第一百章 最後の一頁
安生が最後に探すことにした人物。
それは周長順ではなかった。
老高でもない。
許文成が生前、最後に一緒に飯を食った人物だった。
孫福の息子が教えてくれた。
その人の名は。
赵德全だった。
安生は一瞬、言葉を失った。
「また、あの人か?」
「親父が言っていた」
「六月十二日の夜、許文成が飯場に来たことがある」
「赵叔としばらく一緒にいたそうだ」
⸻
安生が赵德全を見つけた時。
彼は川辺で漁網を干していた。
許文成の名を聞くと。
手を止めた。
「とうとう、ここまで来たか」
安生が尋ねる。
「前から知っていたのか?」
「何を?」
「許文成が六月十二日の夜に来たことを」
赵德全はしばらく黙った。
「来た」
「何を言った?」
「もう帳面をつけ続けられない、と言っていた」
安生はすぐには追及しなかった。
「どういう意味だ?」
「俺もその時、聞いた」
「すると、あいつは言った」
「記せないわけじゃない」
「今までと同じやり方では記せない、と」
安生が顔を上げた。
「それは本人の言葉か?」
「だいたいは」
「それとも、お前の解釈か?」
赵德全は長い間考えた。
「前半は本人の言葉だ」
「後半は、確かじゃない」
安生は頷いた。
「じゃあ、確かなほうを言ってくれ」
赵德全はもう一度、記憶を辿った。
「こう言っていた」
「今日のこの一件は、元の帳面には入れられない」
安生は黙った。
「ほかには?」
「こうも言った」
「これから誰かに聞かれたら、見ていないと言え」
「誰に聞かれたら?」
「分からない」
「なぜ?」
「それも分からない」
「周長順の名前は出したか?」
「出していない」
「沈川は?」
「出していない」
「南貨は?」
「言っていない」
安生が尋ねる。
「じゃあ、なぜ六月十二日のあの荷のことだと思った?」
赵德全は安生を見る。
「翌日、王家が南布を米と相殺したという話を聞いたからだ」
「それで、二つを結びつけた?」
「ああ」
安生は頷いた。
「なら、許文成が言っていたのが、あの二包の荷だったとは証明できない」
「そうだ」
⸻
安生は彼の隣に座った。
「赵叔」
「ん?」
「どうして今まで教えてくれなかった?」
赵德全は答えなかった。
長い間黙ってから。
ようやく言った。
「俺も怖かった」
「何が?」
「自分の記憶が間違っているのが怖かった」
「それに、もし間違ったことを話したら。」
「俺も当時、何かに関わっていたと言われるかもしれない」
安生は川面を見た。
「当時、お前は関わっていたのか?」
赵德全は首を横に振った。
「分からない」
「だから、ずっと黙っていた?」
「ああ」
安生は責めなかった。
ただ尋ねた。
「じゃあ、今になって話すのはなぜ?」
赵德全はため息をついた。
「お前がここまで調べたからだ」
「これ以上言わなければ。」
「本当に、誰も知らなくなる」
⸻
戻ったあと。
安生は今日聞いた証言を書き留めた。
そして。
筆を止めた。
その数行を見つめる。
初めて分かった。
この事件で最も簡単に犯してしまう間違いは。
「元の帳面には入れられない」
という言葉を。
「誰かが隠すよう指示した」
と理解してしまうことだった。
だが、この二つは。
完全に同じではない。
「元の帳面には入れられない」
それは。
その荷がもともと臨時処理だったからかもしれない。
正式な手続きが足りなかったからかもしれない。
あるいは。
誰かが正式な帳面に入れたくなかったからかもしれない。
三つの可能性。
結果はまったく違う。
そして今のところ。
そのどれも排除できる証拠はない。
⸻
安生は再び許文成の家を訪ねた。
許蘭は父親の残した物を整理していた。
安生は、六月十二日のあの古い紙を彼女に渡した。
「お父さんの字か?」
「今なら、確認できるか?」
許蘭は長い間、紙を見つめた。
「似ている」
「やっぱり、確定はできない?」
「できない」
安生は頷いた。
「もし、これが父親の字じゃなくても。」
「それはもういい」
「どうして?」
「今はもう分かっている」
「六月十二日に、確かに正式な帳面に入らなかった一件があった」
許蘭が尋ねる。
「誰がやったのか、分かった?」
安生は首を横に振った。
「分からない」
「それでも調べるの?」
安生は少し考えた。
「確かめるためだ」
「何が本当なのか」
「何が、後から人々が本当だと思うようになっただけなのか」
許蘭は、それ以上何も聞かなかった。
⸻
許蘭の家を出ようとした時。
彼女が突然、安生を呼び止めた。
「安生」
「ん?」
「父さんには、もう一冊あった」
