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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第一章 安生

臨河県は、それほど大きな町ではなかった。


東門から西門まで歩いても、半刻ほどしかかからない。


町の者は、たいてい互いの顔を知っていた。


どこの家に子どもが生まれたとか、どこの老人が病気になったとか、どこの店の主人が昨夜、博打で負けたとか。そういう話は、朝になれば半分ほどの通りにまで広がっている。


安生も、この町では名の知られた男だった。


ただ、誰も彼がいったいどういう人間なのかまでは、よく分かっていなかった。


ごろつきだという者もいた。


ろくでなしだという者もいた。


陰では、厄介者だと吐き捨てる者もいた。


安生自身は、そんなことを気にしなかった。


人間、生きていれば、人が何を言おうと勝手だと思っていた。


ただし、面と向かって言われなければ、の話である。


目の前で言われたなら、その言葉がそう簡単に口にしていいものではないと、相手に分からせる必要があった。


その日は六月八日だった。


夜がまだ明けきらないうちに、安生は賭場の裏口から出てきた。


路地の入口で立ち止まり、空を見上げる。


昨夜、雨が降った。


軒先から落ちる雫が、まだ一滴ずつ青い石畳を叩いていた。


安生は懐に手を入れた。


銅銭が三枚しか残っていない。


しばらく、その三枚を眺めていた。


「ちくしょう」


昨夜は七十文ほど勝った。


そのあと負けた。


最後には、賭場に二両の借りまで作った。


少し考えたが、大したことではないと思った。


賭場の連中とは顔見知りだ。


それに、安生がこんな借金をすぐ返したことなど、一度もない。


そう思うと、銅銭を懐に戻し、南へ向かった。


城南には、馄飩を売る小さな屋台がある。


店主は四十を過ぎた女で、孫さんと呼ばれていた。


安生が遠くから姿を見つけると、声をかけた。


「孫叔母さん」


孫叔母さんは顔を上げた。


安生だと分かると、さっきまでの笑顔が消えた。


「金はないよ」


安生は一瞬、きょとんとした。


「まだ何を食べるか言ってないだろ」


「お前が『孫叔母さん』って呼ぶときは、決まって何か食べに来るんだよ」


安生は笑った。


「じゃあ、二杯くれ」


「金がないなら売らないよ」


「帳面につけといてくれ」


「先月の分もまだ払ってないだろ」


「こうして来たじゃないか」


「毎月そればっかりだよ」


安生は小さな腰掛けを引き寄せて座った。


「じゃあ、何をそんなに怖がるんだ」


孫叔母さんは安生を見た。


「いつか、お前が来なくなるんじゃないかと思ってね」


安生は何も言わなかった。


しばらくして、自分で卓の上の椀を取り、匙で汁を二度ほどすくった。


「じゃあ、今日は食わない」


そう言って立ち上がる。


孫叔母さんは、本当に帰るのかと思った。


ところが、二歩ほど歩いたところで、安生は戻ってきた。


「やっぱりいい」


「何がいいんだい」


「二杯くれ」


孫叔母さんは呆れたように笑った。


「お前、本当に面の皮が厚いね」


安生は腰掛けに戻った。


「面の皮が薄かったら、この町じゃやっていけないだろ」


馄飩はすぐに運ばれてきた。


安生は黙って食べた。


一杯目は、あっという間だった。


二杯目になると、少しゆっくりになった。


孫叔母さんは屋台の奥で器を片づけながら、ときどき安生を見た。


「お前の母さん、具合はどうだい」


安生の箸が止まった。


「いつもと同じだ」


「薬は飲んでるのかい」


「ああ」


「金は足りてるのかい」


「足りてる」


孫叔母さんは、それ以上聞かなかった。


安生も説明しなかった。


彼女が聞いているのは金のことだと分かっていた。


だが、安生の懐にあるのは三枚の銅銭だけだった。


しかも、その三枚さえ、昨夜ほかの男から博打で勝ち取ったものだった。


最後の馄飩を食べ終えると、椀を前へ押し出した。


「つけといて」


孫叔母さんが不機嫌そうに言った。


「分かってるよ」


安生は立ち上がった。


数歩歩いてから、また振り返る。


「孫叔母さん」


「何だい」


「来月には返す」


孫叔母さんは安生を見た。


「お前、いつだってそう言うじゃないか」


安生は少し笑った。


「今度は本当だ」


そう言って、今度こそ歩いていった。


孫叔母さんはその背中をしばらく見送ってから、また器を片づけ始めた。


隣で油条を売っていた老張が、身を寄せてくる。


「まだあいつを信じてるのか」


「信じちゃいないよ」


「じゃあ、どうして食わせるんだ」


孫叔母さんは手を拭いた。


「あいつの母親から、薬代を二回分もらってないんだよ」


老張は黙った。


しばらくしてから、ぽつりと言った。


「それでも、あいつが金を払わない理由にはならないだろ」


孫叔母さんは小さく頷いた。


「分かってるよ」


通りには、少しずつ人が増えていた。


安生はもう遠くへ行っていた。


背後で二人が何を話しているのか、彼は知らない。


たとえ聞こえていたとしても、気にはしなかっただろう。


安生は昔からそういう男だった。


人に何を言われても、聞こえないふりをする。


ただ、あまりにひどいことを言われれば別だった。


そのときは殴る。


殴ってしまえば、相手も大人しくなる。


それが一番簡単なやり方だと、安生は思っていた。


拳は道理より早い。


そして、道理よりよく効く。


城西まで来ると、二人の若者がこちらへ歩いてきた。


陳二と趙順だった。


二人とも安生より少し若い。


普段から、安生の後をついて回っている。


