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8 臆病な虎と悲壮なゴリラ

【2025年7月26日 アンキュラ、パヴル自宅】

『――トラックの運転手は退役軍人だって。彼氏、葬儀屋だから――』

『――ファルトは、うちのレンタカーだと思う。聖マリアの祝日の次の日に――』

『――なんか、GTナンバーやたら見るんだけど。やっぱ教会がらみだと――』

 

 パヴルはiPorta(スマートフォン)をベッドに投げ出し、仰向けに寝転がった。目新しい情報はない。

 GT(保安庁)が動いてる。とりあえずズィと話したかったが、メッセージを送っても返信がない。

 起き上がり、配信デスクに座ってスペクルム(秘匿ビデオチャット)を起動する。ズィにチャット招待を送信。反応なし。

 あのおっさん、まだ遺族のとこかな。

 

 もう一度メッセージを送ろうと、iPortaをベッドから拾う。スィビラ(SNS)の通知が来ている。

 

『運転手は退役軍人というか、エキンジ司祭が雇ったプロ』

『エキンジ司祭は内縁の妻との間に娘までいます。司祭なのに』

『エキンジはクズ。コンスタンティノープルで風俗通いは有名』

『風俗もだけど、愛人もいる』

『エキンジが犯人。諸悪の元凶』

 

 全部同じアカウントだ。プロフを見る。このスィビラを始めた日付が昨日。スィビルス(ツイート)はエキンジのことばかり。怪しい。個人的な恨みか、エキンジを嵌めようとしてるのか……それとも、真実か。

 なにか話題性の高い事件が起こると、必ずこういうやつが現れる。だが、単なる誹謗中傷と決めつけるのはまだ早い。

 デスクトップのモニターを睨みながら考える。

 

 GTと、スィビラの不審なアカウント。どちらも昨日から。決めつけるのは早いかも知れないが――

 モニターの画面が切り替わった。ズィが不在着信に気づいて、かけ直してきたのだ。

 

 緑色の応答ボタンをクリックする。数秒待つと、ズィの顔が大きく映し出された。ちょっと疲れた表情をしている。

「パヴル」

「貴様、何者だ」

 一昨日、ズィに言われたセリフをそのまま返す。待たせた罰に、ちょっといじめてやりたかった。

 

「コードネームを名乗れ」

「パヴル。疲れてるんだ――」

「お前が本物だという証拠を見せろ」

 パヴルは、チャット画面のズィの名前の横のオレンジのアイコンをクリックする。ズィのIDと、"指紋"というスペクルム独自のパスワードが表示された。40字の英数字の羅列。

「指紋を照合する」

「指紋?そんなもんどうやって――」

 ズィが自分の指を見ている。うんざりして。

 

「指のことじゃない。お前のデバイスの指紋だ。"設定"を開け」

「どういう――」

「早くしろ。確認できなければ強制終了する」

 ズィはため息をつき、太い指でiPada(タブレット)を操作し始めた。

 

「設定……」

「"プライバシー"から"セキュリティナンバー"を開け。そこに書いてある」

「プライバシー……セキュ――」

「もたもたするな!」

 だめだ。笑ってしまいそうだ。

「あった。え〜と……E、Edirne、P、Pazar、……」

 ズィは軍人らしくフォネティックコードで読み上げ始めた。パヴルはついに吹き出した。

 

「ズィ!ズィ。わかった、もうOK。そのクソ真面目さで本物だとわかったよ」

 ズィは読み上げをやめた。ポカンとした顔が、だんだん恐い顔になっていく。

「貴様……からかったな?2度と俺を嵌めるなと――」

「ごめんごめん。つい。で、どうだった?」

 ズィは大きなため息をつき、両手で顔を覆って目を揉んだ。本当に疲れているようだ。だが手を下ろすと、フッと自嘲気味に笑った。


「パヴル。お前にはイライラするが、同時になぜか気が休まる。変なやつだ」

「そりゃどうも。褒め言葉と受け取ってあげるよ。葬儀は?だいじょぶそ?」

「ああ。アイシェ・デミルの付き添いで行くことになった」

「誰それ?」

「いい。気にするな。息子を亡くした母親だ」

 

 ズィが一瞬、微妙な顔つきになった。疲れているのはそのせいか?

