第二十六章 先に生きてもらう
安生は陳二と一緒に、足早に魚屋へ向かった。
まだ店に着かないうちから、言い争う声が聞こえてきた。
「だから、明日には必ず払うって言ってるだろ!」
周明貴の声だった。
安生が近づく。
魚屋の前に、男が二人立っていた。
一人は帳面を手にし、もう一人は腕を組んでいる。
地面には、さばいたばかりの魚が何匹か散らばっていた。
木板を伝って、水が下へ流れている。
「明日?」
帳面を持った男が鼻で笑った。
「昨日も同じことを言ってたじゃないか。」
周明貴の顔は険しかった。
「娘がまだ薬を飲んでるんだ。家には本当に金がない。」
「金がないなら、掛けで買うな。」
「返さないとは言ってない。」
「なら、今払え。」
周明貴は黙った。
男が魚に手を伸ばす。
「これを先に持っていく。」
周明貴が慌てて止めた。
「それはやめてくれ。」
「何だ?」
「明日、料理屋に納める分なんだ。」
「そんなこと、俺には関係ない。」
男がもう一度手を伸ばす。
安生が歩み寄った。
「待ってくれ。」
二人が同時に振り返る。
陳二もすでに安生の隣まで来ていた。
「お前たちは誰だ?」
帳面を持った男が安生を見る。
「金を取りに来た。」
「誰の?」
「周明貴のだ。」
安生は周明貴を見る。
「いくら?」
「百八十文だ。」
陳二が眉を寄せた。
「それくらいの金で、店までひっくり返すのか?」
男は陳二を見る。
「借りたなら、返す。それだけだ。」
安生は何も言わなかった。
周明貴を見る。
「周叔。借りた金か?」
「ああ。」
「いつ?」
「何日か前に、魚を仕入れたときだ。」
「いつ返す約束だった?」
「今日だった。」
安生はうなずいた。
そして、二人の男を見る。
「今日は金がない。」
「それで?」
「二日待ってくれ。」
「何の権利があって?」
安生は男を見る。
「何もない。」
男が一瞬、戸惑った。
安生は続けた。
「この勘定は周叔のものだ。俺には口を出せない。」
「だったら、何を言いに来た?」
「ただ、魚は持っていかないでくれ。」
「なぜだ?」
「明日、納める分だから。」
男が鼻で笑う。
「明日、納められるかどうかなんて、俺には関係ない。」
安生はしばらく黙った。
「今ここで魚を持っていったら、明日、周叔はあんたに返す金も作れなくなる。」
男は何も言わなかった。
隣にいた男が、周明貴と魚屋を見比べる。
「何日だ?」
「明後日。」
周明貴が慌てて口を開く。
「明後日には必ず――」
「必ずとは言うな。」
安生が遮った。
「返せるだけ、先に言ってください。」
周明貴は口をつぐんだ。
「明後日、まず百文。」
「残りは?」
「その三日後に八十文。」
安生はうなずいた。
「それでいい。」
帳面を持った男が眉を寄せる。
「お前が代わりに決めるのか?」
「違う。」
安生は男を見る。
「ただ、話をはっきりさせてるだけだ。」
男はしばらく考えた。
「明後日、百文。その三日後に八十文。」
「それで。」
「もし払えなかったら?」
安生は答えなかった。
周明貴が自分で言った。
「払えなかったら、店にあるものを渡す。」
男は周明貴を見る。
「分かった。」
帳面を閉じる。
「明後日、また来る。」
「すまない。」
周明貴が小さく言った。
男は何も答えず、背を向けた。
もう一人も後に続く。
二人の姿が遠ざかってから、陳二が口を開いた。
「お前、とうとう人の取り立てまで値切るようになったな。」
安生は陳二を見る。
「この前、お前がここへ棒を持ってきたこと、まだ忘れてないぞ。」
陳二が鼻の頭を掻く。
「殴ってないだろ?」
「だから、何も言わなかった。」
周明貴は気まずそうに二人を見ていた。
「安生、この前のことは……」
「もういい。」
安生が手を振った。
「勘定は勘定だ。」
魚屋を見る。
「娘さん、どうだ?」
周明貴はため息をついた。
「まだ熱がある。」
「医者には?」
「診てもらった。」
「薬代は足りてるか?」
周明貴は答えなかった。
安生も、それ以上は聞かなかった。
懐から何十文か取り出し、魚屋の台の上に置く。
周明貴が慌てて押し返した。
「これは受け取れない。」
「あなたのためじゃない。」
「じゃあ……?」
「娘さんの薬に使ってください。」
周明貴は、その場で立ち尽くした。
「俺には受け取れない。」
安生は彼を見る。
「この前、陳二が渡したときも、そう言ってた。」
陳二も横でうなずいた。
「ああ。」
安生は金をもう一度、前へ押した。
「まず、娘さんに生きてもらってください。」
周明貴はうつむいた。
長いこと黙っていたが、やがて手を伸ばし、金を受け取った。
「……ありがとう。」
安生はうなずいた。
「薬を惜しむなよ。」
「ああ。」
⸻
帰り道、陳二はずっと黙っていた。
路地の入口まで来たところで、ふいに尋ねた。
「安生。」
「ん?」
「昔、お前が金を取り立ててたときも、あんなふうにしてたか?」
安生は少し足を止めた。
「してない。」
「じゃあ、どうして今はそうする?」
安生は少し考えた。
「昔は、金のことしか考えてなかった。」
陳二が安生を見る。
「今は?」
安生は答えなかった。
さっきの百八十文を思い出す。
それから、昔、自分が人に金を払わせたときのことを思い出した。
相手が翌日の商売をどうするのか。
家に病気の人がいるのか。
そんなことを、考えたこともなかった。
あの頃の自分が知っていたのは、一つだけだった。
借りたものは、返さなければならない。
今でも、その考え自体が間違っているとは思わない。
けれど、それだけでもない。
勘定は返さなければならない。
それでも、人は先に生きていなければならない。
二人はまた歩き始めた。
しばらくして、陳二がふと思い出したように言った。
「そうだ。」
「何だ?」
「今日、趙順のところへ行こうと思ってた。」
「何の用だ?」
「お前の父親のことを聞かれたって言ってた。」
安生の足が止まった。
「誰に?」
陳二は首を横に振った。
「分からない。」
「何て言ってた?」
「お前のことを聞いたんじゃない。」
「父さんのこと?」
「ああ。」
安生は前方の通りを見つめた。
しばらくして、また歩き始めた。
今度は、趙順のところへすぐ行こうとはしなかった。
あることに、ふと気づいたからだった。
何でも早く知ればいいというわけではない。
少なくとも、まだ何も確かめていないうちは、誰かの言葉を簡単に信じたくなかった。
父親の言葉も。
そして、自分自身の考えも。




