第三十二章 聞いたまま
安生が城南で陳二を見つけたとき、陳二は茶店の脇にしゃがんでいた。
手には、半分だけ残った焼き餅を持っている。
安生を見ると、陳二は残りを口に押し込んだ。
「どうした?」
「ちょっと聞きたいことがある。」
「何だ?」
「昨日、お前が言ってたろ。誰かが俺の父さんのことを聞いてたって。」
陳二は焼き餅を飲み込んだ。
「ああ。」
「知ってることを、全部話してくれ。」
陳二は少し考えた。
「別に、大したことじゃない。」
「いいから、話して。」
「一昨日の夜、賭場の前で荷運びの男に会った。」
「名前は?」
「知らない。」
「男?」
「男だ。」
「いくつくらい?」
「三十くらいだったと思う。」
安生は眉を寄せた。
「趙順は二十代って言ってた。」
陳二が少し驚く。
「趙順も会ったのか?」
「誰かに聞かれたって。」
「じゃあ、同じ男じゃないかもしれないな。」
安生は何も言わなかった。
陳二が続ける。
「そいつが俺に聞いたんだ。」
「安順河を知ってるかって。」
「お前は何て答えた?」
「知ってるって。」
「それから?」
「お前の父さん、昔、波止場で働いてたのかって。」
「何て答えた?」
「働いてたって。」
「それから?」
「周長順のことを聞かれた。」
安生は陳二を見る。
「どう聞いた?」
「周長順って、昔、帳簿を見てたのかって。」
「何て答えた?」
「知らないって。」
安生はうなずいた。
「それで帰った?」
「ああ。」
「俺のことは聞かなかった?」
陳二は首を振る。
「聞いてない。」
安生はしばらく黙っていた。
「じゃあ、どうして趙順に話したとき、俺のことを聞かれたって言ったんだ?」
陳二は頭をかいた。
「そいつが、こんなことを言ったんだ。」
「何て?」
「『安家のあの小僧も知ってるのか』って。」
安生が顔を上げる。
「聞き間違いじゃない?」
「聞き間違えてない。」
「どの小僧のことか、聞かなかったのか?」
「聞かなかった。」
「どうして?」
陳二は当然のように答えた。
「俺はそいつを知らないからな。」
安生は陳二を見た。
しばらくして、思わず笑った。
「それもそうだ。」
陳二も笑う。
「で、何か分かったのか?」
「まだ。」
「それでも調べるのか?」
「調べる。」
「どうして?」
安生はすぐには答えなかった。
父のことを思った。
あの古い紙のこと。
周長順のこと。
そして、自分がこれまでしてきたことも。
「もう、何も知らないままでいたくないから。」
陳二は安生を見る。
「お前、変わったな。」
「どこが?」
「前は、人が何を言っても、本当かどうかなんて気にしなかった。」
「今は?」
「今は、最後まで聞こうとする。」
安生が少し笑った。
「少なくとも、まずは確かめる。」
⸻
二人はしばらく茶店の脇に座っていた。
やがて、陳二が言った。
「安生。」
「ん?」
「あの男、もしかしたらお前の父さんに何かしようとしてるんじゃないか?」
安生は首を振った。
「分からない。」
「怖くないのか?」
「何が?」
「もし、本当に何かあったら。」
安生は少し黙った。
「面倒があるなら、面倒を片づける。」
「どうするつもりだ?」
「まず、誰なのか知る。」
陳二はうなずいた。
「そうだな。」
立ち上がる。
「じゃあ、俺も聞いてみる。」
安生は陳二を見る。
「変な聞き方するなよ。」
「どうして?」
「相手を間違えたら、かえって話がややこしくなる。」
陳二が口を尖らせる。
「昔のお前なら、自分から話をややこしくしてただろ。」
「昔は昔だ。」
「今は?」
「今は、まず自分のことをちゃんとする。」
陳二が笑う。
「分かった。」
二人は一緒に茶店を離れた。
何歩か歩いたところで、陳二が急に立ち止まる。
「あ。」
「何?」
「もう一つある。」
「言って。」
「あの男、何か持ってた。」
「何を?」
「紙みたいなものだ。」
安生が振り返る。
「どんな紙?」
「分からない。」
「字は見えた?」
「よく見えなかった。」
「名前は?」
「書いてあったような気がする。」
「何て名前?」
陳二は眉を寄せ、しばらく考えた。
「俺が見えたのは、一文字だけだ。」
「何の字?」
「安。」
安生は何も言わなかった。
陳二が顔を見る。
「どうした?」
「何でもない。」
「知ってる字か?」
「分からない。」
安生はそのまま歩き出した。
今度は、すぐにその「安」という字と父を結びつけなかった。
姓一つだけでは、何も証明できない。
安家は、自分たち一家だけではない。
一文字だけで、誰かが父を探していると決めつけることもできない。
何歩か進んでから、安生が言った。
「陳二。」
「ん?」
「これから誰かに何か言われたら、そのまま俺に伝えてくれ。」
「そのまま?」
「ああ。」
「俺の代わりに考えるな。」
陳二は少し考えた。
「分かった。」
「それから。」
「何だ?」
「俺を助けるつもりで、人を脅すな。」
陳二が笑った。
「分かったよ。」
安生も少し笑う。
「今度は、本当に分かってくれ。」
⸻
夕方、安生は家に戻った。
父は庭に座っていた。
安生は、すぐには誰かが父のことを聞いていたとは言わなかった。
ただ隣に腰を下ろす。
「父さん。」
「ん?」
「今日、何人かにまた聞いてきた。」
安順河が息子を見る。
「何か分かったか?」
「いろいろ。」
安生は少し間を置いた。
「でも、間違ってるかもしれないこともある。」
安順河はうなずいた。
「なら、ゆっくり分けていけばいい。」
「ああ。」
父が息子を見る。
「今、お前にも一番難しいことが分かってきたか?」
「何?」
「調べることじゃない。」
「本当かどうかを見分けることだ。」
安生は一瞬、黙った。
それから、ふっと笑った。
「今日、ちょうど同じことを考えてた。」
安順河も、少し笑った。
「それならいい。」
二人は庭に座っていた。
どちらも、それ以上は話さなかった。
空が少しずつ暗くなっていく。
安生は初めて思った。
自分は本当に、昔ならできなかったことを覚え始めているのかもしれない。
すぐに信じることでもない。
すぐに疑うことでもない。
ただ――
まず、話を最後まで聞くこと。
そして、確かめること。