陳二が聞いた。


「安哥、昨日はどうだった?」


「何がだ」


「博打だよ」


安生は横目で見た。


「負けた」


「いくら?」


「お前に関係あるか」


陳二は笑って口を閉じた。


趙順は笑わなかった。


「安哥、西街の呉布屋の主人、今日も金を払わないそうです」


安生は足を止めた。


「いくらだ」


「三両です」


「行くぞ」


「今から?」


「今だ」


三人は西街へ向かった。


六月の太陽は、もう昇っていた。


昨夜の雨で、通りは濡れて光っている。


靴の裏が石畳を踏むたび、ときどき泥水が跳ねた。


安生は歩くのが速かった。


物事を先延ばしにするのが嫌いだった。


特に、金を取り立てることに関しては。


布屋に着くと、安生はそのまま暖簾を上げて中へ入った。


主人は帳面をつけていた。


安生を見ると、算盤を置いた。


「安さん」


安生は椅子を引いて座った。


「金は?」


主人は声を落とした。


「安さん、もう少し待ってください」


「何日だ」


「十日ほど」


「前も十日だったな」


「今度は本当です」


安生は笑った。


「商売人ってのは、みんな同じことを言うな」


主人は何も答えなかった。


安生は棚の上にあった布を一反、手に取った。


「これはいくらだ」


主人の顔色が変わった。


「安さん、それはお客さんの預かり物です」


安生は主人を見る。


「いくらだと聞いてる」


主人は歯を食いしばった。


「一両七銭です」


安生は布を置いた。


「じゃあ、二反もらうか」


「安さん!」


主人が立ち上がる。


安生も立った。


二人は帳場越しにしばらく見つめ合った。


やがて安生は笑った。


「何を怖がってる」


そう言って、主人の肩を軽く叩いた。


「別に奪いに来たわけじゃない」


それだけ言うと、店を出た。


戸口まで来て、もう一度振り返る。


「三日だ」


「何がです?」


「三日後に、また来る」


主人は黙って安生を見ていた。


安生はもう歩き出していた。


趙順が後ろから追いついてくる。


「安哥、どうして今、取らなかったんです?」


安生は答えた。


「取ったら、あいつは商売ができなくなる」


「それがいいんじゃないですか」


安生は足を止めた。


「馬鹿か、お前」


趙順が目を丸くする。


安生は彼を見た。


「あいつが商売できなくなったら、何を使って金を返すんだ」


趙順は、ようやく分かったという顔をした。


「さすが安哥ですね」


安生は笑った。


そう言われるのは、悪くなかった。


そのため、しばらく機嫌よく歩いていた。


街角まで来たところで、梨を売っていた男と肩がぶつかった。


竹籠が倒れた。


いくつかの梨が泥水の中へ転がっていく。


男の顔から血の気が引いた。


「すみません、すみません……」


安生は足元を見た。


「前を見て歩け」


男は慌ててしゃがみ込んだ。


「弁償します」


安生は何も言わなかった。


趙順が先に歩み出ると、残っていた梨を一つ、足で蹴った。


梨は道端の水たまりへ転がった。


「何を弁償するんだよ」


男が顔を上げる。


「本当に、わざとじゃないんです」


安生は男を見た。


なぜだか、そのとき急に、どうでもいいことのように思えた。


「もういい」


そう言って手を振った。


「行くぞ」


三人はまた歩き始めた。


誰も気に留めなかった。


梨売りの男が泥水の中にしゃがみ込み、長いこと梨を拾い続けていたことも。


一つの梨が、安生がさっき立っていた場所まで転がってきた。


男はそれを拾い上げ、布で拭いてから、また籠の中へ戻した。


そのときの安生には知る由もなかった。


この男とは、後になってもう一度会うことになる。


そして、あの日のことを何度も思い出すことになる。


ただ、そのときの彼には、そんなことを考える理由などなかった。


人の記憶に残る出来事というのは、必ずしも、そのとき大きな意味を持っているわけではない。


むしろ、何でもないことだからこそ、本人は忘れてしまう。


それでも、相手は覚えている。


長い年月が過ぎてから、ようやくそれに気づくことがある。


安生はもちろん、そんなことを考えてはいなかった。


彼が考えていたのは、別のことだった。


今夜、どうやって二両を作るか。


懐の三枚の銅銭に触れる。


銅銭同士が触れ合い、小さな音を立てた。


安生は手の中を見た。


そのとき、ふと、朝、家を出る前に母親から言われた言葉を思い出した。


「安生、今日は早く帰っておいで」


あのときは急いでいた。


だから、ただ一言、


「分かった」


と答えただけだった。


今思い返しても、特に何とも思わない。


家はそこにある。


母親も、いつもそこにいる。


人は、明日もきっと同じようにあると思っている。


だから、ごく普通の一言を、わざわざ覚えておこうとはしない。


安生も、そうだった。


三枚の銅銭を、もう一度手の中へ押し込む。


顔を上げる。


少し先で、陳二が待っていた。


趙順は、今夜どこの賭場へ行くかを話している。


安生は笑った。


「行くぞ」


三人はまた歩き出した。


通りには、人が行き交っていた。


誰も知らなかった。


この安生という若者が、ずっと後になって、初めて自分自身に問いかけることになる。


金のことでもない。


女のことでもない。


兄弟のことでもない。


他人が自分をどう見るか、ということでもない。


ただ一つ。


もし、この一生を生きられるのが一度だけだとしたら。


自分は、いったい、どう生きたいのか。

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