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『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


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第一百零八章 河は流れ続ける

年が明ける三日前。


南から来る船は、まだ来ていなかった。


安生には、しばらくすることがなかった。


朝飯を食べると。


一人で河辺へ向かった。


⸻


河は、相変わらず同じ河だった。


碼頭の杭は、何本か新しくなっていた。


倉庫も建て直されている。


あのころいた人たちは。


もう、ここに残っている者のほうが少ない。


安生は岸辺に立った。


長い間、河を見ていた。


以前ここへ来るときは。


いつも何かを探していた。


一人の人間を。


一つの手がかりを。


一つの言葉を。


そして、何が真実だったのかを証明できるものを。


今は。


何も探していなかった。


ただ、立っていた。


⸻


少し離れたところで。


趙徳全が日向ぼっこをしていた。


安生に気づく。


「来たか」


「ああ」


「もう行くんだって?」


安生は少し驚いた。


「どうして知ってる?」


「お前の親父から聞いた」


趙徳全は笑った。


「南か?」


「ああ」


「どのくらい?」


「半年」


趙徳全は頷いた。


「外へ出てみるのもいい」


安生は隣に座った。


二人で河を眺める。


しばらくして。


趙徳全が尋ねた。


「前に調べてたあの件、覚えてるか?」


安生は頷いた。


「覚えてる」


「今はもう、全部分かったのか?」


安生は少し考えた。


「分かったこともある」


「分からないこともある」


「それで、調べ終わったと言えるのか?」


安生は笑った。


「言えると思う」


趙徳全も笑った。


「昔のお前なら、そんなこと言わなかったな」


「昔は」


「まだ分からないことがあるなら」


「終わってないと思ってた」


趙徳全が尋ねる。


「今は?」


「今は」


「何が本当なのかを知る」


「何が分からないのかを知る」


「それも一つの答えだと思う」


趙徳全は頷いた。


「ようやく分かったか」


⸻


安生は河面を見つめた。


ふと尋ねる。


「趙叔」


「ん?」


「昔、どうしてずっと俺にいろいろ話してくれた?」


趙徳全は長い間、考えていた。


「俺も歳を取ったからな」


「歳を取ってから」


「いろんなことが」


「言わなかったからって、なくなるわけじゃないと分かった」


安生は黙っていた。


「若いころはな」


趙徳全が言った。


「面倒に巻き込まれるのが怖かった」


「嘘をついたこともある」


「知らないふりをしたこともある」


「でも、あとになって分かった」


「あることを黙っていれば」


「誰かが代わりに話す」


「その誰かが話したことが」


「自分が経験したことと同じとは限らない」


安生は頷いた。


「だから話してくれたのか?」


「俺は、自分が覚えてることを話しただけだ」


趙徳全は笑った。


「覚え違いだってある」


「俺だって間違える」


「だから昔、お前は何度も聞いただろ」


「本当にそうだったのかって」


「そうだ」


「今も聞くのか?」


安生は首を振った。


「もう聞かなくてもいい」


「どうして?」


「分かってるから」


「たとえお前が間違っていたとしても」


「俺を騙そうとしてるとは限らない」


趙徳全は笑った。


「お前も、ようやく分けて考えられるようになったな」


⸻


昼。


安生が帰ろうとすると。


趙徳全が突然呼び止めた。


「安生」


「ん?」


「これをやる」


彼は懐から古い木札を取り出した。


証拠品ではない。


帳面でもない。


ただ、昔碼頭で荷物の置き場所を示すために使っていた札だった。


角はすっかり擦り減っている。


安生は受け取った。


「これ、何のために?」


「別に意味はない」


「昔、お前があの件を調べてたころ」


「いつも何か持ってきて、俺に聞いてただろ」


「今度は、お前にやる」


「取っておけ」


安生は笑った。


「こんなの、何に使う?」


「何にも使わん」


「じゃあ、いらない」


趙徳全が睨む。


「使い道がないからやるんだ」


安生は一瞬、呆気に取られた。


それから笑った。


「分かった」


木札をしまった。


⸻


碼頭の端まで歩いたところで。


安生は一度、足を止めた。


振り返る。


河は北から流れてきて。


南へ向かっている。


誰にも止められない。


流れてしまった水を。


もう一度すくい上げることもできない。


安生はふと、あの帳面を思い出した。


張全。


趙順。


趙平。


そして、自分が昔してきたことも。


もう変えられないものがある。


まだ埋め合わせられるものもある。


これから先、二度と機会がないものもある。


だが。


だからといって。


何もしなくていいわけではない。


できることは。


やる。


できないことは。


できないと認める。


そして、そのまま前へ進む。


⸻


家に戻る。


安生は木箱を開けた。


古い木札を中に入れる。


その隣には、あの帳面がある。


新しい名前は書かなかった。


ただ、最後の頁に一行だけ付け足した。


河は止まらない。


少し間を置いて。


もう一行。


人も、いつまでも過去に立ち止まってはいられない。


安生は帳面を閉じた。


今度こそ。


本当に閉じた。


⸻


夜。


母親が尋ねた。


「明日も碼頭へ行くの?」


安生は首を振った。


「もう行かない」


「じゃあ、どこへ?」


「荷物をまとめる」


「もう出る準備をするのか?」


「ああ」


母親は頷いた。


「荷物はあまり持っていくんじゃないよ」


「分かってる」


安生は少し笑った。


「母さん」


「ん?」


「たぶん、家が恋しくなると思う」


母親は安生を見る。


「恋しくなったら帰っておいで」


安生は頷いた。


「うん」


⸻


夜更け。


安生は最後に一度、家の門口まで出た。


遠くから、河の流れる音が聞こえる。


だが、河辺までは行かなかった。


ただ、しばらく立っていた。


それから振り返り。


家の中へ戻った。


今度は。


もう振り返らなかった。

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