「そうか……まあ、良かったんじゃない?潜入ついでに親切もできて」

 微妙な顔つきのまま、ズィは視線を逸らした。何か、別のことがあったのかも知れない。そんな気がした。

 

「……。お前の方はどうだ。新しい情報は?」

「うん。あんまりパッとしないかな。エキンジ司祭へのヘイトが始まりそう」

 エキンジの名前に、明らかに反応した。これまで、2人の会話でエキンジの名が出たことはないはずだ。パヴルはİliş(イリシュ)を起動した。

 

 İlişは、パヴルが独自で開発中の、虹彩解析ソフトだ。人間の瞳の色を決める虹彩(iris)は、瞳孔の大きさを変化させる細かい筋肉の集まりだ。この微細な動きをデジタル解析し、通常とは異なる動きがあればリアルタイムで通知を出す。瞳孔は脳の使用状態を反映すると言われていて、例えば嘘や隠し事をする時、僅かだが拡大するという研究がある。まだ科学的・生物学的にもなんの立証もされていないが、パヴルは確信を持っていた。根拠は、クールだから。

 ソフトもまだ開発初期段階なので、まだ瞳孔の大きさの変化を検知するのが精一杯。解析結果を鵜呑みにはできない。だがヒントにはなるはずだ。

 

 モニターの中のズィの目に、センサーを示す赤いターゲットマークが表示される。10数秒後、「ターゲット・ロックオン」と通知が出る。これで準備はOKだ。早速かまをかけてみる。

「あーあと、そのホテルの車寄せに、GTナンバーがいたっていうスィビルスがあったよ」

 İlişは数秒後、通知を出した。

 『瞳孔拡張率 30%』

 

 うーん。今のは肉眼でわかった。まあいずれにせよ、ズィが強く反応したのは確かだ。İlişがちゃんと動くのも解ったし。

「GTナンバー?俺は見てないが」

 『瞳孔拡張率 15%』

 15%は嘘をついた時だという研究がある。でもなぜ?こんなことで、なぜ嘘をつく?

「そうなんだ。まあ最近GTナンバーはよく見るしね」

 『ターゲットロスト』

 通知とともに、画面の真ん中に赤くてデカいビックリマークが点滅した。パヴルが映画のノリで自分で設定した警告なのだが、邪魔だった。ちぇっ。

 İlişを終了した。まだまだ実用化への道のりは遠い。まあ要するに、ズィは目を逸らした。嘘をついているのは間違いない。なぜだ。

 

 ズィの背後の造り付けデスクの椅子に、軍服の上着がかけてある。その影になって全体像はよく見えないが、なにか黒い筒のような物がデスクに置いてある。先端がこちらを向いていて、六角形の穴が開いている。その隣にあるティーポットとの違和感。ホテルの備品じゃないのはわかるが、昨日はなかった気がした。

 

 パヴルはiPortaでその物体をズームして撮影した。

「なんだ?また新しい情報か?」

「あーごめん。友だちからメッセージ来た」

 適当な返事をして、撮影した写真を画像検索にかける。

 

 『見た目で一致』の最初の画像をタップすると、「B&T」というサイトに飛んだ。モデルガンの商品ページだ。ステーションシックスという銃のモデルガン。軍人であるズィがモデルガン?説明テキストには、第二次大戦時代の暗殺兵器、と書いてある。いや、その現代版の最新拳銃?フランク王国DGSE?

 

「パヴル?」

「あ、ごめん電話来たからまた後で」

 スペクルムからログアウトした。ヤバくね?DGSEだって?

 以前、『あなたが知らないGTの実像』という動画を編集した時に、GTとフランクの諜報機関DGSEの繋がりを調べたことを思い出す。さっきのズィの不審な挙動、暗殺兵器。

 

 パヴルの頭の中で、全てが繋がった気がした。そして、ズィのことが心配でたまらなくなる。兵器のプロ、軍人であるズィが、暗殺兵器という特殊な銃をデスクに無造作に置いている。ズィはGTを怖がっていた。さっきの、返事がなかった空白の時間。つまり、おそらく――

 ズィはGTと接触した。いや、された。そのせいでまだ動揺しているし、隠そうとしている。暗殺兵器を渡された。エキンジの名前にも反応した。

 ズィはGTに、エキンジ暗殺を依頼、または強要された。

 

 飛躍しすぎとは思わない。これはヤバい。エキンジはどうなっても知ったことではないが、ズィを暗殺者にはしたくない。なんとしても阻止しなければ。

 でも……僕に何が出来る?