安生が足を止めた。
「何だ?」
「帳面じゃない」
「何なんだ?」
「父さん自身の覚え書きだ」
「私は、もう捨てたと思っていた」
「でも後になって、古い衣装箪笥の中から見つかった」
許蘭は家の中から、薄い冊子を一冊持ってきた。
表紙はない。
残っているのは数ページだけだった。
安生は受け取った。
六月のページを開く。
六月六日。
何もない。
六月七日。
一行だけ。
河辺で事故。
六月十日。
南貨入る。
六月十一日。
空白。
六月十二日。
空白。
六月十三日。
空白。
六月十五日。
ようやく文字があった。
一行だけ。
「今後、周掌柜が扱う南貨には、必ず原票を付けること」
安生の手が止まった。
「これは、いつ書いた?」
「分からない」
「お父さんは何か言っていた?」
「言っていない」
安生はさらに下を見る。
その後に、もう一行あった。
「原票がなければ、荷主を記さない」
安生が顔を上げた。
「この言葉、前からあったのか?」
許蘭は首を横に振った。
「見たことがない」
⸻
安生は興奮しなかった。
むしろ。
静かになった。
この二つの言葉で。
ようやく一つの部分が説明できる。
許文成は、記せなかったわけではない。
六月十二日以降。
記録の原則を変えたらしい。
原票がなければ。
荷主を記さない。
そして六月十二日の二包の荷には。
荷主を確認できる正式な原票がなかった。
少なくとも。
現在までに見つかった証拠の中にはない。
これなら。
なぜ正式な荷の帳面に入らなかったのか。
その理由の一つにはなり得る。
だが。
それでも証明できない。
許文成が誰かをかばっていたことも。
周長順が意図的に正式な記録を避けたことも。
⸻
安生は冊子を机の上に戻した。
「これ、持って帰ってもいいか?」
許蘭は首を横に振った。
「だめ」
安生は頷いた。
「じゃあ、写させてくれ」
「いいよ」
安生はそこに座った。
一字ずつ。
何も付け加えずに書き写した。
⸻
夕方。
安生はすべての資料を安平の前に持っていった。
安平は長い間、それらを見ていた。
「終わったのか?」
安生はすぐには答えなかった。
「事件の事実なら。」
「だいたい書ける」
「でも、まだ調べ終わってないと思っている?」
「そうじゃない」
「ただ。」
「どうしても分からないことがある」
安平が尋ねた。
「例えば?」
「周長順があの時、実際に何を考えていたのか」
「許文成が、なぜ記したくなかったのか」
「沈川が『先に処理する』と聞いた時、それをどこまでの範囲だと思っていたのか」
「そういうことは、もう誰にも分からない」
安平は黙った。
安生は、最後に整理した紙を机の上に置いた。
「でも。」
「それは、すでに確認できていることを変えるものじゃない」
⸻
安生は読み上げ始めた。
「第一」
「六月十一日、周長順側に一石半の米を借りた記録が確かにある」
「第二」
「六月十一日、東倉七号の南貨が西倉三号へ移された」
「第三」
「六月十二日、西倉三号から二包が出た」
「第四」
「その二包は老高が扱い、馬成が王家へ運んだ」
「第五」
「王家は、その中の南布三反を一石の米と相殺したと記録している」
「第六」
「周長順は『沈家は知っている』『沈家は頷いた』などの言葉を周囲に使っていた」
「だが、沈川が具体的な米との相殺取引に明確に同意したことを示す証拠は、現在のところない」
「第七」
「沈川自身が後になって、荷を米と相殺するために持っていけとは言っていないと明確に述べている」
「第八」
「許文成は六月十二日のこの荷を、正式な荷の帳面に完全には記録していない」
「ただし、それが誰かの指示によるものだと示す証拠はない」
安平は最後まで聞いた。
そして尋ねた。
「じゃあ、最後は何だ?」
安生は紙を見る。
「最後は。」
少し間を置く。
「分からない」
安平は笑った。
「これだけ調べて。」
「最後は、その三文字か?」
安生も笑った。
「三文字じゃない」
「三つだ」
「分かっていること」
「分からないこと」
「そして、証明できないこと」
⸻
夜。
安生は一人、川辺に座っていた。
川は静かに流れていく。
ふと。
最初の頃を思い出した。
みんなが言っていた。
八十両。
沈家のものだという者がいた。
周家のものだという者もいた。
梁成が持っていったという者もいた。
帳房が記録を間違えたという者もいた。
その後。
八十両は五反の南布になった。
五反の南布は、さらに二度に分かれた。
二度の取引は、さらに別々の人間へ分かれていった。
最後に残ったのは。
数枚の古い紙。
何人かの証人の記憶。
そして。
