↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/110

第二十九章 立ち位置

翌朝早く、安平が戻ってきた。


安生は庭で薪を割っていた。


戸の開く音がして、顔を上げる。


「兄ちゃん?」


「ああ。」


安平は手にしていた包みを軒下に置いた。


「どうして、また帰ってきたの?」


「ばあちゃんに、これを持っていけって言われた。」


そう言って、包みの中から米を二袋と、干し野菜の小さな袋を取り出した。


母が受け取る。


「途中で何か食べたの?」


「食べたよ。」


安生は兄を見る。


「昨日、出ていったばかりじゃないか。」


「ちょっと用ができたんだ。」


安平は、それ以上言わなかった。


安生も聞かなかった。


母が家の中へ入ってから、安生が聞いた。


「兄ちゃん、周長順のこと知ってる?」


安平は一度、弟を見た。


「知ってる。」


「前に会ったことある?」


「何度か。」


「波止場の帳簿を見てた人?」


「全部じゃない。」


安生が少し笑った。


「みんな、そう言うんだな。」


「本当に全部じゃないからな。」


安平は敷居に腰を下ろした。


「当時、帳場は二つあった。」


「二つ?」


「一つは荷を見て、もう一つは金を見ていた。」


「周長順は?」


「金のほうだ。」


安生も隣に腰を下ろす。


「じゃあ、沈叔は?」


「荷のほう。」


「じゃあ、どうして六十両に二人とも署名してるの?」


「最後には、金と荷を合わせなきゃならないからだ。」


安生は少し考えた。


「つまり、周長順が金を確認して、沈叔が荷を確認する?」


「だいたい、そうだ。」


「じゃあ、二十両は?」


安平は一瞬、黙った。


「二十両には、対応する荷がなかった。」


安生が顔を上げる。


「どういうこと?」


「帳簿には金がある。でも、その金に対応する荷が見つからなかった。」


「だから二十両が足りなくなった?」


「ああ。」


「じゃあ、六十両は?」


「六十両には荷があった。」


「それなのに、どうして八十両に入ったの?」


安平は弟を見る。


「金が一緒に記録されていたからだ。」


安生は眉を寄せた。


安平は続けた。


「帳場の人間が帳簿の合わないところに気づいて、前後の何件かをまとめて調べ直した。」


「そのとき、六十両には荷があることは分かった。」


「でも、金を受け取ったことを示す証拠が足りなかった。」


「だから二十両と一緒に、問題のある勘定として扱われた。」


安生は黙った。


そのとき初めて気づいた。


自分はずっと、八十両を一つの金だと思っていた。


だが、実際には違う。


二十両には、対応する荷がなかった。


六十両には荷があったが、受け取りを証明する書類が揃っていなかった。


別々の二つの問題が、一緒に数えられた。


それで、八十両になった。


「最後に調べたのは、誰?」


「周長順。」


「沈叔は?」


「沈川も調べた。」


「父さんは?」


「お前の父さんが調べ始めたのは、そのあとだ。」


安生は顔を上げた。


「どうして?」


安平はすぐには答えなかった。


「沈川が、父さんを訪ねてきたからだ。」


「いつ?」


「お前が川に落ちる前だ。」


「何を話したの?」


「そこまでは知らない。」


安生は兄を見る。


安平はうつむき、地面に落ちていた草を一本拾った。


「ただ、あの日の夜、父さんが帰ってきたとき、ひどく険しい顔をしていたのを覚えてる。」


「沈叔と喧嘩したの?」


「違う。」


「じゃあ、何だったの?」


「何かを話し合っているようだった。」


「兄ちゃん、聞いたの?」


「少しだけ。」


「何て言ってた?」


安平はしばらく考えた。


「沈川が言ってた。」


「この帳簿の調べ方じゃ駄目だって。」


安生は眉を寄せる。


「どうして?」


「分からない。」


「ほかには?」


