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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第二十二章 一枚の紙

翌朝早く、安生はまた通りの角へ向かった。


孫記は、もう店を開けていた。


孫福が店先を掃いている。


安生を見ると、驚いた様子もなかった。


「買い物か?」


「違う」


孫福は箒を壁に立てかけた。


「じゃあ、中で座りな」


安生は店の中へ入った。


店内には、もう品物が並んでいた。


米、塩、豆。


それに油紙で包まれた乾物がいくつもある。


安生は帳場の前に立った。


「前は波止場で、どのくらい働いてた?」


孫福は布巾を手に取り、帳場を拭き始めた。


「もう覚えてないな」


「十何年?」


「まあ、そんなもんだ」


「親父を知ってる?」


「知ってる」


「沈叔も?」


孫福の手が止まった。


「知ってる」


安生は男を見た。


「昨日、どうして言わなかった?」


孫福が顔を上げる。


「お前も聞かなかっただろ」


安生は少し笑った。


「じゃあ、今聞く」


孫福は答えなかった。


しばらくしてから、ようやく言った。


「お前、親父に似てるな」


「どこが?」


「物を聞くときの顔だ」


安生は笑わなかった。


「親父も、昔あんたに同じように聞いた?」


「聞かれた」


「八十両のこと?」


「聞かれた」


「何て答えた?」


孫福は布巾を置いた。


「俺は取ってない、と」


「親父は信じた?」


「知らない」


安生は孫福を見た。


「本当に取ってない?」


孫福は答えなかった。


そのとき、通りの外から声がした。


「孫掌柜、昨日の油が届いたぞ!」


孫福は振り返り、荷物を運びに行った。


安生は止めなかった。


油の入った桶を店の中へ運び終えてから、孫福が言った。


「言いたくないなら、言わなくてもいい」


孫福は手を拭いた。


「言いたくないわけじゃない」


「じゃあ、何?」


「言ったところで、誰かが信じてくれるとも限らない」


安生はしばらく男を見ていた。


「俺は、まず聞く」


孫福は答えなかった。


ただ、帳場の下から古い木箱を取り出した。


蓋を開ける。


中には銀貨も金も入っていない。


乾いて脆くなった紙が、何枚か入っていた。


孫福は一枚ずつめくり、その中から一枚を抜き取った。


「これを持って帰れ」


安生は受け取った。


紙には、一行だけ書かれていた。


六月三日。六十両。波止場へ渡済み。


その下には、署名がなかった。


安生は顔を上げた。


「これ、あんたが書いた?」


「違う」


「誰が?」


「当時、帳面をつけていた人間だ」


「どうして俺に?」


孫福は木箱の蓋を閉じた。


「お前の親父が、昔これを探していた」


安生は紙を折った。


「ほかには?」


「ない」


「本当に?」


孫福は安生を見た。


「俺が残していたのは、それだけだ」


安生は、それ以上聞かなかった。


紙を袖の内側へしまう。


帰ろうとしたとき、孫福がふいに呼び止めた。


「安生」


「ん?」


「親父には聞くな」


安生の足が止まった。


「どうして?」


「あいつは、お前に調べるなと言う」


「なぜ?」


孫福はうつむき、再び品物を整理し始めた。


「昔、もう一度調べたからだ」


「それで?」


孫福は答えなかった。


しばらくして、低い声で言った。


「それで、家へ帰ることを選んだ」


安生はその場に立っていた。


やがて、店を出た。


⸻


路地の入口まで来たところで、陳二と出会った。


陳二は酒を二壺、手に提げていた。


「どこ行ってた?」


「孫記」


「孫福を探しに?」


「うん」


陳二は安生を見た。


「何か言ってた?」


「紙を一枚くれた」


安生は紙を取り出した。


陳二が身を寄せて、一目見る。


「六十両?」


「うん」


「じゃあ、八十両には二十両足りないじゃないか」


「だから、まだ調べる」


陳二は少し黙った。


「安生」


「何?」


「俺、昨日また周叔のところへ行った」


安生は眉を寄せた。


「また何しに?」


「金を取りに行ったんじゃない」


「じゃあ、何?」


陳二は酒壺を持ち直した。


「娘が病気なんだ」


安生は一瞬、言葉を失った。


「俺、知らなかった」


「あいつも、お前には言ってない」


「どうして知った?」


「昨日行ったときに聞いた」


陳二は安生を見た。


「しばらく薬を買う金がないらしい」


安生は黙っていた。


陳二は酒壺の一つを差し出した。


「金を少し渡そうと思った」


安生は受け取った。


「それで?」


「渡さなかった」


「どうして?」


陳二は少し笑った。


「お前が、自分の勘定は自分でつけるって言っただろ」


安生は陳二を見た。


「それと金を取りに行くのと、何の関係がある?」


「俺にも分からない」


陳二は頭を掻いた。


「ただ、俺には勝手にできなかった」


安生は手にした酒壺を見下ろした。


しばらくして言った。


「明日、一緒に様子を見に行こう」


陳二はうなずいた。


「分かった」


二人は並んで歩き出した。


何歩か進んだところで、陳二がふいに尋ねた。


「なあ。周叔が、ずっと返せなかったらどうする?」


安生は少し考えた。


「また考える」


「何を?」


「まだ分からない」


陳二は笑った。


「最近のお前、本当に何も分からなくなったな」


安生も少し笑った。


「前の俺は、何でも分かったつもりだったんだ」


陳二には、その意味が分からなかった。


「どういうことだ?」


「何でもない」


二人はそのまま歩いていった。


二人の後ろで、孫記の店先に孫福が立っていた。


二人の背中が通りの角の向こうへ消えていくのを、黙って見ていた。


やがて、自分の手を見る。


そこには、古い紙の小さな切れ端が残っていた。


孫福はそれを捨てなかった。


ただ、もう一度、帳場の下へしまった。

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