第二十五章 欠けた一片
安生は魚屋へは戻らなかった。
そのまま波止場へ向かった。
趙徳全は倉庫の外で木箱を運んでいた。
安生を見ると、手にしていたものを置いた。
「今日はどうした?」
「趙叔。周長順って人、知ってる?」
趙徳全は少し考えた。
「知ってる。」
「昔、波止場を仕切っていた人?」
「ああ。」
「その後は?」
「死んだ。」
「いつ?」
「お前が川に落ちてから、何年か経ったころだ。」
安生はうなずいた。
「昔、帳簿を見ていた?」
「やってた。」
「八十両のことは、どこまで知ってた?」
趙徳全が安生を見る。
「その名前、どこで聞いた?」
「孫福から。」
趙徳全は、それ以上聞かなかった。
脇に置いてあった水筒を取り、ひと口飲む。
「周長順は、仕事が細かい男だった。」
「帳簿も全部、あの人が?」
「全部じゃない。」
「じゃあ、何を?」
「波止場に入ってくる荷と、出ていく荷。それから、働いてる連中の給金だ。」
「沈叔は?」
「沈川は別の方を見ていた。」
安生は眉を寄せた。
「別の方って?」
「船の荷代だ。」
趙徳全は少し考えてから、付け加えた。
「簡単に言えば、二つの金は、もともと同じものじゃなかった。」
安生は一瞬、言葉を失った。
「じゃあ、あの八十両は?」
「そこが面倒なんだ。」
趙徳全は水筒を置いた。
「あの八十両には、周長順が扱った分もあれば、沈川が手をつけた分もあった。」
安生は何も言わなかった。
「だから、あのとき帳簿を調べるときも、両方から調べた。」
「誰か見つかった?」
「誰も見つからなかった。」
「じゃあ、どうして沈叔が疑われたの?」
趙徳全はしばらく黙った。
「最後の帳簿に、沈川の名前があったからだ。」
「でも、金を扱っていたのは沈叔だけじゃない。」
「だから、いつまで経ってもはっきりしなかった。」
安生は倉庫を見る。
中から、木箱同士がぶつかる音が聞こえていた。
「周長順は、どうして最後に辞めたの?」
「辞めてない。」
「どういうこと?」
「波止場で死んだ。」
安生が顔を上げる。
趙徳全は安生を見る。
「その年の冬だ。荷物を運んでいて、転んだ。」
「それで?」
「その場で死んだわけじゃない。」
趙徳全は少し間を置いた。
「傷が化膿してな。助からなかった。」
安生は黙った。
「事故だって言われた?」
「事故だ。」
「誰か疑わなかった?」
趙徳全は首を横に振った。
「あの頃は、みんな自分の暮らしで精いっぱいだった。」
安生は、それ以上聞かなかった。
⸻
帰り道、安生は王記の米屋へ寄った。
王福は帳簿をつけていた。
安生を見ると、先に算盤を脇へ寄せた。
「今日は金を取りに来たんじゃないぞ。」
「俺も、金を取りに来たんじゃない。」
王福が笑う。
「じゃあ、何しに来た?」
「昔、波止場にいた周長順って人、知ってる?」
王福は長いこと考えた。
「名前だけなら、聞いたことがあるような……。」
「よく米を買いに来てた?」
「波止場の連中は、よく来てたからな。」
「家はどこだった?」
「そこまでは知らん。」
安生が帰ろうとしたとき、王福がふと思い出したように言った。
「お前、あの人を調べてるのか?」
「昔のことを少し。」
「それなら、河西の趙家を訪ねてみろ。」
「趙家?」
「周長順には、甥がいたはずだ。あっちに住んでる。」
安生は覚えておいた。
「ありがとう。」
王福は手を振った。
「今度は返さなくていいぞ。」
安生は少し笑った。
「覚えてるよ。」
⸻
河西の趙家は、すぐに見つかった。
着いたとき、門は半分だけ開いていた。
中から、薪を割る音が聞こえる。
安生は門を叩いた。
「誰かいますか?」
中の男が手を止めた。
若い男が出てくる。
安生を見ると、明らかに戸惑った。
「誰をお探しで?」
「昔、周長順の親戚がここに住んでいませんでしたか?」
男は答えなかった。
「あなたは?」
「安生。」
男の表情が変わった。
一度、庭の奥を見る。
「何の用だ?」
「少し聞きたいことがある。」
男はしばらく黙っていた。
「入れ。」
庭には洗濯物が何枚か干されていた。
男は斧を脇へ置いた。
「俺の叔父が周長順だ。」
「あなたが甥?」
「ああ。」
「八十両のことを知ってる?」
男は首を横に振った。
「あの頃、俺はまだ生まれてない。」
「じゃあ、どうして死んだかは?」
「母から聞いたことがある。」
「何て?」
男は腰を下ろした。
「叔父は死ぬ前に、一度帰ってきたらしい。」
「いつ?」
「冬だ。」
「何を言ってた?」
「たいしたことは言ってない。」
男は少し黙った。
「ただ、一言だけ。」
安生は男を見る。
男は足元の木屑を見つめていた。
「波止場の帳簿は、もう調べるなって。」
安生は眉を寄せた。
「どうして?」
男は首を横に振った。
「分からない。」
「お母さんは?」
「もう亡くなった。」
「いつ?」
「何年か前だ。」
安生はうなずいた。
立ち上がる。
「ありがとう。」
男が、ふと思い出したように聞いた。
「あんた、安順河の息子か?」
「そうだ。」
「母さんは、あんたの父親に会ったことがある。」
安生の足が止まった。
「いつ?」
「叔父が死ぬ前だ。」
「母さんは、俺の父に何を言った?」
男は首を横に振った。
「それは、本当に知らない。」
安生は、それ以上聞かなかった。
⸻
家を出たあと、安生は路地の入口でしばらく立っていた。
ここまで来て、ようやく気づいた。
あの頃の出来事は、一本の線ではない。
周長順には、周長順の帳簿があった。
沈川には、沈川の帳簿があった。
孫福は、ただ金を運んだだけだった。
父も、その中を調べていた。
それぞれが、ほんの少しずつ何かを握っている。
けれど、それを全部つなぎ合わせても、まだ一片だけ足りない。
安生は振り返り、歩き出した。
街の入口まで来たところで、陳二が向こうから走ってきた。
「安生!」
「どうした?」
「早く魚屋へ行け。」
「周叔か?」
陳二はうなずいた。
「周叔が、何かあった。」




