
粥を椀によそい、卓の上へ置いた。
「食べてから話しな」
安生は腰を下ろした。
粥はもう熱くなかった。
椀を持ち上げ、一口飲む。
部屋の中には、椀が卓に触れる音だけがしていた。
しばらくして、母親がふと尋ねた。
「父さんは?」
「見てない」
「まだ帰ってないのかい」
安生は「ああ」とだけ答えた。
そして、また粥を飲んだ。
父親の名は、安順河という。
名前だけを聞けば穏やかそうだが、本人はそれほど穏やかな男ではなかった。
若いころは大工をしていた。
その後、腰を痛め、城南の波止場で人の荷を運ぶようになった。
仕事が多い日は一日に何銭か稼げる。
仕事がなければ、家で煙草を吸っている。
安順河は、説教が好きな男ではなかった。
少なくとも、息子に道理を説くことはほとんどなかった。
安生が子どものころ、何か悪さをしたとする。
普通の父親なら、どうしてそんなことをしたのか、誰が先に手を出したのか、なぜ殴ったのかと聞くだろう。
だが、安順河がまず聞くのは、いつも一言だった。
「やられたのか」
やられていなければ、それで終わり。
やられたのなら、父親が一緒に相手のところへ行く。
安生が七歳のころ、一度、路地の子どもと木片を取り合ったことがあった。
押されて転び、膝を擦りむいた。
家に帰ると、安生はひどく泣いた。
安順河は傷を見てから聞いた。
「誰にやられた」
安生が名前を言うと、安順河は何も言わなかった。
ただ息子の手を取り、隣の路地へ向かった。
その子の父親は、後になって新しい木片を一つ弁償した。
帰り道、安順河は安生の頭を軽く叩いた。
「これからは、人にやられるな」
当時の安生には、それがどういう意味なのか分からなかった。
ただ、父親は強いのだと思った。
やがて少しずつ大きくなってからも、安生の中に残ったのは、父親が教えたことの全部ではなかった。
一番簡単なところだけだった。
――人にやられるな。
なぜ相手が押したのか。
そもそも、どちらが先に悪かったのか。
そこまで考えることはなかった。
「この二、三日は、あまり外へ出るんじゃないよ」
母親が突然言った。
安生は顔を上げた。
「どうした」
「父さんが今日帰ってきてね。波止場のほうで、誰かが父さんを訪ねてきたらしい」
「何の用だ」
「知らないよ」
「じゃあ、どうして俺に外へ出るなって言うんだ」
母親は針と糸を籠の中へ戻した。
「ただ、言っておこうと思っただけだよ」
安生は頷いた。
「分かった」
母親は息子を見た。
「それと、陳二たちとも、あまり一緒にいるんじゃないよ」
安生は眉を寄せた。
「あいつらがどうした」
「何かしたとは言ってないよ」
「じゃあ、どうしてそんなこと言うんだ」
「お前たち、毎日通りをぶらついてるだろ。どう見ても、ろくなことをしてるようには見えないよ」
安生は少し笑った。
「何もしてないって」
母親は答えなかった。
ただ、針を一本ずつ籠の中へ戻していた。
もちろん、母親も知っていた。
自分の息子が、口で言うほど何もしていないわけではないことくらい。
それでも、知っていることと、認めることは違った。
安生が「何もしていない」と言うなら、それを信じていたかった。
そうしていれば、まだ若いだけだと思える。
遊びたいだけなのだと思える。
まだ、大人になっていないだけなのだと。
「母さん」
「何だい」
「薬、飲んだか」
母親の手が止まった。
「飲んだよ」
「本当に?」
「お前が口を出すことじゃない」
「今日は頭が痛いって言ってただろ」
「もう治ったよ」
安生は、それ以上言わなかった。
粥を食べ終えると、椀を持って台所へ行った。
置いたばかりのところで、庭から足音が聞こえた。
「父さんだ」
安順河が門を開けて入ってきた。
肩には麻縄を一束背負っている。
ズボンの裾は泥だらけだった。
安生を見ると、足を止めた。
