第一百零一章 自分の帳面
旧案が終わってから。
安生は、何日か碼頭へ行かなかった。
用事がなかったからではない。
ただ、突然、何を調べればいいのか分からなくなったのだ。
以前は毎朝目を覚ますと、
今日は誰を探すか。
明日はどの帳面を調べるか。
どの言葉が本当なのか。
どの言葉が記憶違いなのか。
そんなことばかり考えていた。
今は、それが全部止まっている。
かえって落ち着かなかった。
⸻
ある朝。
安平が一通の手紙を安生の前に置いた。
「お前宛てだ」
安生は一目見た。
「誰から?」
「李叔だ」
安生は封を開けた。
中には数行しかなかった。
店の戸は直した。
安生が蹴って壊した、あの戸だ。
新しい板に取り替えたらしい。
李叔は、暇があったら一度店に来て、麺でも食べていけ、と書いていた。
読み終えても。
安生はすぐには何も言わなかった。
安平が尋ねた。
「どうした?」
「何でもない」
「お前、ずっと言ってただろ」
「やることが終わったら、終わりにすればいいって」
「うん」
「でも、いくつかのことは」
「そう簡単には終われないみたいだ」
⸻
午後。
安生は李叔の店へ行った。
戸はもう直っていた。
前より丈夫そうだった。
李叔は帳場の奥で帳面をつけていた。
安生を見ると、
顔を上げた。
「来たか」
「うん」
「麺、食うか?」
「うん」
安生は腰を下ろした。
麺が運ばれてきても。
二人とも何も話さなかった。
しばらく食べてから。
安生が突然尋ねた。
「戸、いくらかかった?」
李叔が安生を見る。
「どうした?」
「弁償する」
李叔は笑った。
「前にも払っただろ」
「あのときは金を渡しただけだ」
「戸は?」
「戸はあとで自分で直した」
安生はうつむいた。
「じゃあ、もう一度払う」
李叔は受け取らなかった。
「今、お前に金があるのか?」
「ない」
「じゃあ、いい」
安生が顔を上げる。
李叔はそのまま麺を食べていた。
「これからは戸を蹴るな」
「それだけでいい」
安生は何も言わなかった。
しばらくして。
小さく頷いた。
「分かった」
⸻
帰ろうとしたとき。
李叔がふいに呼び止めた。
「安生」
「ん?」
「お前、最近ちょっと変わったな」
安生は少し考えた。
「そうかもな」
「前のお前がここへ来るときは」
「金を借りるか」
「借金を取り立てるかだった」
「今はどうして昔のことばかり聞く?」
安生は少し笑った。
「前は」
「最後に片がつけば」
「途中でどうしたって構わないと思ってた」
李叔が安生を見る。
「今は?」
「今は」
「途中も、数に入ると思う」
李叔は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
⸻
夜。
安生が家に戻ると。
母親が服を整理していた。
安生を見ると尋ねた。
「最近、よく外へ出るね」
「借りを返しに行ってる」
母親は少し驚いた。
「誰に金を借りたの?」
「金じゃない」
「じゃあ、何?」
安生は少し考えた。
「昔、他人に借りたものだ」
母親には意味が分からなかった。
それ以上は聞かなかった。
ただ、一枚の服を安生に渡した。
「これ、畳んでくれる?」
安生は受け取った。
ゆっくりと畳んだ。
⸻
翌日。
陳二がやって来た。
相変わらずだった。
家に入るなり、
「安生!」
「行こうぜ」
「どこへ?」
「飲みに行く」
安生は首を振った。
「やめとく」
陳二は呆れた。
「お前、いつから酒を飲まなくなった?」
「最近だ」
「何かあったか?」
「何もない」
陳二は腰を下ろした。
「じゃあ、付き合えよ」
安生は彼を見る。
「何の用だ?」
「別に」
「じゃあ、行かない」
陳二は眉をひそめた。
「お前、最近どうしてそんなに面倒なんだ?」
安生は少し笑った。
「昔、俺も人に同じことを言ってた」
「今度は俺が聞く番になっただけだ」
陳二には意味が分からない。
「結局、行くのか?」
「用があるなら、先に言え」
「何もないなら、行かない」
陳二はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「本当に変わったな」
安生は否定しなかった。
⸻
数日後。
陳二がまたやって来た。
今度は安生を外へ誘わなかった。
ただ、戸口に座っていた。
安生が尋ねる。
「どうした?」
「この前な」
「また人と殴り合いになりかけた」
安生が見る。
「何で?」
「金を返してくれなかった」
「いくら?」
「二百文」