 

【7月27日早朝 ベルリッツ・ホテル401号室】

 ズィヤは日の出とともに目覚めた。昨夜、久しぶりに酒を飲んだ。バーボンをロックで。おかげで眠れはしたが、まだ少しアルコールが残っている。

 テーブルの上に、空のジムビームのミニボトルと、グラスが2つ。iPadaが2つ。ひとつはタクティカル・ブリーフに立てかけてある。

 

 昨日、パヴルにまた一方的にチャットを打ち切られた後、ズィヤは午後を、GTのiPadaとステーションシックスの、精査と点検にあてて過ごした。


 GTのiPadaは、ロックがかかっていなかった。二番目のファイル、Roggの車内で見せられた他に、続きがあった。

 D-デイは28日、月曜。クルチュ神父の葬儀ミサと埋葬の日。聖テレーザ教会の間取り。周辺の詳細な地図。狙撃ポイント。エキンジの当日の動向。所謂ターゲットパッケージだ。そして、エキンジが首謀者であることの証拠。

 

 横領の手口は、パヴルの推測通り。教会の事業口座に振り込まれるはずの金を現金で受け取り、その穴は慈善口座の小切手をエキンジが個人で振り出して事業口座に入金し、埋める。現金の行く先は、コンスタンティノープルの愛人。セレブのスキャンダル写真のような画像。エキンジが下衆な笑みを浮かべて、派手なホステス風の女の腰に手を回している。

 

 警察が押収したドクターズバッグはやはりクルチュのもので、経理担当だったクルチュがエキンジの横領に気づいて、証拠――小切手帳とノートPCを警察に提出しようとしたので殺した。

 

 実行犯の運転手、カフラマンは、退役後PTSDに苦しみ、神の救いを求めてエキンジのいいなりになった。エキンジが事故直前に、カフラマンとその相棒――事故で口が聞けなくなった助手席の男とやり取りしたメッセージのログ……。

 

 メッセージ。何か引っかかる。頭の片隅で、矛盾を訴える何か。はっきりはわからない。ログを読む。

 タイムスタンプは24日13時49分。事故の22分前だ。

 

エキンジ:クルチュだ。今証拠を持って出て行った。金はいらないらしい。やれ

 

ウラシュ:やれ、とは?尾行しますか?

 

エキンジ:馬鹿か?行く先はどうせ警察だ。その前にやれ


 運転手はタイラン・カフラマン。ウラシュというのは、助手席の男だろう。

 次は14時3分。

 

カフラマン:司祭様。急にそのような事をおっしゃられても、私たちにはできません。お願いします

 

エキンジ:出来ないだと?私の金で食ってるお前たちがか?いいからやれ!報酬は用意する

 

カフラマン:いえ、司祭様には本当に感謝しております。私たちがあるのは司祭様のおかげです。でも人殺しなんて、わたし達には無理です。出来ません

 

エキンジ:お前の事情なんて知るか。お前たちにとって、私は神だ。違うか?神の望みを聞けないのか?


 お前の事情なんて知るか。エラを殺したやつと一語一句同じことを、確かにエキンジは言っていた。単なる偶然。悪党が言いそうなセリフだ。おまけに、神の望みだと?


エキンジ:トラックを借りて来いと言ったのはそのためだ。簡単じゃないか。やったら、鞄を奪って逃げろ


 メッセージはこれで終わりだった。この後、カフラマンはトラックでクルチュを轢き殺し、証拠の入ったドクターズバッグを奪って逃げた。そして壁に激突し、カフラマンも死んだ。

 ギュネルは、エキンジは悪魔だと言った。確かにそうかも知れん。このメッセージが本物なら。吐き気がする。パヴルなら、このメッセージが捏造されたものかどうかわかるかも知れない。

 

 だが……これ以上、パヴルを巻き込みたくない。今なら、俺がGTと接触したことも、エキンジ暗殺を依頼されたことも、そのための銃まで渡されたことも、あいつは知らない。このiPadaは毒入りワインだ。毒を飲むのは、俺1人でいい。


 ファイルを閉じた。もうひとつの、ギュネルがサービスとほざいた画像アルバムのファイルを開く。スワイプして、結婚式の写真を表示させる。

 