完全には記録されなかった一件の取引だった。
安生は、ふと思った。
「調べる」ということは。
必ずしも。
一つの完全な物語を手に入れることではない。
時には。
どこまでなら話が成立するのか。
そして。
どこから先は成立しないのか。
そこまで分かることなのだ。
⸻
翌日。
安生は最終的に整理した記録を沈砚に渡した。
沈砚は長い間、それを読んだ。
「誰が犯人なのか?」
とは聞かなかった。
「誰が責任を負うべきなのか?」
とも聞かなかった。
ただ。
「一番重要なのは、どこだと思う?」
と尋ねた。
安生は答えた。
「沈川が言った『先に処理する』を。」
「『沈家が米との相殺に同意した』とは書かないことだ」
沈砚は頷いた。
「ほかには?」
「それと。」
「沈川自身が、米と相殺するために持っていけとは言っていないと言ったからといって。」
「周長順が必ず嘘をついた、と決めつけないこと」
沈砚は安生を見る。
「なぜ?」
「証拠がないからだ」
「わざと意味を広げたのか。」
「それとも、その時本当に意味を取り違えたのか。」
沈砚は頷いた。
「じゃあ、この事件をどうする?」
安生は首を横に振った。
「分からない」
「これはお前の事件じゃない」
「そうだ」
「それなのに、なぜここまで調べた?」
安生は川面を見た。
「俺も昔、似たようなことをしたからだ」
沈砚は何も言わなかった。
「誰かが一言言う」
「俺は、その一言より先まで勝手にやってしまう」
「助けているつもりだった」
「でも後になって気づいた」
「人の代わりに決めるということは。」
「自分が何を背負うことになるのか。」
「その時の俺には分かっていなかった」
沈砚が安生を見る。
「だから、ずっと調べていたのか?」
安生は頷いた。
「知りたかった」
「人は、いったいどの段階から。」
「もともとは大したことのなかった一件を。」
「誰にも説明できない一件に変えてしまうのか」
⸻
川辺は静かだった。
沈砚は数枚の紙をまとめた。
「この記録は残しておく」
安生が尋ねる。
「これで十分だと思うか?」
「記録としては。」
「十分だ」
「結論としては?」
沈砚は首を横に振った。
「中には。」
「結論がなくてもいいことがある」
安生は何も言わなかった。
⸻
その後。
南陵の古い河運事件について、記録が改めて整理された。
六月十二日のあの荷は。
最終的に「沈家の許可を得た」とは記されなかった。
同時に。
「周長順が私的に横領した」とも記されなかった。
記録に残されたのは。
ただ一行だった。
「荷の処理自体はおおむね確認できるが、具体的な許可関係については確認できない。」
許文成の記録方法についても。
新たに注記が加えられた。
「正式な荷の帳面と臨時凭証を並行して使用していた。」
灰色の小帳は。
最後まで見つからなかった。
あの破れた凭証の残り半分も。
見つからなかった。
老高は後になって。
六月十二日に二包の荷を確かに扱ったことは認めた。
だが。
誰から取っていいと言われたのか。
そこまでは、もう覚えていなかった。
周長順は。
自分が「沈家は知っている」と言ったことは認めた。
しかし。
「沈家が米との相殺に同意した」と言ったことは認めなかった。
そして沈川には。
もう説明する機会はなかった。
⸻
ここまで来れば。
完全に終わったとは言えない。
だが。
一部を終えるには、十分だった。
後になって安生は。
自分の記録をもう一度整理した。
一頁目。
そこには一行だけ書いた。
「分からないことは、分からないと書く。」
二頁目。
また一行。
「聞いた言葉と、後から理解された言葉は、同じではない。」
最後の頁。
そこには。
結論を書かなかった。
ただ四文字だけを残した。
「それぞれが背負う。」
誰かが誰かの代わりに背負うのではない。
誰かが誰かを代わりに許すのでもない。
ただ。
それぞれが口にした言葉。
それぞれがしたこと。
最後には。
それぞれ自身のものとして残る。
⸻
川は。
変わらず南へ流れていった。
碼頭には、もう新しい主人がいる。
古い倉も、半分は取り壊された。
誰も東倉七号を覚えていない。
西倉三号に、かつて何が置かれていたのかも。
もう知る者はいない。
安生がその場所を通りかかった時。
足を止めなかった。
ただ一度、目を向けた。
そして。
そのまま歩き続けた。
ようやく分かったからだ。
ある出来事を最後まで調べるのは。
憎むべき誰かを見つけるためではない。
これから似たようなことに出会った時。
自分が。
間違った判断をする一歩を。
少しでも減らすためなのだ。




