↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/110

第三十三章 見たものを残す

翌朝、安生はまた河西へ向かった。


今度は、先に孫記へは行かなかった。


許家へ向かった。


昨日、父から聞いた。


許文成は、もう何年も前に亡くなっている。


だから、安生もあまり期待していなかった。


ところが、何人かに尋ねて回ると、本当に家を見つけることができた。


許家の庭は小さかった。


門の脇には、棗の木が一本立っている。


安生は戸を叩いた。


しばらくして、四十過ぎくらいの女が出てきた。


「どちらさま?」


「ここは、許文成さんのお宅ですか?」


女は安生を見た。


「父を訪ねてきたの?」


「はい。」


女の表情が、少し変わった。


「あなた、誰?」


「安順河の息子です。」


女は一瞬、黙った。


それから、戸を少し開けた。


「入って。」


安生は庭へ入った。


家の中は簡素だった。


机の上には針と糸、それから縫いかけの服が何着か置かれている。


女が水を一杯出してくれた。


「私は許蘭。」


「許叔は、私の父です。」


「俺は安生です。」


「知ってる。」


安生が顔を上げる。


「俺を知ってる?」


許蘭はうなずいた。


「父が話してた。」


「いつ?」


「父が病気で寝込んでいた頃。」


安生は少し黙った。


「俺のことを?」


「ええ。」


「何て言ってた?」


許蘭は少し笑った。


「子どもの頃、ずいぶん手のかかる子だったって。」


安生も笑った。


「それは本当だ。」


許蘭は安生を見る。


「今日は、波止場のことを聞きに来たんでしょう?」


安生はうなずいた。


「知ってるの?」


「父が死ぬ前に、何度か話してた。」


「何て?」


許蘭は少し考えた。


「帳簿は、帳場でなくなったんじゃないって。」


安生は言葉を失った。


「どういう意味?」


「分からない。」


「父さんは説明しなかった?」


「しなかった。」


許蘭は首を振る。


「その頃は、私も大したことだとは思わなかったから。」


「ほかには?」


「まだある。」


許蘭は奥の部屋へ入っていった。


しばらくして、一つの布包みを持って戻ってきた。


布はかなり古びている。


それを机の上に置く。


「父が残したもの。」


安生は、すぐには開かなかった。


「見てもいい?」


「いいよ。」


安生は布包みをほどいた。


中には、黄ばんだ紙が何枚か入っていた。


それと、もう乾いて使えなくなった筆が一本。


一番上の紙には、手書きの文字が何行か残っている。


安生はしばらく読む。


「帳簿?」


「違う。」


許蘭が言った。


「父は、あとになってあまり帳簿を書かなくなった。」


「これは、自分で残していたもの。」


安生は続きを読んだ。


書かれていることは多くない。


いくつかの日付。


そして、何人かの名前。


その中の一行に、こうあった。


六月三日、六十両、許記。


安生は眉を寄せた。


「許記?」


「分からない。」


「父さんが店でもやってたの?」


「やってない。」


「じゃあ、どうして『許記』って書いてある?」


許蘭は首を振った。


「父が自分で書いたんだと思う。」


安生はさらに下へ目を移した。


次の行には、短くこう書かれていた。


「金は見た。荷は揃わず。」


安生の手が止まった。


「これは、どういう意味?」


許蘭も紙を見る。


「分からない。」


安生は、それ以上推測しなかった。


紙を机の上に置く。


「ほかにもある?」


許蘭はうなずいた。


布包みから、もう一枚取り出した。


こちらは半分しか残っていない。


端が明らかに引き裂かれている。


安生は文字を見る。


「これは……」


「父が死ぬまで、ずっと持っていた。」


紙には、数行だけ残っている。


六月六日。


未収。


周長順。


その下に、ぼんやりとした「許」の字。


安生は、その文字をじっと見つめた。


ようやく分かった。


許文成は、誰が金を持っていったのかを証明しようとしていたわけではない。


記録していたのだ。


六月三日。


六十両があった。


金は、確かに見た。


だが、荷はすべて対応していなかった。


六月六日。


また、「未収」という記録が出ている。