 エラ。華やかな笑顔。緩やかに波打つダークブラウンの髪。小さな白い花のティアラ。ウエディングヴェール。目の端にできた笑いじわ。口を大きく開いて、溢れる白い歯。生の喜び。

 目を閉じると、もうひとつの映像が見える。

 

 エラ。窓辺から差し込む暖かい春の光に包まれて、オットマンに足を投げ出し、穏やかな笑顔で読書するエラ。光に透かされて銅線のように輝く髪。結婚式から重ねた8年の歳月が、落ち着きと穏やかさを加えて一層美しい。

 

 D-デイに自分が何をすべきか、はっきりとわかった。


 目を開け、iPadaをテーブルに置く。その隣に、全ての光を吸収するように、ただひたすら黒く、マットブラックの鉄の塊が横たわっている。


 ステーションシックス。グリップを掴んで持ち上げる。バランスが悪い。暗殺銃として消音に特化した結果だ。サプレッサーが重いのだ。グリップは細く、角張って、ズィヤの大きな掌には馴染まない。

 

 後端に、他の銃にはないものがある。ボルトノブ。90度捻って引くと、オイルのぬるりとした手応えとともに、ボルトが引き出される。押し戻す。静かに物を置いた時のような小さな音。

 

 引き金のチェックはしない。ここに指をかけることは絶対にない。もちろん、弾丸も込めない。

 

 太い、椅子の脚のように無機質なサプレッサーを握り、ゆっくりと左に回す。きめ細かいねじ山がするするとサプレッサーを押し出す。外れたサプレッサーをテーブルに置き、続いてボルトノブを捻って再びボルトを引き出し、そのまま抜いてしまう。サプレッサーと並べて置くと、最後にグリップをフレームから外す。

 カチリ。無機質な金属音とともに、忌まわしい暗殺銃は完全にその機能を失い、ただの機械部品に過ぎなくなった。

 

 分解した部品を、タクティカル・ブリーフにしまう。別々に。

 ジッパーを閉めた瞬間、自分の中に潜んだ獣を閉じ込めた気がした。


 タクティカル・ブリーフをテーブルに載せ、iPadaを立てかける。エラの笑顔が表示されたままのiPadaを。

 

 ズィヤはルームバーからジムビームのミニボトルと、氷を入れたグラスを二つ持ってくると、エラの前でボトルを傾ける。

「お前は飲まないよな。わかってるけど、今夜は付き合え」

 誰もいない部屋でそう言うと、グラスを触れ合わせる。

 琥珀の液体を一口啜った時、エラのグラスの氷も、カラン、と返事した。



【同時刻 パヴル自宅】

 パヴルは眠らなかった。昨日、ズィヤとのスペクルムを終了してから今朝まで、パヴルの脳はフル回転し続けていた。

 僕に何が出来るか……史上最大限に、脳を使った。出来る。僕にも、出来ることがある。僕にしか出来ないやり方で。


 スィビラを開いて、スィビルスる。バビュールのアカウントで。

『フキュメットの事故だけど。運転手は死んだみたいだけど、もうひとりは生きてるんだっけ?』

 

 送信すると、あっという間にレスがつく。まだ朝の六時なのに。

『バビュール!動くの?』

『うおおおお!バビュール始動!』

『おもしろくなってきましたね』

『助手席の男ね。うちの病院に入院中』

 

 はいきた。DMを送る。

『バビュールでーす!どこの病院か、聞いてもだいじょぶ?』

 秒で返信。

『え?本物?いゃああああ!マジヤバ!うちの病院に来るってことぉっ!?』

 すぐ続けて追伸がきた。

『取り乱しました、ごめんなさい!私、看護師やってます。大ファンです!ぜひ来て欲しいです!うちは、イブン・シーナ病院です!』

 

 パヴルは、助手席の男の病院は既に特定していた。偽情報排除のため知らないフリをしたが、これは本物確定。返信する。

『あざっす!こっそり行きたいんだよねー。協力してくれたら、めっちゃ嬉しい』

 速攻で返信が来る。

『過呼吸なりそう!はい!バビュール様のためならなんでもします!なにからしますか?』

『マジ?やったね!ありがとう!じゃあまず、スタッフさんのシフト表とか貰えないかな?』

 

