第一百零二章 古い帳面に残った名前
安生は新しい帳面に「自分の帳面」と書いたあと。
すぐには続きを書かなかった。
本当に書きにくいのは、出来事ではなかった。
名前だった。
いくつかの名前は。
もう思い出したくさえなかった。
⸻
三日後。
孫おばさんが安生を訪ねてきた。
「安生」
「ん?」
「昔、張全って人を探したことがあっただろ?」
安生は少し驚いた。
「張全?」
「木材を売ってた人」
「……たぶんな」
孫おばさんは安生を見る。
「最近、戻ってきたんだ」
安生は何も言わなかった。
孫おばさんが続ける。
「お前に会いたいって」
「何で?」
「知らない」
「何か言ってた?」
「昔、お前に金を借りてたって」
安生は眉をひそめた。
「俺からじゃない」
孫おばさんは安生を見る。
「本人は」
「お前の友達から借りたって言ってた」
安生はすぐに分かった。
⸻
それは何年か前のことだった。
張全は木材を売っていた。
陳二とは以前から付き合いがあり、一度、商売をしたことがあった。
その後、値段と数量のことで揉めた。
陳二は、張全が品物を少なく渡したと言い続けた。
張全は、全部渡したと言った。
正式な帳面は、どちらにもなかった。
残っていたのは、いくつかの言葉だけだった。
陳二は納得しなかった。
そして安生を頼った。
その頃の安生は、証拠を聞かなかった。
どちらが正しいのかも聞かなかった。
ただ一言。
「俺にどうしろって?」
陳二は言った。
「吐き出させてくれ」
それで安生は行った。
二人を連れて、張全の店の前に立った。
手は出さなかった。
だが、張全が普通に商売をできるような状況でもなかった。
最後に。
張全は陳二に三百文を渡した。
それで終わった。
そのあと。
陳二は言った。
「やっぱり、お前は話が早いな」
あの頃の安生は、それを聞いて得意になった。
兄弟を助けた。
そう思っていた。
⸻
今。
孫おばさんが尋ねる。
「会いに行くか?」
安生は長いこと黙っていた。
「行く」
⸻
張全の店は、以前よりずっと小さくなっていた。
店先には木材が数束置いてあるだけだった。
安生を見ると。
張全は隠れなかった。
ただ、そこに立っていた。
「来たか」
「うん」
安生は腰を下ろした。
二人はしばらく黙っていた。
先に口を開いたのは張全だった。
「三百文のこと、覚えてるか?」
「覚えてる」
「あれは、俺がお前に借りた金じゃない」
「分かってる」
「お前も分かってるのか?」
「昔は分かってなかった」
「今は?」
「今は分かってる」
「俺には、あのとき、お前が陳二に三百文を借りていると証明するものがなかった」
「陳二にも、俺が借りてると証明するものはなかった」
「そうだ」
張全は頷いた。
「それでも、お前は来た」
「そうだ」
「しかも二人連れて」
「うん」
「俺はそのあと、金を払った」
「うん」
張全は安生を見る。
「俺がどうして払ったか、分かるか?」
安生は首を振った。
「怖かったからだ」
安生は何も言わなかった。
「お前たちは俺を殴らなかった」
「でも、分かってた」
「払わなかったら」
「お前たちは、俺が普通に商売するのを許さないだろうって」
安生はうつむいた。
「悪かった」
張全は一瞬、言葉を失った。
「今さら、それを言うのか?」
「うん」
「何の役に立つ?」
「何の役にも立たない」
張全は安生を見る。
「じゃあ、どうして言う?」
安生は長いこと考えた。
「このことは」
「俺がやったことだから」
⸻
張全はすぐには何も言わなかった。
しばらくして。
尋ねた。
「今も陳二とは付き合ってるのか?」
「付き合ってる」
「あいつは、今日お前が来たことを知ってるか?」
「知らない」
「このこと、あいつに話すのか?」
「話す」
張全は笑った。
「怒らないか?」
「怒ると思う」
「それでも言うのか?」
「これは、あいつのことじゃない」
「俺のことだから」
張全は安生を見つめた。
「昔のお前は、そんな言い方しなかった」
安生は頷いた。
「だから、今になって来た」
⸻
張全は棚の中から古い布袋を取り出した。
机の上に置く。
中には銅銭が入っていた。
「これは?」
「三百文だ」
安生は驚いた。
「どういう意味だ?」
「返す」
「俺のじゃない」
「じゃあ、陳二に返してくれ」
安生は受け取らなかった。
「自分で渡せ」
張全は首を振った。
「あいつには会いたくない」
「なら、それでいい」
張全は安生を見る。
「昔は、お前が代わりに取りに来た」
「今度は、お前が代わりに返すのか?」
安生は黙った。
最後には。
布袋を張全のほうへ押し戻した。
「金は受け取らない」
「どうして?」
「もう、二人の代わりに決めることはできないからだ」
張全は少し驚いた。
安生は続けた。
「その三百文を払う必要がなかったと思うなら」
「自分で陳二に話せ」
「会いたくないなら」
「それも自分で決めればいい」
「俺が代わりに受け取ることはしない」
張全は長いこと安生を見ていた。
それから、布袋をもう一度しまった。
⸻
木材店を出たあと。
