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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第二十七章 止まったところ

安生が家に戻ったときには、もう日が暮れていた。


母は庭で洗濯物を取り込んでいた。


安生を見ると、ただ一言だけ聞いた。


「ご飯は食べたのかい?」


「まだ。」


「鍋に残ってるよ。」


安生はうなずいた。


家の中へ入る。


父は机のそばに座り、古い布で小さな刀をゆっくり拭いていた。


「父さん。」


安順河が顔を上げる。


「ん?」


「今日、波止場で父さんのことを聞いた人がいた。」


安順河の手が止まった。


「誰だ?」


「分からない。」


「どうして知った?」


「陳二から聞いた。」


安順河は目を伏せた。


「気にするな。」


安生は、昔のようにすぐ問い詰めなかった。


ただ、父の顔をしばらく見ていた。


「分かった。」


そう言って、椅子に座り、飯を食べ始めた。


安順河のほうが、かえって顔を上げて安生を見る。


「聞かないのか?」


「父さんは、話したくないんだろ。」


「そういうわけじゃ……」


「じゃあ、話したくなったときに話してくれればいい。」


安順河は何も言わなかった。


母が外から入ってきて、父と息子を見た。


それでも何も言わなかった。


食卓は、しばらく静かだった。


ふと、安生が聞いた。


「兄ちゃんは?」


「今日はもう行ったよ。」


「いつ?」


「午後だ。」


安生はうなずいた。


安平は、ずいぶん早く帰ってしまったらしい。


安生は顔を見ることさえできなかった。


⸻


翌朝。


安生は趙順の家へ向かった。


趙順は庭で薪を割っていた。


安生を見ると、一瞬、手を止めた。


「どうした?」


「昨日、陳二から聞いた。誰かが俺の父さんのことを聞いたって。」


趙順の斧が止まった。


「陳二が言ったのか?」


「ああ。」


「じゃあ、あいつに聞けばいいだろ。」


「今、あんたに聞いてる。」


趙順はしばらく黙っていた。


「俺は、人から聞いただけだ。」


「誰から?」


「荷運びをしてる男だ。」


「名前は?」


「知らない。」


安生は趙順を見る。


「名前も知らないのに、信じたのか?」


「信じたとは言ってない。」


「じゃあ、どうして陳二に話した?」


趙順は斧を地面に置いた。


「お前の父親のことを聞いてたからだ。」


「他には?」


「何が?」


「何を聞かれた?」


「お前の父親が、昔、波止場で働いていたかどうか。」


安生は眉を寄せた。


「それだけ?」


「それだけだ。」


「本当に?」


趙順はすぐには答えなかった。


安生は黙って待った。


しばらくして、趙順が言った。


「名前を一つ、口にしていた。」


「誰の?」


「周長順。」


安生は言葉を失った。


「どうして、その名前を?」


「分からない。」


「その男、どんな人だった?」


趙順は考えた。


「若かった。」


「何歳くらい?」


「二十代くらいだ。」


「他には?」


「それだけだ。」


安生はうなずいた。


「分かった。」


帰ろうとすると、趙順が呼び止めた。


「安生。」


「ん?」


「こんなことを調べて、本当に何かになるのか?」


安生は振り返った。


趙順は続けた。


「調べるなと言ってるわけじゃない。」


「ただ、昔のことだ。もう何年も前のことだろう。」


安生は趙順を見る。


「だから、調べるんだ。」


「どうして?」


安生はしばらく黙った。


「今でも、誰かが聞いてるから。」


趙順は、それ以上何も言わなかった。


⸻


帰り道、安生は孫記へ寄った。


孫福は棚の商品を整理していた。


安生を見ると、まず店の外へ目をやった。


「今日も来たのか。」


「一つ聞きたい。」


「何だ?」


「周長順。」


孫福の手が止まった。


「また、あの人か?」


「昨日、誰かがその名前を口にした。」


孫福は安生を見る。


「誰だ?」


「分からない。」


孫福は、それ以上聞かなかった。


しばらく黙って商品を並べる。


「周長順は、もうずいぶん前に死んだ。」


「知ってる。」


「死んだら、それで終わったことだ。」


「何が?」


孫福が顔を上げた。


「俺が言ってるのは、あいつのことだ。」


安生は何も言わなかった。


孫福は続けた。


「お前の父親は、昔、帳簿を調べていた。」


「ああ。」


「それから、やめた。」


「どうして?」


孫福は首を横に振った。


「それは父親に聞け。」


「聞いた。」


「何て言った?」


「調べても分からなかったって。」


孫福は小さく笑った。


「それなら、それでいい。」


安生は眉を寄せる。


「どういう意味だ?」


「分からないものは、分からない。」


「何か知ってるんだろ?」


孫福は答えなかった。


帳場の下から古い木箱を取り出す。


だが、蓋は開けなかった。


「安生。」


「ん?」


「世の中には、知ったからって解決するとは限らないことがある。」


「それでも、まず知らなきゃならない。」


孫福は安生を見た。


「お前は父親とは違うな。」


「どこが?」


「父親は、あの頃、どこでやめるべきか知っていた。」


安生は黙った。


「俺には分からない。」


孫福は木箱をしまった。


「だから、お前はずっと聞いてる。」


安生は店を出た。


外へ出てから、一度だけ振り返る。


「孫記」の二文字が、陽の光の下で目立たずに掛かっていた。


安生は、以前、孫福に言われた言葉を思い出した。


――安順河は、家へ帰ることを選んだ。


あのときは、その意味が分からなかった。


今でも、分かったわけではない。


ただ初めて思った。


あれは、父親が臆病だったという話ではないのかもしれない。


あの頃、父親は何かを知っていた。


それでも最後には、調べ続けることをやめた。


⸻


夕方。


陳二が安生のところへやって来た。


「今日、趙順のところへ行ったのか?」


「ああ。」


「何て言ってた?」


「誰かが俺の父親のことを聞いてたらしい。それから、周長順の名前も出た。」


陳二が目を丸くする。


「周長順?」


「知ってるのか?」


「いや。」


安生は陳二を見る。


「じゃあ、昨日どうして俺に言わなかった?」


陳二は頭を掻いた。


「今日になって思い出したんだ。」


安生は何も言わなかった。


陳二は落ち着かなそうに続けた。


「本当に、わざと隠したんじゃない。」


「分かってる。」


「じゃあ、どうした?」


安生は首を横に振った。


「何でもない。」


そして家へ向かって歩き出す。


数歩進んだところで、振り返った。


「陳二。」


「あ?」


「これから、誰かに俺のことを聞かれても、分からないなら分からないと言え。」


「分かった。」


「勝手に俺のことを決めるな。」


「分かった。」


「それから……」


安生は陳二を見る。


「誰かに何かを頼まれたときは、自分でよく考えろ。」


陳二が笑った。


「いつから俺を説教するようになったんだ?」


安生も少し笑った。


「今からだ。」


陳二は、それ以上何も言わなかった。


二人は並んで歩いていった。


誰も気づかなかった。


街角の茶店で、一人の男が茶碗を置き、二人を見ていた。


男はしばらく二人の後ろ姿を眺めていた。


それから立ち上がる。


二人の後を追うことはなかった。


ただ、別の通りへ歩いていった。

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