その後ろに、周長順の名前がある。


そして「許」という字は、


ただ自分が書いた記録だという印だった。


安生が聞いた。


「この紙、誰が破ったの?」


許蘭は首を振る。


「分からない。」


「父さんが?」


「たぶん。」


「誰かが訪ねてきたことは?」


「ある。」


安生が顔を上げる。


「誰?」


許蘭は少し考えた。


「父が病気で寝ていた頃、一人来た。」


「どんな人?」


「知らない。」


「いくつくらい?」


「父より若かった。」


「何を話してた?」


「よく聞き取れなかった。」


安生は、それ以上聞かなかった。


それだけでは、何の証拠にもならない。


知らない男が一人、訪ねてきた。


それだけだ。


安生は、もう一度紙に目を落とした。


「父さん、どうしてこれを残したのか、何か言ってた?」


許蘭はしばらく黙った。


「一度だけ。」


「何て?」


「帳簿は間違うことがある。」


「人の記憶も間違う。」


「でも、自分で見たものは、残しておいたほうがいいって。」


安生は、ゆっくりとうなずいた。


その言葉を覚えておこうと思った。


⸻


許家を出たあと。


安生はすぐには父のところへ戻らなかった。


孫記へ向かった。


孫福は店先を掃いていた。


安生が手にしている紙を見ると、表情が少し変わった。


「それ、どこで手に入れた?」


「許家。」


「許蘭が渡したのか?」


「ああ。」


安生は紙を差し出した。


「見て。」


孫福は受け取った。


しばらく目を通す。


「許文成の字だ。」


「知ってる?」


「知ってる。」


「じゃあ、『許記』って何?」


孫福は首を振る。


「分からない。」


「『金は見た。荷は揃わず』って書いてある。」


孫福は黙った。


「これは合ってる?」


「合ってる。」


安生は孫福を見る。


「だから、六十両は確かに誰かが見ていた。」


「ああ。」


「でも、荷は全部対応していなかった。」


「ああ。」


「じゃあ、二十両は?」


孫福は首を振る。


「それは、ここにはない。」


安生は何も言わなかった。


孫福は紙を返す。


「もう分かっただろ。」


「何が?」


「あの頃の八十両は、最初から八十両だったとは限らない。」


安生はうなずいた。


「分かってる。」


「何件かの帳簿が、一つにまとめられた。」


「ああ。」


「それで、みんなが八十両を調べ始めた。」


孫福はため息をついた。


「調べているうちに、最初の問題を忘れたんだ。」


安生は孫福を見る。


「最初の問題って?」


孫福は少し考えた。


「六月三日。」


「六十両。」


「金は届いた。」


「荷が揃っていなかった。」


「どうしてなのか。」


安生は答えなかった。


紙をきちんと包み直す。


そして、帰ろうとした。


そのとき、孫福が言った。


「安生。」


「ん?」


「お前の父さんも、最初はそこから調べ始めた。」


安生の足が止まった。


「最後は、どこまで調べた?」


孫福は安生を見る。


「沈川が死ぬところまでだ。」


安生は黙っていた。


「そのあと?」


「そのあと、お前の父さんは調べるのをやめた。」


安生は店先に立ったまま聞く。


「どうしてだと思う?」


孫福は首を振った。


「分からない。」


安生はうなずいた。


それ以上は聞かなかった。


孫記を出る。


通りには、人が行き交っている。


野菜を担いで歩く者。


荷車を走らせる者。


道端で値段を掛け合う者。


いつもと何も変わらない。


それでも安生には、初めて分かった気がした。


あの頃の出来事は、


どこか特別な場所に隠されていたわけではない。


一枚の古い紙に残っていた。


一人の普通の人間の記憶に残っていた。


言い終わらなかった一言の中にも残っていた。


ただ、二十年以上の時間が過ぎて、


関わった人間は一人ずつ年を取り、


そして死んでいった。


残されているものは、少しずつ減っている。


安生は手にした紙を見る。


そして、懐にしまった。


今度は、次の人を急いで探さなかった。


まず家へ帰ろうと思った。


ここまで見つけたものを、


一つずつ。


自分で確かめるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。