安生はすぐには家へ帰らなかった。
陳二のところへ向かった。
陳二は誰かと牌を囲んでいた。
安生を見ると。
「どうした?」
「張全が俺を訪ねてきた」
陳二の手が止まった。
「何て言ってた?」
「三百文のことだ」
「それがどうした?」
「自分が借りた金じゃないって」
陳二は眉をひそめた。
「今さら、借りてないって言ってるのか?」
「分からない」
「お前は、あいつの話を信じるのか?」
安生は答えなかった。
陳二は安生を見つめる。
「どういう意味だ?」
安生は腰を下ろした。
「一つ聞く」
「昔、お前は張全が三百文を借りたって証拠を持ってたか?」
陳二は黙った。
「なかった」
「じゃあ、どうして借りがあると思った?」
「品物を少なく渡された」
「どうして分かった?」
「俺が覚えてる」
「帳面は?」
「ない」
「証人は?」
陳二は何も言わなかった。
安生は頷いた。
「分かった」
「何が?」
「あの三百文について」
「俺には、お前の代わりに取り立てる資格はなかった」
陳二は突然立ち上がった。
「お前、どういう意味だ?」
「そのままの意味だ」
「じゃあ、あのとき何で来た?」
安生は陳二を見る。
「お前が俺の兄弟だと思ってたから」
「だから、お前のことは俺のことだと思った」
陳二は眉をひそめる。
「違うのか?」
安生は首を振った。
「違う」
「お前が兄弟だからこそ」
「俺が、お前の代わりに他人が借金をしているかどうかまで決めるべきじゃなかった」
陳二は言葉を失った。
安生は続けた。
「これから、お前に証拠があるなら」
「どこで話をつければいいか、一緒に考える」
「証拠がないなら」
「もう、人の店を塞ぐようなことはしない」
「まして、誰かを連れて行って無理に払わせたりもしない」
陳二は何も言わなかった。
⸻
長い沈黙のあと。
陳二が尋ねた。
「お前、変わったのか?」
安生は少し笑った。
「少しな」
「じゃあ、昔のことは?」
安生は黙った。
「昔のことは」
「俺自身が認める」
陳二が低い声で言った。
「じゃあ、あの三百文はどうする?」
安生は答えた。
「お前が決めろ」
「まだ借りがあると思うなら」
「自分で話せ」
「もういいと思うなら」
「それでいい」
「ただ、もう俺に代わりに決めさせるな」
陳二は答えなかった。
⸻
夜。
安生は家に戻った。
新しい帳面を開く。
二頁目を開いた。
そこに書いた。
張全。
その下に。
かつて陳二と張全の間にあった借金の揉め事について、陳二に頼まれ、張全の店へ人を連れて行き、三百文を渡すよう圧力をかけた。
安生は一度、手を止めた。
そして書き足した。
当時、十分な証拠はなかった。
さらに書いた。
俺の行為は直接相手を傷つけたわけではないが、確かに相手へ圧力をかけた。
最後に。
あとでそれ以上の大きな結果にならなかったからといって、このことがなかったことにはならない。
安生は帳面を閉じた。
今度は。
少しも気が楽にはならなかった。
むしろ、少し苦しかった。
だが、その苦しさを罰だとは思わなかった。
苦しんでいるだけでは。
何も解決しない。
本当に変えられるのは。
次に同じようなことが起きたとき。
自分がどうするかだけだった。
⸻
翌日。
陳二がやって来た。
手には刀もなかった。
棒もなかった。
一枚の紙だけを持っていた。
それを安生の前に置く。
「張全のところへ行ってきた」
安生は紙を見る。
そこには、当時の木材の取引をもう一度確認した記録が書かれていた。
「お前が作ったのか?」
「うん」
「どうやって?」
「俺が覚えてることを全部書いた」
「それから、売った人間に聞いた」
「いくつか、帳尻が合わなかった」
「三百文は?」
陳二は黙った。
「俺が、本当に勘違いしてたのかもしれない」
安生は何も言わなかった。
陳二はうつむいた。
「俺、昔はずっと思ってた」
「兄弟が助けるっていうのは」
「俺の側に立つことだって」
安生は陳二を見る。
「今は?」
陳二は顔を上げた。
「今は思う」
「俺の側に立ちながら」
「俺が間違ってるかもしれないって言ってくれることも」
「助けるってことなんだな」
安生は笑った。
「それが本当の意味での助けだ」
陳二も笑った。
「じゃあ、あの三百文は」
「どうする?」
安生は首を振った。
「お前が決めろ」
陳二は紙をしまった。
「じゃあ、自分で決める」
⸻
その夜。
安生はまた帳面を開いた。
「張全」の下に。
一行を書き足した。
このことには、きれいな結末はなかった。
そして、それを消した。
書き直す。
このことに、きれいな結末は必要ない。
最後に。
こう書いた。
これから同じやり方で物事を処理しない。それだけでも、何か一つ残ったことになる。
安生は帳面を閉じた。
窓の外は、もう静かだった。
川の水は、変わらず流れている。
旧案が終わってから。
安生は初めて気づいた。
本当に調べるのが難しい帳面は。
他人が残したものではない。
自分が残したものだった。
なぜなら、その帳面には。
自分の代わりに説明してくれる人がいないからだ。




