第二十四章 同じ姓
午後、安生は魚屋から戻ってきた。
李叔の家の前を通りかかったとき、ふと足を止めた。
門口には、新しい板が何枚か積まれている。
李叔はしゃがみ込み、門を直していた。
「李叔。」
「帰ったのか?」
「うん。」
安生はしばらく、その様子を見ていた。
「門、壊れたの?」
「この前の雨でな。木が水を吸って駄目になった。」
李叔は古い板を外した。
「新しいのに替える。」
安生はしゃがんだ。
「俺もやる。」
李叔が顔を上げて安生を見る。
「お前、できるのか?」
「できない。」
李叔が小さく笑った。
「じゃあ、押さえてろ。」
「分かった。」
二人で板を立てる。
安生が押さえ、李叔が横で釘を打つ。
それほど時間もかからず、門は取り付け終わった。
李叔は手についた木屑を払い落とした。
「まあ、こんなもんだ。」
安生が立ち上がる。
「前に、俺がここの物を壊したことがあった。」
李叔の手が、一瞬止まった。
「昔のことだ。」
「覚えてる。」
李叔は安生を見た。
「覚えていれば、それでいい。」
安生はうなずいた。
それ以上は何も言わなかった。
李叔は家の中へ入っていった。
しばらくすると、饅頭を二つ持って戻ってきた。
「持っていけ。」
「いいよ。」
「いいから。」
安生は受け取った。
「ありがとう、李叔。」
李叔は手を振った。
「もう帰れ。」
安生が数歩歩いたところで、背後から声がした。
「安生。」
「ん?」
「これからは、もう物を壊すなよ。」
安生は振り返った。
「分かった。」
李叔は笑った。
「じゃあ、行け。」
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夜、母は庭で洗濯物を干していた。
安生は、もらった饅頭を机の上に置いた。
「李叔がくれた。」
母がそれを見る。
「人からは、ずいぶん可愛がってもらうようになったね。」
「うん。」
安生は腰を下ろした。
母はそのまま洗濯物を整えている。
「最近、よく外へ出るね。」
「少し調べてることがある。」
「まだ、あの八十両かい?」
「うん。」
母は、それ以上聞かなかった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「父さん、ここ二、三日、よく眠れてないよ。」
「このことが原因かな。」
「たぶんね。」
安生は少し黙った。
「母さん。」
「何だい?」
「俺が子どものころ、家ではよく俺の後始末をしてたのか?」
母の手が、ゆっくり止まった。
「お前は子どものころから、騒ぎを起こすことが多かったからね。」
「そうじゃなくて。」
母が安生を見る。
安生はうつむいた。
「……いや、いい。」
母は何も聞かなかった。
ただ、また洗濯物を物干しに掛け始めた。
「父さんは昔から、お前はまだ小さいって言ってた。」
「知ってる。」
「大きくなってからも、そう言ってたけどね。」
安生は答えなかった。
庭がしばらく静かになった。
やがて、母がふいに聞いた。
「私たちを恨んでるのかい?」
安生は首を横に振った。
「違う。」
「そうかい。」
母はまた洗濯物を干した。
「みんな、そうやって生きてきたんだよ。」
安生は母を見た。
それ以上、何も言わなかった。
⸻
夜更け。
安生はなかなか眠れなかった。
起き上がり、水を飲む。
両親の部屋の前を通ると、まだ明かりがついていた。
中から父の声が聞こえた。
「もう、あいつには言わなくていい。」
母が尋ねる。
「いつまで隠しておくつもり?」
「隠せるだけ、隠しておけばいい。」
「でも、もう調べ始めてるよ。」
部屋の中がしばらく静かになった。
父が言った。
「最後まで調べれば、あいつも分かる。」
「何が分かるの?」
返事はなかった。
安生は、しばらく戸口に立っていた。
やがて何も聞かなかったように、静かに自分の部屋へ戻った。
戸を叩くこともしなかった。
⸻
翌朝。
安生は孫記へ向かった。
孫福はちょうど店を開けようとしていた。
「こんな朝早くから、どうした?」
「一つ聞きたいことがある。」
孫福は安生を見た。
「入れ。」
安生は帳場の前に立った。
「昔の波止場の取り仕切り役と、帳場の人間。覚えてるか?」
孫福は少し考えた。
「取り仕切ってたのは、周って姓だった。」
「周の、何ていう人?」
「周長順。」
安生は一瞬、言葉を失った。
「周長順?」
孫福はうなずいた。
「どうした?」
安生は答えなかった。
魚屋の周叔を思い出していた。
同じ姓。
そして、二人とも昔、波止場にいた。
安生は孫福を見た。
「その周長順は、今どこにいる?」
孫福は眉を寄せた。
「知り合いなのか?」
安生は首を横に振った。
「ただ、聞きたいだけ。」
孫福は少し黙った。
「もういない。」
「死んだ?」
「ああ。」
「いつ?」
「ずっと前だ。」
安生はうなずいた。
「分かった。」
振り返り、店を出ようとする。
そのとき、背後から孫福の声がした。
「安生。」
「ん?」
「お前が魚屋で呼んでる周叔は、周長順じゃない。」
安生は振り返った。
孫福は続けた。
「あの人の名は、周明貴だ。」
安生は立ち止まった。
孫福は頭を下げ、店先の商品を整え始めた。
「別人だ。」
安生はうなずいた。
「分かった。」
今度は、足早に店を出た。
通りでは、人々がいつものように行き交っている。
魚屋は、その先にあった。
周叔は客と話していた。
いつもと変わらない笑顔を浮かべている。
安生は少し離れたところから、その姿を見ていた。
それから、別の道へ向かって歩き出した。
ふいに、昨夜の父の言葉が頭に浮かんだ。
――最後まで調べれば、あいつも分かる。
けれど。
いったい何が分かるのか。
安生には、まだ分からなかった。




