第三十章 「許」の字
午後、安生はまた孫記へ行った。
孫福はちょうど店を閉めようとしていた。
安生を見ると、手を止めた。
「今日は、ずいぶん早いな。」
「どこかへ行くの?」
「行かない。」
孫福は戸を開け直した。
「入れ。」
安生が中へ入る。
店には、客がほとんどいなかった。
孫福は帳場の奥から、一つの木箱を運び出した。
「この前、お前が聞いていたものだ。」
安生は木箱を見る。
「何?」
「昔の帳簿だ。」
「帳簿をつけていた人は、もう死んだって言ってなかった?」
「ああ。」
「じゃあ、どうして帳簿がここにあるの?」
孫福は答えなかった。
木箱を開ける。
中には、黄ばんだ帳面が何冊か入っていた。
そのうちの一冊は、角がひどく擦り減っている。
孫福はそれを取り出した。
「当時の副帳だ。」
安生が受け取る。
最初のページは、もうほとんど読めない。
それでも後ろのほうには、まだ文字が残っていた。
日付。
荷物。
数量。
金額。
そして、受け取った者の名前。
安生はゆっくりページをめくった。
六月三日。
六十両。
その下に、二人の名前があった。
周長順。
沈川。
その横に、小さな字で書かれている。
「貨、すでに入庫。」
安生はしばらく見つめた。
「これなら、六十両は受け取られていたってことじゃないの?」
孫福は首を横に振った。
「そうとは言えない。」
「どうして?」
「これは副帳だからだ。」
「正帳とは何が違う?」
「正帳は金を記す。」
「副帳は?」
「荷を記す。」
安生は眉を寄せた。
「じゃあ、ここに書いてあるのは、荷が入庫したってことだけ?」
「ああ。」
「金が実際に受け取られたかどうかは、正帳を見ないと分からない。」
「そういうことだ。」
安生はさらにページをめくった。
六月四日。
六月五日。
六月六日。
その数日後、突然、一枚分が抜けていた。
安生の手が止まる。
「ここは、どうしてないの?」
孫福が見る。
「破られた。」
「誰が?」
「分からない。」
「当時、波止場にいたんだろ?」
「いた。」
「それでも分からない?」
孫福はしばらく黙っていた。
「俺が見たときには、もうなかった。」
安生は、それ以上聞かなかった。
次のページをめくる。
下のほうに、一行だけ書かれている。
「帳場にて、六月三日より六日まで照合。」
その横には、ぼやけた印が押されていた。
安生が聞く。
「これは誰の印?」
孫福は印を見る。
「帳場の人間だ。」
「周長順?」
「違う。」
「じゃあ、誰?」
孫福は少し黙った。
「お前の父さんなら、知ってるはずだ。」
安生が顔を上げた。
「どうして?」
「その人が波止場を離れるとき、お前の父さんが送ったからだ。」
安生は一瞬、言葉を失った。
「名前は?」
孫福はすぐには答えなかった。
やがて、言った。
「許文成。」
その名前を聞くのは、初めてだった。
「今はどこにいる?」
「死んだ。」
「いつ?」
「ずっと前だ。」
「どうして死んだ?」
「病気だ。」
安生はうなずいた。
そして、また帳簿に目を落とした。
六月六日のところに、小さな字が一つあった。
「未収。」
だが、金額は書かれていない。
安生は長いこと、それを見つめていた。
「これは、どういう意味?」
孫福が言った。
「分からない。」
「その頃、波止場にいたんだろ?」
「俺は荷を運んでいただけだ。」
「見てなかった?」
「見たからって、分かるとは限らない。」
安生は反論しなかった。
帳簿を閉じる。
「これ、持って帰ってもいい?」
孫福は首を横に振った。
「駄目だ。」
「じゃあ、もう少し見てもいい?」
「それならいい。」
安生はもう一度、帳簿を開いた。
今度は八十両を探そうとはしなかった。
一ページずつ、ゆっくり見ていく。
