第一百零九章 最後の頁
出発の前日。
安生は荷物をまとめていた。
着替えが二組。
古い靴が一足。
少しの干し飯。
それから、あの帳面。
帳面を荷物の中に入れる。
少し考えて。
また取り出した。
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安平は庭で木材を整理していた。
安生の手にある帳面を見る。
「まだ持っていくのか?」
「ああ」
「もう書き終わったんじゃなかったか?」
「最後の頁がまだだ」
安平は笑った。
「本当に最後まで書いて終わらせるつもりなんだな」
安生は答えなかった。
ただ、帳面を持って家の中へ入った。
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机の前に座る。
最初の頁を開く。
「自分の帳面」
その下に、最初に書いた一文。
今日から、自分がやったことは、自分で記す。
その先には。
張全。
趙順。
趙平。
それから、名前を書かなかったこともいくつかある。
もう片づいたものもある。
まだ片づいていないものもある。
ただ、認めただけのものもある。
安生は、一頁ずつめくっていった。
書き直さなかった。
破りもしなかった。
⸻
母親が茶を持って入ってきた。
「まだ荷造りが終わってないの?」
「もうすぐ」
母親は帳面を見る。
「それ、何?」
「昔、俺が間違えたこと」
母親は少し黙った。
「全部書いたの?」
「だいたい」
「じゃあ、もう書かなくていいよ」
安生が顔を上げた。
「どうして?」
「これからだって、また間違えるんだから」
安生は少し呆気に取られた。
母親は言った。
「何か間違えるたびに」
「また一冊ずつ書いてたら」
「帳面が何冊あっても足りないよ」
安生は笑った。
「それもそうだな」
母親は茶を置いた。
「人間、生きていれば」
「一つも間違えないなんて無理だよ」
「でも、同じ間違いは」
「二度としないようにしなさい」
安生は頷いた。
「分かってる」
⸻
母親が出ていったあと。
安生はもう一度、最後の頁を見た。
いろいろ書こうと思った。
昔のこと。
これからのこと。
自分がこの数年で、どれだけ変わったのか。
だが最後には。
何も書かなかった。
ただ、一行。
この帳面は、ここまで。
しばらくして。
その下にもう一行。
これから間違えたことは、自分で背負う。
さらにその下に。
正しくできたことは、帳面に残さなくていい。
安生は筆を置いた。
その三行を見つめる。
初めて思った。
この帳面は。
本当に、ここで終わっていいのだと。
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夕方。
安平が入ってきた。
「終わったか?」
「終わった」
「見せてみろ」
安生は帳面を渡した。
安平は頁をめくらなかった。
ただ尋ねた。
「最後に何を書いた?」
安生は三行を話した。
安平は頷いた。
「それでいい」
「何が?」
「帳面ってのは、勘定をするためのものだ」
「暮らすためのものじゃない」
安生は笑った。
「兄貴」
「ん?」
「ありがとう」
安平は安生を見る。
「急に何だ?」
「別に」
「ただ、言いたかった」
安平はしばらく黙っていた。
「じゃあ、覚えておけ」
「これからは、俺に後始末をさせるな」
安生は笑った。
「分かってる」
⸻
夜。
陳二が見送りに来た。
「明日は何時に出る?」
「朝」
「船では気をつけろ」
「ああ」
陳二が小さな布袋を差し出した。
「何だ?」
「道中の金だ」
安生は受け取らなかった。
「俺、持ってる」
「持ってけ」
「本当にいらない」
陳二は布袋を安生の手に押し込んだ。
「これは、お前を助けてるんじゃない」
安生は少し驚いた。
陳二は言った。
「兄弟からの餞別だ」
安生は陳二を見る。
しばらくして。
布袋を受け取った。
「じゃあ、もらう」
陳二は笑った。
「それでいい」
⸻
二人は門口に座った。
長い間、話をした。
昔の事件のことは話さなかった。
誰が誰に借りがあるかも話さなかった。
ただ、最近の碼頭の仕事のこと。
今年の冬が寒いこと。
南のほうにも雪が降るのかということ。
そんな話をした。
帰る前。
陳二が尋ねた。
「いつ帰ってくる?」
安生は少し考えた。
「半年後かな」
「半年経っても帰ってこなかったら?」
「そのときは、そのときだ」
陳二は頷いた。
「分かった」
「向こうでちゃんとやれよ」
「お前もな」
⸻
夜が深くなった。
安生は最後にもう一度、帳面を開いた。
もう何も書かなかった。
ただ、一度だけ目を通した。
それから木箱にしまった。
古い木札も、その隣に置いた。
箱を閉じる。
今度は。
鍵をかけなかった。
⸻
翌朝。
まだ空が完全には明るくなっていない。
安生は荷物を背負った。
門まで行く。
父親がすでに待っていた。
「行くぞ」
「ああ」
母親が門のそばに立っている。
安平は庭の外まで見送りに来た。
安生は一度振り返った。
何も言わなかった。
ただ、笑った。
それから背を向ける。
河辺の細い道を通って、碼頭へ向かった。
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河面には霧が出ていた。
船はもう待っている。
安生は船に乗った。
荷物を置く。
船首に立つ。
岸にいる人たちが、少しずつ遠ざかっていく。
安生は、過去に何があったのかを考えなかった。
これから、どんな人間にならなければならないのかも考えなかった。
ただ思った。
南へ着いたら。
まず住むところを探す。
それから、仕事をきちんとする。
月末には、給金をきちんと計算する。
人と約束したことは。
できるなら、やる。
できないなら。
早めに言う。
もし間違えたら。
自分で背負う。
それだけだった。
⸻
船が碼頭を離れる。
河水が船を南へ押していく。
安生はしばらく立っていた。
それから腰を下ろす。
荷物の中から、あの古い木札を取り出した。
しばらく眺める。
そして、またしまった。
何も書かなかった。
記録もしなかった。
ただ、前方に続く河を見て。
ゆっくり笑った。
ようやく分かったのだ。
一生、自分が過去に何を間違えたのかを問い続ける人もいる。
これから何を証明しなければならないのかを考え続ける人もいる。
だが今の安生がしたいことは、一つだけだった。
今日を、ちゃんと生きること。
船はそのまま南へ進んでいく。
古い碼頭は、少しずつ遠ざかっていった。
あの古い名前も。
古い帳面も。
昔の出来事も。
少しずつ、後ろに残っていく。
消えたわけではない。
ただ、ようやく。
もう安生を追いかけてはこなくなった。




