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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第二十三章 先に生きる

翌日の朝。


安生と陳二は、二人で魚屋へ向かった。


周叔はちょうど店じまいをしているところだった。


いつも手伝っている娘の姿はなかった。


陳二は持っていたものを台の上に置いた。


「周叔。」


「来たか。」


二人を見て、周叔は少し意外そうな顔をした。


「今日は、金を取りに来たんじゃない。」


安生が言った。


周叔は小さく笑った。


「じゃあ、何しに来た?」


「娘さん、病気だって聞いた。」


周叔の笑みが、ゆっくり消えた。


「大した病気じゃない。」


陳二が横から口を挟んだ。


「薬代、足りてるか?」


周叔は手を振った。


「もう買った。」


「いくらだった?」


「たいした額じゃない。」


陳二は、それ以上聞かなかった。


懐から小さな包みを取り出し、台の上に置いた。


周叔が目をやる。


「これは受け取れん。」


「勘定じゃない。」


陳二が言った。


「子どもの薬に使ってくれ。」


周叔は彼を見た。


「お前、そんな金、どこから持ってきた?」


陳二は一瞬、言葉に詰まった。


「俺の金だ。」


周叔は手を伸ばさなかった。


安生が手を伸ばし、金を少し前へ押した。


「受け取ってください。」


周叔は、それでも首を横に振った。


「お前たちだって、自分の暮らしがあるだろう。」


安生は言った。


「周叔。まずは、娘さんを診てもらってください。」


周叔はしばらく黙っていた。


やがて、包みを受け取った。


「いつか返す。」


「急がなくていいです。」


周叔が顔を上げ、安生を見る。


「お前から、そんな言葉を聞くとはな。」


安生は少し笑った。


「今は、言えるようになったんです。」


⸻


午後。


安生は一人で街へ戻った。


陳二は一緒ではなかった。


一人で孫記へ向かう。


孫福は、店の奥で帳面をつけていた。


「また来たのか。」


「うん。」


安生は、昨日の紙を取り出した。


「一つ、聞きたいことがあります。」


孫福が紙を見る。


「何だ?」


「六月三日の、この六十両。最後に受け取ったのは、誰ですか?」


孫福は紙を受け取らなかった。


「知らない。」


「昨日、これは帳面をつけていた人が書いたものだと言いましたよね。」


「ああ。」


「だったら、その人なら分かるはずです。」


「もう死んだ。」


安生は少し驚いた。


「いつ?」


「ずっと前だ。」


「どうして死んだんです?」


孫福は首を横に振った。


「病気だ。」


安生は、それ以上聞かなかった。


紙をしまう。


「じゃあ、もう一人いる。」


孫福が安生を見る。


「誰だ?」


「あなたです。」


「俺?」


「金を届けたと言った。」


孫福はうなずいた。


「六十両だ。」


「誰に渡したんです?」


孫福はしばらく黙っていた。


「一人じゃなかった。」


「どういう意味です?」


「波止場には二人いた。」


「誰と誰です?」


「一人は、取り仕切っていた人間。」


「もう一人は?」


「帳場の人間だ。」


「名前は?」


孫福は安生を見た。


「もう十分聞いただろう。」


安生は言い返さなかった。


紙を折り直す。


「じゃあ、また来ます。」


孫福は引き止めなかった。


安生が店を出ようとしたとき、背後から声がした。


「安生。」


振り返る。


孫福は帳場の奥に立っていた。


「こういうことを調べる前に、一つだけ考えておけ。」


「何を?」


「昔の金が、お前の思っている八十両と同じだとは限らない。」


安生は孫福を見た。


孫福は、それ以上何も言わなかった。


安生は店を出た。


⸻


夕方、陳二がやって来た。


今日は酒を持っていない。


「周叔、受け取ったか?」


「ああ。」


「娘さんは?」


「熱が少し下がったそうだ。」


安生はうなずいた。


二人は街角に立っていた。


しばらくして、陳二がふいに言った。


「その金、あとで俺から返す。」


「好きにしろ。」


「本気だぞ。」


「分かってる。」


陳二は安生を見る。


「お前、俺が前にやったこと、全部間違ってたと思ってるのか?」


安生は首を横に振った。


「そんなことは言ってない。」


「じゃあ、何が正しいんだ?」


安生は少し考えた。


「分からない。」


陳二は笑った。


「最近、お前はよく分からないって言うな。」


「本当に分からないからな。」


陳二は、それ以上聞かなかった。


しばらくして、言った。


「明日も金を取りに行くのか?」


「行く。」


「俺も行く。」


安生は彼を見る。


「木の棒は持ってくるなよ。」


陳二が吹き出した。


「分かった。」


二人は並んで、街を戻っていった。


路地の入口まで来たところで、陳二がふいに足を止めた。


「安生。」


「ん?」


「もし、誰かが金を借りていて、本当に返せる金がなかったら、お前はどうする?」


安生は陳二を見た。


「まず、生きてもらう。」


陳二はうなずいた。


「分かった。」


今度は、それ以上何も聞かなかった。


遠くで、孫記の灯りがともったばかりだった。


孫福は帳場の奥で、古い帳面を閉じた。


もう一度、開くことはしなかった。


ただ、帳面を棚のいちばん奥へしまい込み、


そして、鍵をかけた。

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