以前なら気にも留めなかったところに、目が行く。
誰が書いたのか。
誰が署名したのか。
誰が受け取ったのか。
どれが金の記録なのか。
どれが荷の記録なのか。
記されたまま、その先が何も残っていないものはどれか。
見ているうちに、安生は思った。
あの頃の帳簿は、自分たちが今聞かされているほど単純なものではなかった。
少なくとも、
「八十両がなくなった。」
その一言だけでは説明できない。
しばらくして、孫福が言った。
「お前の父さんも、この帳簿を見た。」
安生が顔を上げる。
「父さんが?」
「ああ。」
「いつ?」
「お前が川に落ちたあとだ。」
「一人で?」
「最初はな。」
「そのあとは?」
孫福は首を振った。
「そこまでは知らない。」
安生は帳簿を閉じた。
「何か持って帰った?」
孫福は少し考えた。
「一枚、紙を持っていった。」
「何の紙?」
「六月三日の受け取り票だ。」
安生の手が止まった。
「本当に?」
「ああ。」
「どうして分かる?」
「あの日、お前の父さんが、写しが残っていないかと俺に聞いたからだ。」
安生は何も言わなかった。
孫福は帳簿を木箱へ戻した。
「本気で調べるなら、まず父さんに聞け。」
「何を?」
「あの受け取り票が、まだ残っているかどうか。」
「もし残ってなかったら?」
孫福は安生を見る。
「誰かが手を入れたってことになる。」
安生は眉を寄せる。
「父さん自身が処分した可能性もある。」
孫福はうなずいた。
「ああ。」
「だから、誰かがやったとは言えない。」
「そういうことだ。」
安生は立ち上がった。
「ありがとう。」
孫福はうなずいた。
安生は店を出ようとしたところで、振り返った。
「孫叔。」
「何だ?」
「あの頃、どうしてずっと話したがらなかったの?」
孫福は安生を見る。
「俺はただの荷運びだったからだ。」
「人が知らないことを、知っているようには話したくなかった。」
安生は、それ以上聞かなかった。
孫記を出ると、趙順のところにも、陳二のところにも寄らなかった。
そのまま家へ帰った。
父は庭で古い腰掛けを直していた。
安生が近づく。
「父さん。」
「ん?」
「許文成って、知ってる?」
安順河の手にしていた木槌が止まった。
安生には、それが見えた。
けれど今度は、すぐには聞かなかった。
ただ続けた。
「孫福が言ってた。昔、父さんが波止場を離れる許文成を送ったって。」
安順河はうつむいたままだった。
「知ってる。」
「六月三日の受け取り票、父さんが持っていったことも?」
安順河が顔を上げた。
父子はしばらく見つめ合った。
やがて、安順河が聞いた。
「孫福は、そこまで話したのか?」
「持っていったことだけ。」
安順河は木槌を置いた。
「家の中だ。」
安生が一瞬、聞き返す。
「何が?」
「あの紙だ。」
安順河は息子を見る。
「まだある。」
安生は、父がすぐに答えるとは思っていなかった。
「見せてもらっていい?」
安順河は何も言わなかった。
立ち上がって家の中へ入る。
しばらくして、古びた布包みを持って戻ってきた。
それを机の上に置く。
安生はゆっくり包みを開いた。
中には、一枚の紙だけが入っていた。
紙は黄ばんでいた。
それでも、文字はまだ読める。
六月三日。
六十両。
「波止場へ渡済み。」
その下に、周長順の名前もない。
沈川の名前もない。
ただ、小さな字が一つだけ残されていた。
「許」。
安生は、その一字を見つめた。
ふと、思った。
この紙で本当に重要なのは、
六十両のことではないのかもしれない。
それよりも――
なぜ帳簿をつけた人間が、
最後に「許」の一字だけを残したのか。
そして父は、なぜこれを、
何年ものあいだ手元に置き続けていたのか。




