第十七章 あの紙
郭記米屋の戸は、もう閉まっていた。
安生は店の外に立ち、振り返って通りを見た。
空はまだ完全には暗くなっていない。
通りには、ぽつりぽつりと灯りがともっている。
野菜を売っていた者たちは店じまいをし、荷を担いだ人が路地の入口を通り過ぎていく。
石畳を踏む足音が、途切れ途切れに響いていた。
郭掌柜は、すぐには何も言わなかった。
その紙を帳台の上に広げ、指で端を押さえている。
紙はすでに黄ばんでいた。
四隅も少し丸まっている。
そこには、何人かの名前が書かれていた。
安生はしばらく、うつむいて紙を見た。
「この人たちは誰?」
郭掌柜は答えなかった。
「波止場の人?」
郭掌柜は顔を上げ、安生を一度見た。
「お前の父親から聞いてないのか?」
「少しだけ」
安生は紙を指差した。
「でも、これは聞いてない」
郭掌柜は紙を自分のほうへ少し引き寄せた。
「昔、波止場で帳面をつけていた人間が残したものだ」
「何の帳面?」
「雑帳だ」
「雑帳って?」
郭掌柜はため息をついた。
「その日に誰が金を受け取ったか、誰が荷を運んだか、誰が誰に借りがあるか、誰が帳面を見に来たか。波止場は人も多いし、やることも多い。正式な帳面に入れないものは、ひとまずここに書いていた」
安生はもう一度、紙を見た。
「じゃあ、どうして最後に父さんの名前がある?」
郭掌柜はしばらく黙った。
「最後に帳面のことを聞きに来たのが、お前の父親だったからだ」
安生は少し驚いた。
「何を聞いた?」
「八十両だ」
店の中が静かになった。
郭掌柜は紙を裏返した。
裏には、もう薄くなって、ほとんど読めなくなった文字が何行か残っていた。
「金がなくなって、まだそれほど経っていない頃だった。お前の父親が、ここへ来た」
「郭叔に聞きに?」
「ああ」
「何を?」
「この人たちを見たことがないか、と」
安生は紙をじっと見つめた。
「見たことがある?」
郭掌柜はすぐには答えなかった。
しばらくしてから、ようやく言った。
「ある」
「誰を?」
「何人かは、見たことがある」
「じゃあ、どうして言わなかった?」
郭掌柜は安生を見た。
「言ったところで、何になる?」
安生は眉を寄せた。
「少なくとも、調べられる」
郭掌柜は少し笑った。
その笑いに、嘲りはなかった。
ただ、疲れがにじんでいた。
「何を調べる?」
「八十両だ」
「八十両がなくなったあと、誰が調べなかった?」
安生は黙った。
「波止場も調べた。責任者も調べた。お前の父親も調べた。だが、そのあと人が死んで、帳面のことも止まった」
郭掌柜は紙をもう一度折りたたんだ。
「それで、話は終わった」
安生は、その手を見ていた。
「父さんは、どうして郭叔のところへ来た?」
「俺が何か知っていると思ったんだろう」
「知ってるの?」
郭掌柜は顔を上げた。
「少しだけな」
安生は急かさなかった。
郭掌柜はそこに座ったまま、長い間黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「あの日の前に、お前の父親と沈川が一度、喧嘩した」
「金のことで?」
「ああ」
「かなり激しかった?」
「いつもよりはな」
「どうして?」
郭掌柜は首を横に振った。
「そこまでは知らない」
安生は、それ以上聞かなかった。
ふと、自分はこの何日もの間、ずっと人に尋ね続けているのだと思った。
周叔に聞いた。
趙徳全に聞いた。
郭掌柜に聞いた。
安平に聞いた。
父親にも聞いた。
けれど、誰もが知っているのは、そのほんの一部分だけだった。
まるで、一枚の紙が引き裂かれているようだった。
誰もが、その一角しか手にしていない。
安生は立ち上がった。
「郭叔」
「ん?」
「これからまた聞きに来たら、話してくれる?」
郭掌柜はしばらく安生を見た。
「本当に知りたいのか?」
「知りたい」
「知ったあとで、つらくなるかもしれないぞ」
安生は少し笑った。
「この数日だけでも、もう十分つらかった」
郭掌柜は笑わなかった。
「だったら、今は急いで探すな」
「どうして?」
「お前はまだ、知っていることが少なすぎる」
安生は郭掌柜を見た。
「分かってる」
そう言って、安生は店を出た。
数歩歩いたところで、また足を止めた。
「郭叔」
「まだ何かあるのか?」
「その紙、しばらく郭叔のところに置いておいて」
郭掌柜は頷いた。
「分かった」
安生は、ようやくその場を離れた。
⸻
帰り道も、安生の頭にはずっと八十両のことがあった。
だが、路地の入口まで来たところで、ふと陳二の姿が目に入った。