安生は何も言わなかった。
陳二はうつむいた。
「前なら、すぐ行ってた」
「でも、お前が前に言ったことを思い出した」
「『俺の代わりに決めるな』って」
「だから、行かなかった」
安生が尋ねる。
「それで?」
「自分で会いに行って話した」
「月末に返すって」
「信じたのか?」
「分からない」
安生は頷いた。
「じゃあ、月末まで待て」
陳二が顔を上げる。
「返さなかったら?」
「そのときまた考える」
「逃げられたらどうする?」
「怖い」
「じゃあ、どうするんだ?」
「少なくとも今回は」
「お前自身が決めたことだ」
陳二は笑った。
「その言い方、なんか変じゃないか?」
安生も笑った。
「俺も前は、そう思ってた」
⸻
夜。
安生は久しぶりに古い箱を開けた。
中にはまだ、いろいろなものが残っていた。
賭け事の借用証。
誰かに頼まれて残した紙切れ。
もう効力のない借用書。
それから、昔、誰かの伝言を代わりに伝えるために書いた紙も何枚かあった。
安生は一枚ずつ目を通した。
覚えていないこともあった。
だが、そこに書かれた字は、確かに自分のものだった。
名前さえ忘れてしまった人もいる。
それでも。
そこに書かれた言葉を、自分が誰かに伝えたことだけは確かだった。
その出来事を、自分がやったことも。
確かに残っている。
⸻
安平が戸口に立った。
「また何を見てる?」
「自分の帳面だ」
安平が入ってきて、一枚を見る。
「まだこんなものを残してたのか?」
「昔は、何とも思わなかった」
「今は?」
安生は首を振った。
「今は」
「俺が覚えてないからって」
「なかったことにはできないと思う」
安平は何も言わなかった。
安生はその中から一枚の紙を取り出した。
「この人」
「昔、陳二の代わりに借金を取り立てに行った」
「そのあと、あの人の家で何かあって」
「俺、あいつを怒鳴ったこともある」
安平が尋ねる。
「どうするつもりだ?」
「分からない」
「じゃあ、どうするかを急いで決めるな」
安生は頷いた。
「うん」
⸻
安生はすべての紙をもう一度整理した。
破りもしなかった。
燃やしもしなかった。
ただ、二つに分けた。
一つは、
人から借りているもの。
もう一つは、
自分が人に負っているもの。
安平が覗き込んだ。
「お前、こんなに借りがあるのか?」
安生は笑った。
「今まで数えたことがなかった」
「今になって、数えてみた」
「返せないものもある」
「じゃあ、どうする?」
安生はしばらく黙った。
「返せるものは返す」
「返せないものは」
「これから、もう借りない」
安平は頷いた。
「それなら、少しは人間らしいな」
⸻
数日後。
安生はまた碼頭へ行った。
事件を調べるためではない。
ただ、仕事を探しに来ただけだった。
誰かが尋ねた。
「お前、前はあの古い事件を調べてたんじゃなかったか?」
「終わった」
「何が分かった?」
安生は少し考えた。
「いろいろだ」
「じゃあ、誰が一番悪かった?」
安生は答えなかった。
しばらくしてから。
「分からない」
その男は笑った。
「そんなに長く調べて、誰が悪いかも分からないのか?」
安生も笑った。
「いくつかのことは」
「必ず一番悪い人間を見つけなきゃいけないわけじゃない」
「次に同じことが起きたとき」
「どこで、同じやり方をしてはいけないのか」
「それが分かればいいこともある」
男には意味が分からなかった。
それ以上、何も聞かなかった。
⸻
夕暮れ。
安生は一人で川辺を歩いていた。
以前、この川を見ていると。
川の水は、いろいろなものを流してしまうのだと思っていた。
今になって分かった。
川は確かに物を運び去る。
だが、帳面までは流れていかない。
名前も。
自分がやったことも。
消えてはいかない。
ただ、人は少しずつ忘れていく。
だからこそ。
誰かが記録を残しておかなければならない。
⸻
安生は懐から新しい帳面を取り出した。
まだ何も書かれていない。
最初の頁を開く。
そこに書いた。
安生の自分の帳面。
その下には。
数字もなかった。
名前もなかった。
ただ、一文だけ。
「今日から、自分がしたことは、自分で記す。」
安生は帳面を閉じた。
そして川岸を歩き続けた。
今度は。
誰も、彼が誰を調べるのか待ってはいない。
次に何を探せとも、誰も言わない。
そのとき初めて。
安生は本当に分かった。
これから調べるべきものは。
古い倉庫の中にも。
他人の帳面の中にもない。
自分の手の中にある。




