↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『安らかに生きる』 ――原題:『安生』  作者: 亀


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

104/110

第一百零四章 返せない借り

秋になってから。


川辺の風が少しずつ冷たくなってきた。


安生は相変わらず毎日、碼頭へ仕事に出ていた。


荷物を運び。


数を数え。


ときには木箱の修理を手伝った。


もう、誰も安生に何かを調べろとは言わなかった。


そのことが、かえって気楽だった。


⸻


ある夕方。


李叔が安生を呼び止めた。


「安生」


「どうした?」


「昔、俺が秤を一つなくしたこと、覚えてるか?」


安生は足を止めた。


「覚えてる」


それは、ずいぶん前のことだった。


李叔の店から、銅の秤が一つなくなった。


そのとき、店の使用人が持ち出したのではないかと疑われた。


それを聞いた安生は。


調べもしなかった。


話も聞かなかった。


ただ、その使用人が盗んだのだと決めつけた。


そして、大勢の人がいる前で怒鳴った。


その後。


銅の秤は倉庫の裏から見つかった。


荷物を運んだとき、木箱の陰に入り込んでいただけだった。


使用人は盗んでいなかった。


それを知ったあとも。


安生は、その男を訪ねなかった。


あの頃は。


もう終わったことなら。


それでいいと思っていた。


⸻


「そいつ、今も店にいるのか?」


安生が尋ねた。


李叔は首を振った。


「とっくに辞めた」


「どこへ行った?」


「知らない」


「じゃあ、今日どうしてその話を?」


李叔は答えなかった。


ただ、古い銅の秤を一つ、帳場の上に置いた。


「ずっと取っておいた」


安生は秤を見る。


「どうして?」


「これを見るたびに」


「お前が昔言ったことを思い出すからだ」


安生は黙った。


李叔が言った。


「お前、あのとき言っただろ」


「盗みをする奴は店に置けないって」


「それから」


「これから誰かが物を盗んだら、手を折ってやるって」


安生は言い訳しなかった。


「言った」


「覚えてるのか?」


「覚えてる」


李叔は頷いた。


「お前があとになって後悔したことも知ってる」


「でも、あいつが店を辞めてから」


「二度と戻ってこなかった」


安生が尋ねた。


「名前は?」


「趙平だ」


安生はその名前を帳面に記した。


「家はどこ?」


李叔はしばらく考えた。


「城西だ」


「詳しい場所は?」


「俺も知らない」


⸻


安生は二日間、探した。


見つからなかった。


三日目。


城西へ向かった。


何人かに尋ねて。


ようやく一人が言った。


「趙平?」


「昔、李記木材店で働いてた?」


「そうだ」


「その後、どこへ行った?」


男は首を振った。


「知らない」


「遠くへ行ったって聞いたけどな」


「どこへ?」


「そこまでは分からない」


安生は街角に立った。


突然。


自分がこの先、何をすればいいのか分からなくなった。


謝ることはできる。


金を払うこともできる。


趙平本人を見つけることさえ、できるかもしれない。


だが。


今の趙平がどんな暮らしをしているのかは分からない。


あのとき自分が言った言葉が。


彼の中にどれほど残っているのかも。


分からなかった。


⸻


家に戻ると。


安生はこのことを帳面に書いた。


趙平。


かつて、十分な証拠もないまま、俺が盗みをしたと決めつけた。


その下に。


あとで、盗んでいなかったことが分かった。


しばらく考えて。


さらに書いた。


俺は本人に謝らなかった。


その下には。


何も書かなかった。


なぜなら。


安生は突然気づいたからだ。


いくつかのことには。


そもそも、はっきりした償い方さえない。


⸻


夜。


安平が帰ってきた。


安生が机の前に座っているのを見る。


「また書いてるのか?」


「うん」


「今度は誰だ?」


安生は答えた。


「趙平」


安平は少し考えた。


「李記のあの男か?」


「そう」


「そのあと、辞めたんじゃなかったか?」


「うん」


「見つけたのか?」


「まだ」


安平は腰を下ろした。


「じゃあ、もういいんじゃないか」


安生は顔を上げた。


「どうして?」


「今のお前には、あいつがどこにいるか分からない」


「それに、あのときお前だって、わざと傷つけようとしたわけじゃない」


安生は黙った。


「兄貴」


「ん?」


「わざとじゃなかったら」


「なかったことにしていいのか?」


安平はすぐには答えなかった。


「できない」


「じゃあ、どうすればいい?」


「俺にも分からない」


安平は言った。


「いくつかのことは」


「間違えてしまったあと」


「全部を元に戻せるわけじゃない」


安生は安平を見る。


「じゃあ、ずっと覚えておくしかないのか?」


「それも違う」


安平は机の上の帳面を手に取った。


二頁ほどめくる。


中身を詳しく読むことはしなかった。


「覚えておけ」


「でも、その中でずっと生きるな」


安生は何も言わなかった。


安平は帳面を元に戻した。


「お前は昔、間違えた」


「今は、それが分かった」


「これから、もうやらなければいい」


「もし、いつか趙平に会えたら」


「そのとき、本人に言えばいい」


「一生会えなかったら」


「覚えておけ」


「このことは、元には戻せなかったって」


安生は頷いた。


「分かった」


⸻


翌日。


安生は李叔を訪ねた。


「趙平を見つけたのか?」


李叔が顔を上げる。


「いや」


「じゃあ、何しに来た?」


「一言、伝えておきたくて」


「もし、いつかあいつが戻ってきたら」


「俺に教えてくれ」


李叔は安生を見る。


「何をするつもりだ?」


「謝る」


李叔は笑った。


「お前も、今じゃ謝ることを覚えたんだな」


安生も笑った。


「遅いけどな」


「それでも、言わなきゃいけない」


⸻


木材店を出るとき。


李叔が後ろから呼んだ。


「安生」


「ん?」


「あの秤」


「持っていけ」


安生は振り返った。


「どうして?」


「ここに置いておくと」


「俺も見るたびに嫌な気分になる」


安生は銅の秤を受け取った。


手に載せてみる。


重かった。


安生は売らなかった。


捨ても、しなかった。


ただ、古い木箱の中へ入れた。


⸻


夜。


安生は帳面を開いた。


趙平の名前の下に。


最後の一文を書いた。


この借りは、今は返せない。


少し考えて。


さらに書き足した。


もし、いつかまた会えたら、そのとき返す。


そして帳面を閉じた。


安生はようやく分かり始めていた。


「自分の帳面」というのは。


すべての借りを返し終えることではない。


返せるものもある。


認めることしかできないものもある。


そして。


いつ当事者に再び会えるのかさえ分からないものもある。


だが、どれであっても。


なかったことにしてはいけない。


川の水は、今日も南へ流れている。


町の人々は、いつも通り商売をしている。


去っていく者もいる。


戻ってくる者もいる。


もう二度と戻ってこられない者もいる。


安生は初めて思った。


人が本当に覚えておくべきなのは。


自分が何を正しくやったかだけではない。


もう変えることのできないことも。


その中に含まれているのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。