陳二は壁際にしゃがんでいた。
足元には一本の木の棒が置かれている。
安生を見ると、すぐに立ち上がった。
「どこへ行ってた?」
「郭叔のところ」
「八十両のことを聞いたのか?」
「うん」
陳二の顔色が少し変わった。
「本当に調べるつもりなのか?」
安生は陳二を見る。
「どうして調べない?」
陳二は答えなかった。
足元の木の棒を放り投げる。
「今日、人を探した」
「誰を?」
「周叔」
安生は眉を寄せた。
「何しに行った?」
「あいつ、お前に借りた金をまだ返してないだろ」
「俺は、明日でいいって言っただろ?」
「それはお前が言ったことだ」
陳二は一歩前に出た。
「俺はそんなこと言ってない」
安生は陳二を見た。
「周叔のところへ行ったのか?」
「行った」
「何を言った?」
「何も言ってない」
「じゃあ、その木の棒は何だ?」
陳二は黙った。
安生の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。
「殴ったのか?」
「殴ってない」
「脅したのか?」
陳二は答えなかった。
安生は、胸のあたりが少し苦しくなるのを感じた。
以前なら、こんなことを何とも思わなかっただろう。
むしろ、
「よくやった」
とでも言ったかもしれない。
だが、今は違った。
ふと、周叔の皺だらけの顔が頭に浮かんだ。
魚の屋台の脇に置かれていた、角の欠けた木桶。
昨日、周叔が言った言葉。
――明日、また来る。
安生は陳二を見た。
「金はもらったのか?」
「ああ」
「いくら?」
「三百文」
安生は少し驚いた。
「その三百文は、明日、あいつが俺に返す金だ」
陳二は懐から金を取り出した。
「今、お前に渡す」
安生は受け取らなかった。
「持って帰れ」
「いらないのか?」
「持って帰れと言ってる」
陳二の顔が険しくなった。
「どういう意味だ?」
「別に意味はない」
安生は振り返り、そのまま歩き出した。
陳二が後をついてくる。
「安生、お前、最近いったいどうしたんだ?」
「何もない」
「前なら、こんなこと、気にも留めなかっただろ」
安生は足を止めた。
「昔は昔だ」
陳二は安生の後ろに立っている。
「じゃあ、今のお前はどうしたい?」
安生は振り返った。
「別に、何かしたいわけじゃない」
「じゃあ、どうして俺に金を取りに行かせない?」
安生はしばらく黙っていた。
「自分の借りは、自分で取りに行く」
陳二は安生を見つめた。
「俺たち、兄弟だろ?」
その言葉に、安生はすぐには答えなかった。
少ししてから、ようやく言った。
「兄弟だからこそ、言ってる」
「何を?」
「これからは、こういうことを俺の代わりにするな」
陳二の表情が変わった。
「俺がやったこと、間違ってると思ってるのか?」
安生は答えなかった。
ただ、陳二を見た。
この男とは、長い付き合いだった。
一緒に喧嘩もした。
一緒に酒も飲んだ。
一緒に叱られたこともある。
昔の安生は、兄弟というのは、お互いに助け合うものだと思っていた。
だが今になって初めて、何もかもが助けになるわけではないと感じた。
「陳二」
「何だ?」
「もし、いつか俺が、本当にやってはいけないことをしようとしたら」
陳二は眉をひそめた。
「お前は、俺を止めてくれるか?」
陳二は呆気にとられた。
二人の間を、通りの風が吹き抜けていった。
しばらくして、陳二が言った。
「お前、どうかしたんじゃないか?」
安生は少し笑った。
「ちょっと聞いただけだ」
「そんなの、決まってるだろ。俺も一緒にやる」
陳二は、ごく自然に言った。
安生の笑みが、ゆっくり消えていった。
それ以上、何も言わなかった。
ただ振り返り、家へ向かって歩き出した。
数歩進んだところで、安生は小さな声で言った。
「それは、俺を助けることにはならないかもしれない」
陳二には聞こえなかった。
「何か言ったか?」
安生は首を横に振った。
「何でもない」
二人は、一人が先に、一人が後から、路地の中へ入っていった。
どちらも、それ以上何も話さなかった。
そして、あの三百文を、陳二はずっと握ったままだった。
道の分かれ目まで来て、ようやく手の中を見た。
それから、もう一度懐へしまった。
周叔には返さなかった。
安生にも渡さなかった。
ただ、自分で持っていった。
安生は、そのことを知らなかった。
その夜、安生はまだ知らなかった。
いくつかのことが、もう以前とは違い始めていることを。
ただ二人とも。
その意味を、まだ本当には分かっていなかった。




