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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第二十章 孫掌柜

翌朝、安生は早くに目を覚ました。


母に塩を買ってくるよう頼まれた。


「家のが、もうほとんどないから」


「分かった」


安生は金を受け取り、家を出た。


通りの店は、ちょうど開き始めたところだった。


朝飯を売る店では、もう鍋が据えられている。


白い湯気が通りの上へ、ゆっくりと上がっていた。


安生が雑貨屋の近くまで来たところで、昨日の新しい木札がきちんと掛けられているのに気づいた。


孫記雑貨店。


店先には竹籠がいくつか並べられている。


中には塩や豆、それに干物や乾物が入っていた。


安生は足を止めた。


帳場の後ろには、四十過ぎくらいの男が立っていた。


男は品物を整理している。


足音に気づき、顔を上げた。


「何にする?」


「塩を」


男は塩を一袋取り出した。


「十文」


安生は金を置いた。


男は受け取った。


「ほかには?」


「ない」


安生は塩を持ち上げ、そのまま店を出ようとした。


二歩ほど進んだところで、また足を止める。


「主人」


「ん?」


「孫って姓ですか?」


男は少し笑った。


「看板にそう書いてあるだろう。ほかに何がある?」


安生も少し笑った。


「前は、どこで働いてたんです?」


男の手が、わずかに止まった。


「どうしてそんなことを聞く?」


「ちょっと聞いただけです」


男は安生を見た。


「昔は波止場にいた」


安生は黙っていた。


「何年か働いてた」


「いつ頃です?」


「十何年も前だ」


男は豆の袋を棚へ戻した。


「その後は、もうやめた」


安生は男を見た。


「陸成安を知ってますか?」


男の動きが、明らかに遅くなった。


「知ってる」


「沈川は?」


今度は、男は答えなかった。


店の中が静かになった。


外を人が通り過ぎ、店の中へ声を投げる。


「孫掌柜、米が届いたぞ!」


男が答えた。


「今行く」


男は振り返り、荷物を店先へ運び始めた。


安生は、それ以上聞かなかった。


塩を提げ、その場を離れた。


少し歩いてから、振り返る。


孫掌柜は店先に立っていた。


通りを挟んで、二人の目が一度合った。


孫掌柜は、すぐに視線を落とした。


⸻


安生が家に戻ると、母は野菜を選り分けていた。


「もう帰ったのかい?」


「すぐそこで買ったから」


安生は塩を置いた。


母が袋を見る。


「孫記で買ったの?」


「うん」


「昨日できた店?」


「知ってるの?」


「昨日、誰かが話してたよ」


安生は卓についた。


「母さん、前に孫福って人を知ってた?」


母の手が止まった。


「誰?」


「孫福」


「聞いたことないね」


安生は、それ以上聞かなかった。


そのとき、父が奥の部屋から出てきた。


「誰がどうした?」


「何でもない」


父は安生を見た。


安生も父を見た。


二人とも、何も言わなかった。


⸻


午後、安生はまた波止場へ向かった。


趙徳全は荷物を運んでいた。


安生を見ると、手を軽く上げただけだった。


「また来たのか」


「うん」


「陸成安には会えたか?」


「会えた」


「何て言ってた?」


「最後の勘定を持ってきたのは、孫福っていう人だって」


趙徳全の手が止まった。


「会ったのか?」


「会った」


「どこで?」


「通りの角にできた、新しい孫記」


趙徳全は荷物を下ろした。


「まだここにいたのか」


「知ってるの?」


「知ってる」


「どんな人?」


趙徳全は額の汗を拭った。


「昔、波止場で働いていた男だ」


「最後の勘定を持ってきたのも、その人?」


「俺は知らない」


「陸掌柜は、そう言ってた」


趙徳全はしばらく黙っていた。


「当時は、いろんな勘定を使い走りの者が運んでいた」


「沈川とは親しかった?」


「まあ、それなりにな」


「親父とは?」


趙徳全は安生を見た。


「それも知り合いだ」


安生は、それ以上聞かなかった。


すると趙徳全がふいに言った。


「ただ、一つ覚えておけ」


「何?」


「一つの名前が出てきたからって、それだけで全部つながったと思うな」


安生はうなずいた。


「分かってる」


趙徳全は、もう一度荷物を担いだ。


「お前の親父も昔、名前を一つ見つけて、その先を調べていった。だが、最後まで調べても、何も分からなかった」


安生はその場に立ったままだった。


「じゃあ、どうして途中でやめたの?」


趙徳全は答えなかった。


ただ荷物を肩に担ぎ直した。


「親父に聞いてみろ」


そう言って、倉庫の中へ入っていった。


⸻


夕方、安生が家に戻ると、父は庭で古い椅子を修理していた。


安生は買ってきたものを机の上に置いた。


「親父」


「ん?」


「今日、孫福に会った」


木に当てていた刃が止まった。


安順河は顔を上げなかった。


「どこで?」


「通りの角」


「孫記」


安順河の手が、ゆっくりと下がった。


しばらくしてから、ようやく口を開いた。


「向こうは、お前だと分かったか?」


安生は父を見た。


「親父は、どう思う?」


安順河は答えなかった。


安生も、それ以上聞かなかった。


庭には、刃物が木を削る小さな音だけが残った。


長いことしてから、安順河が言った。


「明日は、あいつのところへ行くな」


安生は眉を寄せた。


「どうして?」


「まだ、その時じゃない」


「何が、まだなんだ?」


安順河が顔を上げる。


「俺がお前に話をするまでだ」


安生は父を見つめた。


「じゃあ、いつ話す?」


安順河は少し黙った。


「今夜だ」


そう言って、手にしていた刃物を机の上へ置いた。


「飯を食べたら、話す」


安生は何も言わなかった。


ただ庭の片隅に腰を下ろした。


夕日が、少しずつ沈んでいく。


修理の途中だった木板には、安順河はもう手を触れなかった。

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