 返信が途絶えた。まあ、最初から一本釣り出来るなんて幸運はそうあるもんじゃ――

 添付ファイル付きのDMが来た。シフト表だ。iPortaで撮影して送って来た。素晴らしい。

 

 続いてDM。

『届きましたか?あとあと、こっそりいらっしゃるなら、うちの看護師の制服もあります!』

 マジか?ちょっと凄すぎね?まさか罠?ここは考えなきゃ。

『マジマジ?!じゃあさ、打ち合わせも兼ねて、ちょっとビデオチャットできない?あ、今仕事中?』

 

 また途絶える。数分経過。さっきのバビュールのスィビルスには、その後もたくさんのレスがついてる。ダメなら他を――

 返信がきた。

『すみません!ちょっと興奮し過ぎて鼻血が出ちゃってて〜!大丈夫です!ビデオチャットしたいです!今日は夕方からのシフトです!』

 別の意味でちょっと心配になって来た。


 DMに、スペクルムのダウンロードリンクとチャットまでの手順を書いて送った。この限界オタクナースを信用したわけではない。スペクルムを通じて、まずよく観察してからだ。人を見る目には自信がある。夕方からのシフト、ということなら、昼くらいまでに病院に着ければいい。

 

 パヴルはエティメスグト地区の北のオズギュネシュ駅前に、シテ(賃貸共同住宅)を借りて1人暮らしをしている。表の本職が派遣社員なので、第一に交通の便、第二にエーミッター(動画配信者)としてネットの光回線があることを重視した結果だ。家賃はそれなりだが、エーミット(動画配信サービス)の収益が非常に好調なので余裕すらあった。

 

 インウェニ・ハリタ(Googleマップ)で、イブン・シーナ病院までの経路を確認する。オズギュネシュ駅からバシュケントライ(近郊電車)でシヒイェ駅まで45分、駅から病院までは徒歩5分。

 

 スペクルムに通知が来た。『Safiye_xxxがネットワークに参加しました』。

 Safiye_xxxというのは知らないIDだが、タイミング的に限界ナースで間違いないだろう。オンラインを示す緑色のアイコンがついている。いきなりビデオは繋がず、まずメッセージだけ送信。

『バビュルスナースか?』

『バビュルスです。ナースです。イブン・シーナ病院勤務です』

 

 バビュルスというのは造語で、バビュールchのファンネームのことだ。間違いない。

 パヴルは、いつもの配信用の虎のマスクをつけてから、通話ボタンをクリックした。

 画面に、髪がピンクの若い女性の顔がアップになった。目が異様に大きい。ラベンダー色の瞳。目の間隔がちょっと離れ気味で、美人とか可愛いとかいうよりは、とにかく印象的な顔立ちだ。口をポカンと開けている。

 

「バ、バババババ……」

「うん、落ち着こうか?」

 起動させておいたİlişが、彼女の瞳をロックする。

「は、はひ……すみません、信じられない!本物のバビュール様!」

「はい!バビュールでーす。今日もバビュッと噛みつきます!」

 いつもの配信開始挨拶。個人相手に面と向かってやるのは初めてで、ちょっと照れた。

「ううう……嬉しい……もう、死んでもいい……」

「いやいや、死なないでね?これからちょっと手伝って貰わなきゃならないんだから」

 İlişは何の通知も出さない。最初にロックした時に瞳孔が最大拡張状態だったからか。まだまだ改善しなくちゃ。

 

 それにしてもこの子は……GTが仕込んだ囮だとして、ここまでのキャラ付けするか?そもそもGTというのは秘密警察とかよく言われてはいるが、実際には表立って高圧的で、異端者や教皇庁への叛乱分子を権力で頭から抑え付けてくる。昔のゲシュタポみたいな感じで。

 2年前、あの"月の女王"、セレンが首席審問卿になってからは特にそうだ。この限界オタクナースは、GTとはあまりにもそぐわない。信じてよさそうだ。

 

「まず、名前聞いてもいい?」

「は、はい!あたし、サフィーエ・サナルっていいます!」

「サフィーエちゃん」

「サフィ。サフィで、大丈夫です」

「じゃあサフィ。ちょっと待ってね」

 パヴルは、虎のマスクに手をかける。どうせこの虎のまま外に出るわけにはいかないんだし、限界オタクナースを落ち着かせるためにも、早く素顔を晒した方がいい。

 マスクを外した。

「僕は、パヴル――」

「ぐはぁっ!」

 