「飯は食ったか」
「食った」
「何を」
「粥」
安順河は頷いた。
麻縄を壁際へ置き、腰を下ろして靴を脱いだ。
「今日は博打に行かなかったのか」
安生の顔から、ゆっくり笑みが消えた。
「行ってない」
安順河は息子を一度見た。
「俺が知らないと思うなよ」
「今日は行ってない」
それは嘘ではなかった。
今日は博打をしていない。
今日は借金を取り立てただけだ。
昨日、博打をしたかどうかは、また別の話だった。
安順河は、それ以上聞かなかった。
「手を出せ」
安生は戸惑った。
「何するんだ」
「出せ」
安生が手を差し出す。
安順河は手の甲を見た。
傷はない。
次に顔を見た。
「喧嘩はしてないな」
「してない」
「そうか」
安順河は手を離した。
「母さんがお前に、あまり外へ出るなと言ってた」
「分かってる」
「母さんの言うことを聞け」
安生は黙っていた。
安順河も、それ以上は何も言わなかった。
三人は一つの卓を囲んで座っていた。
誰も口を開かなかった。
外の通りから、飴細工を売る声が聞こえてくる。
また誰かが自転車で家の前を通り過ぎた。
車輪が泥水を踏み、小さな水音を立てていく。
安生は、ふと孫叔母さんの言葉を思い出した。
――お前の母さん、最近具合がよくないんだ。もう少し家に帰って顔を見せてやりな。
あのとき安生は、「分かった」とだけ答えた。
今こうして家に座っていると、母親の顔色が以前より悪いことに気づいた。
だが、何も聞かなかった。
明日聞けばいい。
そのときの安生には、そう思えた。
多くのことには、明日があるように思えた。
――
翌朝。
安生が家を出ると、陳二がすでに路地の入口でしゃがんで待っていた。
陳二は安生より二つ年下だった。
背は高くない。
いつも顔に笑みを浮かべている。
安生を見ると、すぐに立ち上がった。
「安哥」
「何だ」
「趙順が前で待ってる」
「何の用だ」
「金を払ってない奴がいる」
安生は眉を寄せた。
「誰だ」
「王記の米屋」
安生は少し考えた。
「行くぞ」
二人が通りへ出ようとすると、陳二がふと思い出したように聞いた。
「安哥、昨日また孫叔母さんのところで馄飩食っただろ」
「どうして知ってる」
「見たんだよ」
「見たなら聞くな」
陳二は笑った。
「孫叔母さんが言ってたぞ。勘定を返してから来いって」
安生は陳二の尻を軽く蹴った。
「うるさい」
陳二は笑いながら避けた。
二人はそのまま言い合いをしながら歩いていった。
通り沿いの店が、少しずつ戸を開け始めていた。
豆腐屋の李叔父が木板を並べている。
安生を見ると、李叔父の手が明らかに一瞬止まった。
安生も、それに気づいた。
二人は何も言わなかった。
安生はそのまま通り過ぎた。
陳二が振り返った。
「あの人、お前を怖がってるぞ」
「知ってる」
「じゃあ、ちょっと――」
「いい」
陳二は戸惑った。
「何で?」
安生は陳二を見た。
「豆腐が俺に何をした」
陳二は笑った。
「安哥、今日どうしたんだよ」
「うるさい」
安生はまた陳二を軽く蹴った。
陳二は逃げるように先へ走った。
少し先では、趙順が壁にもたれて二人を待っていた。
三人が揃うと、そのまま米屋へ向かった。
誰も気づかなかった。
豆腐屋の李叔父が、三人の背中をしばらく見ていたことに。
やがて李叔父は目を伏せた。
そして何事もなかったように、豆腐を切り始めた。
通りはいつもの通りだった。
そこにいる人も、いつもの人たちだった。
誰も知らなかった。
長い年月が過ぎたあと、彼らがまた互いの人生に現れることを。
去っていく人もいる。
戻ってくる人もいる。
変わる人もいる。
変わらない人もいる。
けれど、そのころの安生は、そんなことを考えもしなかった。
今日も、やることがある。
明日のことは、明日になってから考えればいい。