「このまま調べ続けたら、誰かがひどい目に遭う、と。」


安生は黙った。


「誰のこと?」


「そこまでは言ってなかった。」


安平は拾った草を地面に落とした。


「その翌日、お前が川に落ちた。」


庭が急に静かになった。


安生は自分の手を見た。


「だから、父さんはそのあと調べ始めた?」


「ああ。」


「周長順を?」


「みんなをだ。」


「沈叔も?」


「もちろん。」


安平は少し間を置いた。


「自分自身もな。」


安生が顔を上げた。


「どういうこと?」


安平は弟を見る。


「父さんは、あの頃、荷を運んでいた。」


「何件かの金は、父さん自身が渡していた。」


「だから、自分のことも調べなきゃならなかった。」


安生は何も言わなかった。


その瞬間、父がなぜ今まで話したがらなかったのか、少し分かった気がした。


父が真相を知っていたからではない。


あの古い帳簿の中では、誰一人として完全に外側に立っていられなかったのだ。


誰もが少しずつ手を入れていた。


誰もが少しずつ覚えていた。


そして、誰もが少しずつ間違えていたかもしれない。


「兄ちゃん。」


「ん?」


「どうして、あの頃、俺に何も言わなかったの?」


安平は安生を見る。


「お前は、まだ七歳だった。」


「そのあとは?」


「そのあとは、お前が聞かなかった。」


安生は一瞬、言葉を失った。


安平は続けた。


「大きくなってからも、お前は毎日、陳二たちとつるんでた。」


「俺たちが何を言っても、聞かなかっただろ。」


安生は答えなかった。


答えは、もう分かっていた。


昔の自分は、本当に人の話を聞かなかった。


家族に何か言われれば、うるさいと思った。


父に騒ぎを起こすなと言われれば、父は臆病なのだと思った。


母に早く帰れと言われれば、返事だけして忘れた。


兄に賭け事をやめろと言われても、聞いたあとでまた出かけた。


安平が立ち上がる。


「今、お前が人の話を聞こうとしてる。それは、いいことだ。」


「でも、何でも自分のせいにするなよ。」


安生は兄を見る。


「分かってる。」


安平は笑った。


「分かってない。」


「お前は昔から、そういうところがある。」


「誰かが自分の代わりに一度痛い目に遭っても、大したことじゃないと思ってた。」


「でも、本当はそうじゃない。」


安生は反論しなかった。


しばらくして、聞いた。


「兄ちゃんは?」


「俺がどうした?」


「兄ちゃんも、昔、俺の代わりに何か背負った?」


安平は少し黙った。


「背負ったよ。」


「後悔してる?」


「することもある。」


「それでも、どうして?」


安平は安生を見る。


「お前は俺の弟だからだ。」


また、その言葉だった。


子どもの頃にも聞いた。


今も同じ言葉だった。


けれど、今度の安生は、それを当たり前だとは思わなかった。


ただ、うなずいた。


「兄ちゃん。」


「ん?」


「これからは、俺の代わりに背負わなくていい。」


安平が少し笑う。


「じゃあ、自分の足で立て。」


そう言って、家の中へ入っていった。


安生は庭に残った。


しばらくして、ゆっくり立ち上がった。


ふと、孫福の言葉を思い出した。


――お前の父親は、いつ止まるべきか分かっていた。


以前の安生は、それを、父が帳簿を調べるのを諦めたという意味だと思っていた。


だが、今は少し違うように思えた。


父は最後まで調べて、


この一件の中では、誰一人として完全に外に立ってはいられないことに気づいたのかもしれない。


自分も。


沈川も。


周長順も。


そして、帳簿を運んだ孫福さえも。


安生は初めて思った。


自分が本当に知りたいのは、もう八十両だけではないのかもしれない。


あの年、なぜ一人一人が、それぞれの選択をしたのか。


そして――


父はなぜ、最後に家へ帰ることを選んだのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。