 突然、サフィが奇声を発して椅子ごと後ろにひっくり返った。すごい音がした。

「ええ?!ちょ、ちょっと、大丈夫?」

「だ……大丈夫、です……すみません、あまりにも衝撃的過ぎて……」

 よろよろと立ち上がり、椅子を直す。そして座り直したが、横を向いて、手までかざしている。

「……あ、あの……あたしみたいなものが、バビュール様の……お素顔……」

「いやいやいや!いいから!大丈夫だから!とりあえず、落ち着こう!」

 

 とは言ったものの、パヴルにはもうひとつ、気になることがあった。サフィがひっくり返ったせいでカメラが部屋全体を映し出したのだが、その部屋はピンクで溢れていたのだ。壁やカーテンはもちろん、天井まで。

 壁にはバビュールの配信画面をスクショして拡大したらしい大きなピンナップが何枚も。特に気になったのは、ベッド(もちろんピンク)の横にチラリと見えた、祭壇らしき一角。写真立て、たくさんの虎のぬいぐるみも見えた。限界オタクの部屋とは、こんなにも……内心パヴルはドン引きしたが、罠や囮じゃないという確信だけは持つことができた。部屋は見なかったことにしよう。

 

 サフィはやっと少し落ち着いてきたようだった。ペットボトルを一気飲みして、息を整えながら椅子に座り直し、うっとりと画面を見ている。

「……バビュール様の、お素顔……ステキ……」

 パヴルは赤面した。顔が火照るのを感じた。生まれてこの方、ステキなんて言われたことは一度もなかった。だが今は、そんなことはどうでもいい。

「その、バビュール様ってのはやめようか。僕はパヴル・エルギュン。パヴルでいいよ。」

「パ……パヴー……パヴル、さん。」

「うん、まあ、なんでもいいや。でね?本題に入って大丈夫?」

「はい!もう大丈夫です!」

 そう言ったサフィの鼻から、つーっと鼻血が垂れた。


 またひと騒動あった後、ようやく今度こそ冷静に話を進めることができた。

「――じゃ゙あ゙、あ゙たしが出勤する゙時、一緒に゙入れ゙ばい゙い゙ですね゙」

 鼻にティッシュを詰めてるせいで鼻声だ。

「うん。あと、ネームプレートを撮影して送ってくれる?こっちで偽造するから」

「はい゙。ネ゙ーム゙プレ゙ートですね゙」

 

 ネームプレートの画像がすぐに送られてくる。撮影角度もきっちり、歪みがない。落ち着いてさえいれば、有能な子だ。看護師だからか。

「いいねー!これなら加工しやすい。ありがとう!あと、待ち合わせどうしようか?」

「はい゙。よ゙かっ゙たら゙、ですけど、シヒイ゙ェ駅じゃ゙な゙くて、その゙二つ先の゙ジェベジ駅ま゙で来ま゙せん゙か?あ゙たしその゙辺に゙住ん゙でて……毎日、歩い゙て通勤してる゙ん゙で。15分くら゙い゙です。途中に゙カフェとかたくさん゙あ゙る゙し。お゙昼だし」

 悪くない。もし仮にGTにマークされてるとしても、病院が目的地じゃないと思わせられるかも知れない。病院までの時間で、いろいろ詳細を煮詰めるにもいい。

 

「OK、いいかも。じゃ、お店決めてくれる?」

 サフィはブンブンと顔を横に振った。鼻のティッシュが飛んだ。慌てて拾いに行く。

「……す、すみません!さっきから変なとこばかり見せちゃって……」

 もう鼻血は止まったようだ。俯いたまま、上目遣いでこちらを見る。

「あの、来ていだだくんですから、駅までお迎えに行きます」

「そう?じゃあ、そうしよっか。えーと……」

 

 インウェニ・ハリタでバシュケントライの時間を調べる。

「――ジェベジ着11時36分。どう?」

「はい。それならちょうどいいです。よろしくお願いします」

「お願いするのはこっちだから。ほんとありがとう!じゃあ後でね!」

 パヴルはスペクルムを終了した。それから、深くため息をついた。

 

 ズィ。これは、ズィのためだ。僕の出来る限りの全力で、ズィが暗殺者になるのを阻止するんだ。

 改めてそう決意を固めながら、パヴルはなぜか、頬が緩むのを止められなかった。

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