第一百一十章 安生
船は二日間、走り続けた。
三日目の朝。
南の地に着いた。
安生は荷物を背負って船を降りた。
碼頭は南陵より少し大きかった。
人も多い。
誰も安生を知らない。
誰も、彼が以前何をしていたのか知らない。
あの帳面に何が書かれていたのかを知る者もいない。
それが、少し不思議だった。
⸻
木材を扱う店の者が、碼頭で待っていた。
「安生か?」
「そうです」
「ついてこい」
「はい」
男は安生をいくつかの通りを抜けて連れていった。
最後に、古い家の前で足を止める。
「ここが住むところだ」
安生は中を覗いた。
部屋は広くない。
寝台が二つ。
机が一つ。
窓は少し古い。
だが、住める。
「分かりました」
男が尋ねる。
「これでいいか?」
「はい」
「じゃあ、午後から仕事だ」
「分かりました」
⸻
午後。
安生は初めて荷の管理を始めた。
木材が一本ずつ運び込まれてくる。
紙を手に。
一つずつ記していく。
数量。
寸法。
荷が届いた時間。
運んできた人間。
以前の安生なら。
こういうことを面倒だと思っていた。
今は違う。
きちんと書いておけば。
あとで余計な面倒が減る。
夕方。
一人の若い衆が尋ねた。
「この荷は、誰のものとして記録する?」
安生は紙を見る。
「書いてない」
「じゃあ、俺の名前でいいだろ」
安生は首を振った。
「駄目だ」
「どうして?」
「確認できてない」
「だいたいでいいだろ」
安生は相手を見る。
「だいたいでつけた帳面は」
「最後には、誰かが説明できなくなる」
男は少し呆れた顔をした。
「じゃあ、どうする?」
「確認してから書く」
男は小さく呟いた。
「本当に面倒な奴だな」
安生は笑った。
「昔も、そう言われたよ」
⸻
夜。
安生は一人、部屋に座っていた。
窓を開ける。
外は静かだった。
ふと、南陵のことを思い出した。
父親。
安平。
母親。
そして陳二。
今ごろ、何をしているだろう。
安生は手紙を書かなかった。
もう少し経ってから。
そのとき書けばいい。
そう思った。
⸻
机の上には、あの帳面がある。
安生は取り出した。
最後の頁を開く。
そこには、あの三行が残っている。
この帳面は、ここまで。
これから間違えたことは、自分で背負う。
正しくできたことは、帳面に残さなくていい。
しばらく眺める。
それから帳面を閉じた。
もう何も書かなかった。
そして。
そばに置いてあった新しい帳面を取り出す。
最初の頁を開く。
長い間、考えた。
最後に。
二文字だけ書いた。
今日。
その下に。
こう書く。
南へ着いた。
住むところを決めた。
仕事を始めた。
それ以外は。
何も書かなかった。
⸻
翌日。
安生は早く起きた。
まだ空が明るくなる前だった。
服を着る。
顔を洗う。
家を出る。
通りでは、もう人々が仕事を始めていた。
朝飯を売る者が荷車を押していく。
荷を担いで歩く者がいる。
馬車を走らせる者がいる。
数文のことで値段を掛け合っている者もいる。
誰も安生に気づかない。
そして。
誰も気づく必要はなかった。
安生は木材店まで歩いた。
門を開ける。
そして、一日の仕事を始めた。
⸻
昼。
一人が尋ねた。
「どこから来たんだ?」
「南陵」
「家族はいるのか?」
「いる」
「何でこんな遠くまで来た?」
安生は少し考えた。
「外へ出てみたかった」
男は笑った。
「それで、何か見つかったか?」
安生は庭に積まれた木材を見る。
「まだ見足りない」
男も笑った。
「じゃあ、ゆっくり見ればいい」
安生は頷いた。
「ああ」
⸻
半年後。
南陵へ戻ってくるのか。
分からない。
その先、別の場所へ行くのか。
分からない。
妻を迎えるのか。
子供を持つのか。
このまま木材の仕事を続けるのか。
それも分からない。
以前の安生は。
人の人生には、あらかじめ答えを見つけておくべきだと思っていた。
だが、あとになって分かった。
多くのことは。
歩き続けてみなければ。
結果は分からない。
だから今は。
自分のために答えを急いで決めることはしなかった。
⸻
夕方。
安生は仕事を終えた。
一人で通りを歩いて、住んでいる家へ向かう。
夕日が屋根を照らしている。
通りの角から風が吹いてくる。
安生はふと足を止めた。
振り返る。
後ろに河はない。
南陵の碼頭もない。
ただ、どこにでもある普通の通りがある。
人が行き交い。
馬車が通り過ぎる。
誰もが、それぞれの向かう先へ歩いている。
安生はしばらく立っていた。
それから。
また歩き始めた。
⸻
何年も経ったあと。
もし誰かが安生の一生について尋ねたとしても。
若いころ、彼が一つの古い事件を調べていたことを知る者はいないかもしれない。
かつて、人に金を返させるために脅したことも。
友人のために人の前へ出たことも。
勢いに任せて、間違ったことをしたことも。
知る者はいないだろう。
まして。
安生が長い時間をかけて。
そうしたことを一つずつ、一冊の帳面に書き残したことなど。
誰も知らないかもしれない。
そして最後には。
その帳面を閉じた。
一人の普通の人間の一生というものは。
もともと、誰かが最後まで代わりに書いてくれるものではない。
自分がしたことの中には。
跡が残るものもある。
残らないものもある。
覚えている人もいる。
忘れる人もいる。
埋め合わせられる間違いもある。
永遠に埋め合わせられないものもある。
それでも最後には。
飯を食べなければならない。
仕事もしなければならない。
家へ帰らなければならない。
人と話さなければならない。
そして。
何でもない朝に、また目を覚まさなければならない。
⸻
夜。
安生は住まいへ戻った。
灯りを一つ点ける。
新しい帳面を取り出した。
最初の頁を開く。
「今日」
少し考えて。
その下に、もう一行書いた。
今日、何もなかった。
そして帳面を閉じた。
灯りが机の上を照らしている。
外は静かだった。
安生は横になった。
目を閉じる。
もう過去のことを考えなかった。
これからのことを急いで考えることもしなかった。
ただ静かに。
眠った。
翌朝。
太陽はいつもどおり昇った。
安生は起きる。
服を着る。
顔を洗う。
門を開ける。
仕事へ向かう。
誰も彼が誰かを調べるのを待ってはいない。
誰も彼が何かを証明するのを待ってはいない。
次にどこへ進めばいいのかを、教えてくれる人もいない。
今度は。
自分で決める。
前へ進む。
⸻
河は、今も流れている。
人も、今も生きている。
昔のことは消えていない。
新しい日々も、すでに始まっている。
人は一生のうちに。
必ずしも大きなことを成し遂げられるわけではない。
すべての後悔を埋め合わせられるわけでもない。
それでも。
自分が何をしたのかを知ることはできる。
自分が背負うべきものを、背負うことはできる。
そして次に何かを選ぶとき。
前より一つだけ多く考えることができる。
それから。
ちゃんと生きていけばいい。
それで十分だ。
安生。
——完——




