第一百零六章 家の人たち
冬が本格的にやって来るころ。
安生は、以前より早く家に帰るようになった。
以前の彼は、外にいさえすれば。
家の中のことは、自分を追いかけてこないと思っていた。
だが、後になって分かった。
家のことも。
やはり、自分で向き合わなければならない。
⸻
ある晩。
安平が庭で古い机を直していた。
安生が歩いていく。
「兄貴」
「ああ」
「俺もやる」
安平は安生を一度見た。
「お前、できるのか?」
「できない」
「じゃあ、何を手伝うんだ?」
安生はそばにあった木片を拾った。
「教えてくれ」
安平が小さく笑った。
「まず、それを取ってくれ」
二人でしばらく作業した。
安生がふと尋ねる。
「兄貴」
「ん?」
「昔、俺の後始末をよくしてくれてたよな」
安平の手が一瞬止まった。
「急にどうした?」
「昔のこと」
安平はまた木を削り始めた。
「いろいろあったな」
「例えば?」
「お前が金を借りたとき」
「人と喧嘩したとき」
「それから、人の家の門を蹴って壊したとき」
安生は俯いた。
「覚えてる」
安平は言った。
「お前はあのころ」
「ことが片付けば、それでいいと思ってた」
「俺もそう思ってた」
「でも、あとになって気づいた」
「お前は、自分がどうしてそういうことになったのか、何も分かってなかった」
安生は言い返さなかった。
⸻
「兄貴」
「ん?」
「昔の俺って」
「やっぱり面倒だったか?」
安平は笑った。
「もちろんだ」
「じゃあ、どうして面倒を見てくれた?」
「弟だからだ」
安生が顔を上げる。
安平は続けた。
「でも、その言葉を勘違いするな」
「どういう意味?」
「俺が兄貴だから」
「お前を助ける」
「お前が何をしても正しいからじゃない」
安生は黙った。
「それに」
安平が言う。
「俺がお前を助けたことが」
「かえってお前を駄目にしたこともある」
安生は兄を見る。
「どうして?」
「お前が何かやらかすたびに」
「俺が全部、前に出てやった」
「だからお前はずっと」
「どうせ誰かが後始末してくれると思ってた」
安生は長い間、黙っていた。
「後悔してるか?」
安平は少し考えた。
「してる」
「どうして?」
「もっと早く、お前自身に背負わせるべきだった」
安生は頷いた。
「俺も、そう思う」
⸻
母親が家の中から出てきた。
「二人で何を話してるの?」
安平が言った。
「こいつの子供のころの悪事だよ」
母親は笑った。
「そんなの、話し始めたらきりがないよ」
安生は困った顔をする。
「母さん」
「何?」
「俺、もう変わったから」
母親は安生を見る。
「変わったかどうかは」
「長く暮らしてれば分かるよ」
安生は頷いた。
「うん」
⸻
食事のとき。
父親はずっと黙っていた。
食事も半ばを過ぎたころ。
突然、口を開いた。
「お前、最近まだ書いてるのか?」
安生は少し驚いた。
「書いてる」
「何を書いてる?」
「自分の帳面」
父親は箸を置いた。
「自分の帳面?」
「うん」
父親は少し黙った。
「それ、いつまで書くつもりだ?」
安生は考えた。
「分からない」
父親は笑った。
「じゃあ、一生書くものにはするな」
安生が顔を上げる。
「どういう意味?」
「人間、自分が何を間違えたかだけを覚えていればいいわけじゃない」
「これから何をするのかも知らなきゃならない」
安生は黙っていた。
父親は料理を一口取った。
「過去のことは」
「記すべきなら記せ」
「認めるべきなら認めろ」
「だが、毎日過去ばかり見ているわけにはいかない」
安生が尋ねる。
「じゃあ、忘れたら?」
父親は首を振った。
「忘れない」
「どうして?」
「本当に変わったものは」
「毎日自分に言い聞かせなくても」
「いつの間にか、自分の習慣になるからだ」
⸻
食事が終わったあと。
安生は一人で河辺まで歩いた。
川の水は冷たかった。
水面を風が渡っていく。
安生は沈川のことを思い出した。
許文成のことも。
そして、もう探すことのできない人たちのことも。
以前の彼は、どんな話にも必ず答えがあると思っていた。
だが、後になって分かった。
答えが。
「分からない」というところで止まることもある。
人の一生も同じだ。
すべてのことに。
完全な説明がつくわけではない。
⸻
しばらくそこに立っていた。
そろそろ戻ろうとしたとき。
後ろから声がした。
「安生」
振り返る。
陳二だった。
「何でここにいる?」
「お前を探してた」
「何かあった?」
陳二が近づいてくる。
「別に」
「ただ、言っとこうと思って」
「例の二百文」
「自分で片をつけた」
安生は頷いた。
「どうした?」
「向こうも確かに借りてたって認めた」
「百五十文を返してきた」
「残りの五十文は来月払うって」
「それでいいって言ったのか?」
「言った」
「どうして?」
陳二は笑った。
「今は本当に持ってないって言うから」
「じゃあ、待つ」
安生は陳二を見る。
「それでいい」
陳二が尋ねる。
「俺が損してるとは思わないのか?」
安生は首を振った。
「お前が決めたことだ」
陳二は頷いた。
「ああ」
「俺が決めた」
⸻
二人は河辺に立っていた。
しばらく何も話さなかった。
やがて陳二が言った。
「昔は思ってた」
「兄弟っていうのは、相手のことまで背負ってやるもんだって」
安生が尋ねる。
「今は?」
「今は思う」
「時には」
「相手に返してやることも」
「兄弟なんだって」
安生は笑った。
「やっと分かったか」
陳二が睨む。
「まるでお前だけが分かってるみたいに言うな」
「分かったよ」
「お前も分かってる」
⸻
家に帰る。
安生は帳面を開いた。
この夜。
彼は、誰の名前も書かなかった。
ただ一行だけを書いた。
昔は、誰かが俺の後始末をしてくれた。
今は、自分で後始末をすることを覚えなければならない。
書き終える。
安生は帳面を閉じた。
それ以上は書かなかった。
ふと気づいたのだ。
もう、書かなくても分かっていることがある。
たとえば。
これから間違えたとき。
どうすればいいのか。
少しずつ。
もう分かり始めていた。




