第一百零四章 返せない借り
秋になってから。
川辺の風が少しずつ冷たくなってきた。
安生は相変わらず毎日、碼頭へ仕事に出ていた。
荷物を運び。
数を数え。
ときには木箱の修理を手伝った。
もう、誰も安生に何かを調べろとは言わなかった。
そのことが、かえって気楽だった。
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ある夕方。
李叔が安生を呼び止めた。
「安生」
「どうした?」
「昔、俺が秤を一つなくしたこと、覚えてるか?」
安生は足を止めた。
「覚えてる」
それは、ずいぶん前のことだった。
李叔の店から、銅の秤が一つなくなった。
そのとき、店の使用人が持ち出したのではないかと疑われた。
それを聞いた安生は。
調べもしなかった。
話も聞かなかった。
ただ、その使用人が盗んだのだと決めつけた。
そして、大勢の人がいる前で怒鳴った。
その後。
銅の秤は倉庫の裏から見つかった。
荷物を運んだとき、木箱の陰に入り込んでいただけだった。
使用人は盗んでいなかった。
それを知ったあとも。
安生は、その男を訪ねなかった。
あの頃は。
もう終わったことなら。
それでいいと思っていた。
⸻
「そいつ、今も店にいるのか?」
安生が尋ねた。
李叔は首を振った。
「とっくに辞めた」
「どこへ行った?」
「知らない」
「じゃあ、今日どうしてその話を?」
李叔は答えなかった。
ただ、古い銅の秤を一つ、帳場の上に置いた。
「ずっと取っておいた」
安生は秤を見る。
「どうして?」
「これを見るたびに」
「お前が昔言ったことを思い出すからだ」
安生は黙った。
李叔が言った。
「お前、あのとき言っただろ」
「盗みをする奴は店に置けないって」
「それから」
「これから誰かが物を盗んだら、手を折ってやるって」
安生は言い訳しなかった。
「言った」
「覚えてるのか?」
「覚えてる」
李叔は頷いた。
「お前があとになって後悔したことも知ってる」
「でも、あいつが店を辞めてから」
「二度と戻ってこなかった」
安生が尋ねた。
「名前は?」
「趙平だ」
安生はその名前を帳面に記した。
「家はどこ?」
李叔はしばらく考えた。
「城西だ」
「詳しい場所は?」
「俺も知らない」
⸻
安生は二日間、探した。
見つからなかった。
三日目。
城西へ向かった。
何人かに尋ねて。
ようやく一人が言った。
「趙平?」
「昔、李記木材店で働いてた?」
「そうだ」
「その後、どこへ行った?」
男は首を振った。
「知らない」
「遠くへ行ったって聞いたけどな」
「どこへ?」
「そこまでは分からない」
安生は街角に立った。
突然。
自分がこの先、何をすればいいのか分からなくなった。
謝ることはできる。
金を払うこともできる。
趙平本人を見つけることさえ、できるかもしれない。
だが。
今の趙平がどんな暮らしをしているのかは分からない。
あのとき自分が言った言葉が。
彼の中にどれほど残っているのかも。
分からなかった。
⸻
家に戻ると。
安生はこのことを帳面に書いた。
趙平。
かつて、十分な証拠もないまま、俺が盗みをしたと決めつけた。
その下に。
あとで、盗んでいなかったことが分かった。
しばらく考えて。
さらに書いた。
俺は本人に謝らなかった。
その下には。
何も書かなかった。
なぜなら。
安生は突然気づいたからだ。
いくつかのことには。
そもそも、はっきりした償い方さえない。
⸻
夜。
安平が帰ってきた。
安生が机の前に座っているのを見る。
「また書いてるのか?」
「うん」
「今度は誰だ?」
安生は答えた。
「趙平」
安平は少し考えた。
「李記のあの男か?」
「そう」
「そのあと、辞めたんじゃなかったか?」
「うん」
「見つけたのか?」
「まだ」
安平は腰を下ろした。
「じゃあ、もういいんじゃないか」
安生は顔を上げた。
「どうして?」
「今のお前には、あいつがどこにいるか分からない」
「それに、あのときお前だって、わざと傷つけようとしたわけじゃない」
安生は黙った。
「兄貴」
「ん?」
「わざとじゃなかったら」
「なかったことにしていいのか?」
安平はすぐには答えなかった。
「できない」
「じゃあ、どうすればいい?」
「俺にも分からない」
安平は言った。
「いくつかのことは」
「間違えてしまったあと」
「全部を元に戻せるわけじゃない」
安生は安平を見る。
「じゃあ、ずっと覚えておくしかないのか?」
「それも違う」
安平は机の上の帳面を手に取った。
二頁ほどめくる。
中身を詳しく読むことはしなかった。
「覚えておけ」
「でも、その中でずっと生きるな」
安生は何も言わなかった。
安平は帳面を元に戻した。
「お前は昔、間違えた」
「今は、それが分かった」
「これから、もうやらなければいい」
「もし、いつか趙平に会えたら」
「そのとき、本人に言えばいい」
「一生会えなかったら」
「覚えておけ」
「このことは、元には戻せなかったって」
安生は頷いた。
「分かった」
⸻
翌日。
安生は李叔を訪ねた。
「趙平を見つけたのか?」
李叔が顔を上げる。
「いや」
「じゃあ、何しに来た?」
「一言、伝えておきたくて」
「もし、いつかあいつが戻ってきたら」
「俺に教えてくれ」
李叔は安生を見る。
「何をするつもりだ?」
「謝る」
李叔は笑った。
「お前も、今じゃ謝ることを覚えたんだな」
安生も笑った。
「遅いけどな」
「それでも、言わなきゃいけない」
⸻
木材店を出るとき。
李叔が後ろから呼んだ。
「安生」
「ん?」
「あの秤」
「持っていけ」
安生は振り返った。
「どうして?」
「ここに置いておくと」
「俺も見るたびに嫌な気分になる」
安生は銅の秤を受け取った。
手に載せてみる。
重かった。
安生は売らなかった。
捨ても、しなかった。
ただ、古い木箱の中へ入れた。
⸻
夜。
安生は帳面を開いた。
趙平の名前の下に。
最後の一文を書いた。
この借りは、今は返せない。
少し考えて。
さらに書き足した。
もし、いつかまた会えたら、そのとき返す。
そして帳面を閉じた。
安生はようやく分かり始めていた。
「自分の帳面」というのは。
すべての借りを返し終えることではない。
返せるものもある。
認めることしかできないものもある。
そして。
いつ当事者に再び会えるのかさえ分からないものもある。
だが、どれであっても。
なかったことにしてはいけない。
川の水は、今日も南へ流れている。
町の人々は、いつも通り商売をしている。
去っていく者もいる。
戻ってくる者もいる。
もう二度と戻ってこられない者もいる。
安生は初めて思った。
人が本当に覚えておくべきなのは。
自分が何を正しくやったかだけではない。
もう変えることのできないことも。
その中に含まれているのだと。




