第一百零七章 自分の道
年の瀬が近づいてきた。
碼頭の仕事は、ずいぶん少なくなった。
安生も、家で過ごす時間が増えた。
ある朝。
安平が尋ねた。
「お前、これからもずっと碼頭で働くつもりか?」
安生は飯を食べながら答えた。
「今のところは」
「その先は?」
「分からない」
安平は安生を見た。
「昔はよく言ってたじゃないか」
「将来は、大きなことをやるって」
安生は笑った。
「昔はな」
「今は?」
「今は」
「まず、自分の暮らしをちゃんとすることかな」
安平は、それ以上何も聞かなかった。
⸻
午後。
碼頭の管事が安生を呼んだ。
「安生」
「ん?」
「南のほうに木材を扱っている店がある」
「一人、人を欲しがってる」
「ここより給金はいい」
安生は尋ねた。
「何をする?」
「荷の管理だ」
「遠くへ行くのか?」
「ああ」
「どのくらい?」
「少なくとも半年だ」
安生はすぐには答えなかった。
「いつ出る?」
「年が明けてからだ」
「少し考えてみろ」
⸻
夜。
安生は家でその話をした。
母親が尋ねる。
「遠いの?」
「船で行く」
「危なくないの?」
「たぶん大丈夫だ」
父親は何も言わなかった。
安平が尋ねる。
「行きたいのか?」
安生は少し考えた。
「少しな」
「どうして?」
「金がいい」
「それだけか?」
「それと、仕事を覚えられそうだから」
安平は頷いた。
「じゃあ、行けばいい」
安生は少し驚いた。
「反対しないのか?」
「何で反対する?」
「前は、俺のことを落ち着きがないって思ってただろ」
安平は笑った。
「少なくとも今のお前は、先に聞くようになった」
「昔のお前は、自分で決めてから俺に言ってきたからな」
安生も笑った。
⸻
翌日。
安生は碼頭へ行った。
管事を見つける。
「俺、行くよ」
管事は頷いた。
「じゃあ、それで決まりだ」
「一つ聞きたい」
安生が言った。
「給金は、どういう計算になる?」
管事が金額を告げた。
安生は続けて尋ねる。
「住むところは?」
「用意する」
「飯は?」
「自分で何とかしろ」
「給金は、いつ払う?」
「月末だ」
安生は紙を取り出した。
「書いておいてくれ」
管事は安生を見る。
「いつからそんなに面倒なことを言うようになった?」
安生は少し笑った。
「昔、痛い目を見たからな」
「今度は、ちゃんと記しておきたい」
管事は首を振った。
「分かった」
⸻
帰り道。
陳二と出会った。
「お前、行くのか?」
「ああ」
「どこへ?」
「南のほう」
「どのくらい?」
「半年」
陳二は呆れたような顔をした。
「じゃあ、俺はどうすりゃいい?」
安生は笑った。
「自分でやれ」
「冗談言うな」
「本気だ」
「これから何かあったら」
「まず自分に聞け」
「それは、本当に自分のことなのかって」
陳二は安生を見る。
「お前、どんどん爺さんみたいになってきたな」
安生は陳二の肩を軽く叩いた。
「うるさい」
⸻
夜。
安生は帳面を開いた。
この頁に、こう書いた。
年が明けたら、南へ行って半年働く。
その下に、もう一行。
ここから逃げるためじゃない。
自分一人で暮らしていけるか、確かめるためだ。
そこまで書いて。
安生はしばらく手を止めた。
そして「自分一人で」という言葉を消した。
代わりに書き直す。
自分の暮らしを、ちゃんとやっていけるか見てみる。
なぜか。
ふと思ったのだ。
人は、何かを証明しなければならないわけではない。
ただ、少しでも分かったように生きる。
それだけでも、十分難しい。
⸻
寝る前。
父親が戸口から呼んだ。
「安生」
「ん?」
「向こうへ行ってから」
「大金を稼ごうと焦るな」
安生は笑った。
「分かってる」
「まず、仕事をきちんとやれ」
「分かってる」
「人から預かったものは」
「ちゃんと覚えておけ」
「自分のものも」
「ちゃんと見ておけ」
安生は頷いた。
「分かった」
父親は少し黙った。
「それから」
「昔、間違ったことをしたからって」
「これから何もできないと思うな」
安生は少し驚いた。
父親は続けた。
「人間は帳面じゃない」
「いくら借りがあるかだけを見るものじゃない」
「これから何ができるかも見なきゃならん」
安生は答えなかった。
ただ、頷いた。
⸻
夜が深くなってから。
安生はもう一度、帳面を開いた。
前の頁をめくる。
張全。
趙順。
趙平。
それから、以前は書きたくなかった名前もいくつかある。
安生は破らなかった。
線も引かなかった。
ただ、その先へ頁をめくった。
最後の頁。
こう書いた。
年が明けたら、南へ行く。
少し考えてから。
もう一行、付け足した。
今度は、まず自分の道をちゃんと歩く。
安生は帳面を閉じた。
木箱の中にしまう。
鍵はかけなかった。
隠しもしなかった。
もう、誰かに見られることを恐れてはいなかった。
あのことも。
このことも。
すべて、自分がやったことだ。
見ないようにしたからといって。
なくなるわけではない。
窓の外は冷えていた。
河は変わらず、南へ流れている。
安生は横になった。
初めて。
明日は誰を調べるべきかを考えなかった。
どこへ行けば答えが見つかるのかも考えなかった。
ただ思った。
年が明けたら。
一度、行ってみよう。




