第二十八章 家へ連れ帰る
夕食のあいだ、安順河はほとんど口を開かなかった。
母が肉を一切れ、父の椀に入れる。
「もう少し食べなさい。」
「もう十分だ。」
安生は隣で、黙って飯を食べていた。
しばらくして、ふいに口を開く。
「父さん。」
「ん?」
「周長順とは、どれくらい前から知り合いだった?」
安順河の箸が、一瞬止まった。
「ずっと前からだ。」
「沈叔より先?」
「同じくらいだ。」
「帳簿を見てた人?」
「やっていたこともある。」
安生はうなずいた。
「孫福が言ってた。六十両は、自分が波止場まで届けたって。」
安順河は何も言わなかった。
「それから、二十両が合わなかった。」
「ああ。」
「じゃあ、あの八十両はいったい何だったの?」
安順河は箸を置いた。
「そんなにいろんな人に聞いて回ったのか?」
「うん。」
「どうして、そこまで調べる?」
安生は少し考えた。
「沈叔が死んだから。」
安順河は息子を見る。
「もう、何年も前のことだ。」
「だからだよ。何年も経ったから、誰も話さなくなった。」
安順河は長いこと黙っていた。
母が小さな声で言った。
「父さんは、話したくないわけじゃないんだよ。」
「分かってる。」
安生は父を見る。
「でも、ずっと俺に関わるなって言ってきた。」
「お前は、あの頃まだ小さかった。」
「今は?」
安順河は答えなかった。
安生はうつむいた。
「俺はもう、子どもじゃない。」
部屋の中が静かになった。
しばらくして、安順河が口を開いた。
「あの八十両は、一度に消えたんじゃない。」
安生が顔を上げる。
「それは知ってる。」
「お前は知らない。」
安順河はゆっくり話した。
「最初に合わなかったのは、二十両だった。」
「そのあとで、六十両も合わなくなった。」
「だから最後に、合わせて八十両になった。」
安生は眉を寄せた。
「じゃあ、どうしてみんな、八十両がなくなったって言ってたの?」
「最後に帳簿を調べたとき、帳面の差額が八十両だったからだ。」
「その六十両を持っていったのは誰?」
「誰も知らない。」
「孫福は、波止場へ届けたと言ってた。」
「あいつの言ってることは間違ってない。」
「じゃあ、誰が受け取った?」
安順河は、すぐには答えなかった。
「周長順だ。」
安生は固まった。
「それと、もう一人いた。」
「誰?」
安順河は息子を見る。
「沈川だ。」
安生は何も言わなかった。
「六十両が波止場へ届いたとき、二人ともそこにいた。」
「じゃあ、どうして後になって沈叔が疑われたの?」
「最後の帳簿に、あいつの署名があったからだ。」
「周長順も署名したんだろ?」
「周長順が見ていたのは、別の方の帳簿だ。」
安生は、趙徳全の言葉を思い出した。
二つの金。
二人の帳簿。
その間に、合わない金が一つあった。
ふいに、安生が聞いた。
「父さんも、昔、周長順を疑った?」
安順河はしばらく黙っていた。
「疑った。」
「じゃあ、どうして誰も最後まで調べなかった?」
「証拠がなかった。」
「証拠がなかっただけ?」
安順河が顔を上げた。
「もう一つ、理由がある。」
「何?」
「お前が川に落ちた。」
安生は黙った。
「あのとき、みんながお前を探していた。」
「そのあと、沈川が死んだ。」
「波止場の連中も怖くなった。」
「何が怖かったの?」
「また何か起きることだ。」
安順河の声は低かった。
「一人が死んで、もう一方の金も分からない。」
「最後には、これ以上調べても面倒が増えるだけだって、みんな思った。」
安生は父を見る。
「父さんも、そこでやめた。」
「……ああ。」
「納得できた?」
安順河が小さく笑った。
ほんの一瞬の笑いだった。
「納得って、何だ?」
安生は答えなかった。
安順河はもう一度、箸を取った。
「そのときの俺は、お前を家へ連れ帰ることしか考えてなかった。」
そう言うと、それ以上は何も話さなかった。
安生も、もう聞かなかった。
⸻
食事のあと。
安生は一人で庭に座っていた。
母が食器を片づけに出てくる。
「父さん、怒ってたのかい?」
「いや。」
「そうかい。」
安生は母を見る。
「母さん。」
「ん?」
「昔、俺が騒ぎを起こすたびに、どうしていつも後始末してくれたの?」
母は一瞬、言葉を失った。
「お前は、俺たちの息子だから。」
「それだけ?」
母は少し考えた。
「お前が小さいころは、まだ子どもだと思ってた。」
「そのあとは?」
「そのあとは……」
母は言葉を止めた。
安生が少し笑う。
「そのうち、慣れたのかな。」
母はうつむいた。
「そうかもしれないね。」
庭は静かだった。
安生は、昔のことを思い出していた。
壊した物。
怯えさせた人。
返していなかった金。
何か起きるたび、誰かが代わりに弁償した。
誰かが代わりに頭を下げた。
誰かが言った。
大丈夫だ。
家に帰ればいい。
昔の安生は、それが家というものだと思っていた。
今になって、少し分かった。
家は、たくさんのことを自分の代わりに受け止めてくれていた。
そのせいで、自分は長いあいだ、その後始末がどこへ行ったのか知らずにいた。
「母さん。」
「何だい?」
「これからは、俺のことは俺にやらせて。」
母は安生を見る。
「自分でやるのかい?」
「ああ。」
「できるの?」
安生は笑った。
「分からない。」
母も笑った。
「じゃあ、少しずつ覚えていきなさい。」
そう言って、食器を持って家の中へ戻っていった。
安生は一人、庭に残った。
しばらくして立ち上がり、自分の部屋へ戻る。
父の部屋の前を通ったとき、足を止めた。
中から咳が聞こえる。
安生は入らなかった。
ただ、しばらくそこに立っていた。
それから自分の部屋へ戻った。
初めて思った。
すべてを、今夜のうちに聞き出す必要はない。
明日でもいい。
何日か後でもいい。
自分が聞き続けるつもりでいる限り、昔のように何も知らないままではいられない。
それに、いくつもの勘定は、今日見つけたからといって、明日には片づくものでもない。
安生は横になった。
外を誰かが通り過ぎる。
足音が、少しずつ遠ざかっていった。
安生は目を閉じた。
今度は、八十両のことを考えなかった。
ただ、父がさっき言った言葉だけが残っていた。
――あのときの俺は、お前を家へ連れ帰ることしか考えてなかった。
初めて分かった気がした。
父があのとき選んだことには、自分が関わっていた。
けれど、それは、
すべてを父の代わりに背負わなければならないということではない。
父があのとき正しかったのか、間違っていたのか。
それを、自分が決める必要もない。
ただ知りたい。
あの年に、いったい何が起きたのか。




