第十九章 孫福
翌朝早く、安平はもう荷物をまとめていた。
母は饅頭をいくつか布包みに詰め、その上に小さな袋入りの漬物まで入れた。
「道中で食べなさい」
「母さん、もう十分だよ」
「持っていきなさい」
安平は断らなかった。
安生は戸口に立ち、兄が包みを結ぶのを見ていた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「いつ帰ってくる?」
「まだ分からないな」
安平は荷物を肩に背負った。
「大工仕事がうまく決まれば、何日かしたら戻ってくるかもしれない」
安生はうなずいた。
門を出ようとしたとき、安平がふいに足を止めた。
「本当に、あの陸掌柜を探すのか?」
「うん」
「一人で行って、誰かと揉めたりするなよ」
安生は少し笑った。
「喧嘩しに行くわけじゃない」
安平は安生を見た。
「昔も、お前はそう言ってた」
安生は何も言わなかった。
安平はそのまま歩いていった。
母はしばらく門口に立って兄の背中を見送っていたが、やがて家の中へ戻った。
安生も家を出た。
⸻
順豊貨行があった店は、もう別の店になっていた。
看板は取り外され、軒下には古びた木札が一枚残っているだけだった。
安生は近くの人間に何人か尋ねた。
陸掌柜は引っ越したという者もいた。
南へ行ったという者もいた。
もう商売はしていないという者もいた。
最後に、茶を売っていた年寄りが場所を教えてくれた。
「陸成安を探してるのか?」
「はい」
「河西へ行ってみな」
「河西?」
「娘が、あっちに住んでる」
安生は頭を下げた。
「ありがとうございます」
老人は手を振った。
「道を聞かれただけだ」
安生は河沿いの道を歩いていった。
河西のあたりは、波止場よりずっと静かだった。
路地は狭く、家も古い。
三軒目で、ようやく陸家を見つけた。
戸を開けたのは、三十過ぎくらいの女だった。
「どなたをお探しですか?」
「陸掌柜を」
女は安生を上から下まで見た。
「私の父です」
「いらっしゃいますか?」
「奥にいます」
女は身を引いて、道を開けた。
「あなたは?」
「安生です」
女の動きが、一瞬止まった。
だが、すぐに元へ戻った。
「どうぞ」
庭では、白髪の老人が木板を日に当てていた。
足音に気づき、振り返る。
「誰だ?」
女が言った。
「父さん、訪ねてきた人がいるの」
老人は安生を見た。
二人はしばらく見つめ合った。
やがて老人が口を開いた。
「安順河は、お前の何だ?」
「俺の親父です」
老人は何も言わなかった。
手にしていた木板を置く。
「中へ入りなさい」
部屋の中には古い机と椅子がいくつか置かれていた。
女がお茶を二人分出すと、外へ出ていった。
安生は腰を下ろした。
陸成安は、すぐには口を開かなかった。
しばらくしてから、ようやく尋ねた。
「沈川のことを聞きに来たのか?」
「それと、八十両のことも」
陸成安は茶を持ち上げた。
指が、茶碗の縁で一瞬止まる。
「誰に言われて来た?」
「誰にも」
「自分で調べてるのか?」
「はい」
陸成安は安生を見た。
「親父は知ってるのか?」
「知ってます」
老人は目を伏せた。
「相変わらずだな、あいつは」
安生は、その言葉の意味を聞かなかった。
陸成安は茶を一口飲んだ。
「あの金を波止場へ持っていったのは、俺じゃない」
安生は顔を上げた。
「まだ聞いてません」
陸成安は少し笑った。
「お前の親父も、昔そう言った」
「何を聞いたんですか?」
「最後の金を、誰が持ってきたのかって」
安生は少し姿勢を正した。
「教えたんですか?」
「教えた」
「誰です?」
陸成安は、すぐには答えなかった。
外から、女が洗濯物を取り込む音が聞こえてきた。
老人は窓の外へ目を向けた。
「一人の若い者だ」
「名前は?」
「孫福」
安生は、その名を覚えた。
「今、どこに?」
陸成安は首を横に振った。
「知らん」
「当時は?」
「波止場で働いていた。いたのは一年にもならなかった」
「そのあと、どうして辞めたんですか?」
「少し、あったんだ」
安生は待った。
だが、陸成安はそれ以上話さなかった。
「何があったんです?」
老人は安生を見た。
「お前は何のために調べてる?」
「……」
「親父のためか。それとも、沈川のためか?」
安生は少し考えた。
「どちらでもないです」
「じゃあ、何のためだ?」
「何があったのか、知りたいんです」
陸成安はしばらく黙っていた。
「お前の親父も、昔そう言ってた」
安生は老人を見た。
「それで?」
「しばらく調べていた」
「分かったんですか?」
老人は茶碗を置いた。
「分からなかった」
そして、少し間を置いてから続けた。
「いや……いくつかは分かったのかもしれん。ただ、もう先へ進みたくなかったんだろう」
安生は眉を寄せた。
「どうして?」
陸成安は首を横に振った。
「それは、お前の親父に聞け」
安生は、それ以上尋ねなかった。
立ち上がる。
「ありがとうございました」
戸口まで来たとき、陸成安がふいに呼び止めた。
「安生」
「はい?」
「孫福という名前、聞いたことはあるか?」
「ありません」
「そうか」
老人はそれだけ言った。
安生はその顔を見た。
だが、陸成安はもう何も説明しなかった。
「帰りなさい」
安生はしばらく立っていた。
やがて、うなずいた。
「はい」
陸家を出ると、もう昼を過ぎていた。
安生は来た道を戻った。
河沿いまで来たところで、前から荷を担いだ男が歩いてきた。
担ぎ棒には、空の桶が二つぶら下がっている。
安生は反射的に道を空けた。
男も少し身を寄せた。
「すまんな」
「いえ」
二人はすれ違った。
安生はそのまま歩いた。
十数歩進んだところで、ふいに足を止めた。
振り返る。
さっきの男は、もう遠くまで行っていた。
安生は追わなかった。
しばらくその場に立ってから、また家へ向かった。
⸻
路地の入口まで戻ると、陳二が待っていた。
「どこ行ってた?」
「河西」
「誰を探しに?」
「陸掌柜」
陳二は少し驚いた顔をした。
「何か分かったか?」
安生は陳二を見た。
「孫福っていう人の名前が出てきた」
陳二は眉を寄せ、しばらく考えた。
「聞いたことないな」
「俺もない」
二人は並んで歩き出した。
安生の家の前まで来たところで、陳二がふいに言った。
「そうだ。昨日の三百文だけど……」
安生が足を止めた。
陳二は懐から銭を取り出した。
「周叔に返した」
安生は陳二を見た。
「いつ?」
「今朝」
「受け取った?」
「受け取った」
安生はうなずいた。
「それならいい」
陳二は銭をしまった。
二人はまた歩き出した。
二人とも気づかなかった。
しばらく閉まったままだった通り角の雑貨屋に、新しい木札が掛かっていることに。
そこには、二つの字だけが書かれていた。
孫記。




