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7 月は無慈悲な夜の女王

【2025年7月26日 コンスタンティノープル、アヤソフィア】

 ローマ共和国の起点であり、カトリックの聖座であり、この国の首都、コンスタンティノープル。北に濃紺の黒海、南にエメラルドブルーのマルメラ海、2つの海を繋ぐリボンのようなボスポラス海峡の南の玄関、ハリチ湾の西岸に、周囲を圧倒する正方形の城壁に囲まれて、アヤソフィア大聖堂が鎮座している。

 

 正午。街中の教会の真鍮の鐘が、一斉に鳴り響く。乱打された鐘の音が、渦となって轟く。中でも特に荘厳な、大聖堂に聳え立つ鐘楼の重低音。

 巨大な白銀の十字架。その下で、真夏の陽光を反射して虹色の光を振り撒く豪奢なステンドグラス。全てが現代のローマそのもの、ローマ・カトリック教皇庁。

 

 その壮麗なファサードに至る3連のアーチをくぐり、石畳の道を1人の女が歩いて行く。血のように赤く、金糸の刺繍に飾られたカソック(法衣)を纏い、胸を張って堂々と、大股で。


 ヴェシリア・セレン。36歳。特別使徒保安庁・首席審問卿。

 ダークブラウンのロングヘアを、後れ毛1本も許さないタイトなガリアン・ノット(夜会巻き)にまとめ、10センチのポインテッドトゥ・ハイヒールを含めると、結い上げられた髪の頂点は2メートル近い。その立ち姿はまるで、鋭く鍛錬されたカタナ。美しい骨格を強調したメイクは生きた彫刻。アイメイクは研ぎ澄まされた刃、リップはマットのヌードベージュで、感情を否定している。

 iPada(タブレット)を手に、ヒールがカツ、カツと石畳を叩く。


 ファサードの前に立ち止まる。一瞬の静寂の後、巨大な青銅の扉が自動で、しかし重々しい音とともに開いた。

 再び鐘の音が鳴る中、大理石の床に1歩踏み出すと、ヒールと鐘の音が共鳴し、高い天井に反響する。

 首席審問卿に気づいた司祭や修道士たちが脇に避け、頭を下げて彼女のための道を作る。ヴェシリアは一瞥もくれず、ヒールの音を響かせて礼拝堂の奥へ進む。祭壇の裏の階段を1段1段、ヒールの音が登って行く。登り切った彼女の視線の脇に、教皇インノケンティウス14世との謁見の間があるが、ヴェシリアはこれにも目もくれず、さらに奥へと歩いていく。

 

 回廊の突き当たりには、ここまでの重厚な歴史を否定するかのように、無機質なエレベーターの扉があった。最上階、首席審問卿の執務室に直行する。

 

 執務室は、大きな黒檀の机にデスクトップPCが置かれているだけの、一切の無駄を廃した事務スペースだった。壁を飾る賞状も油絵もなく、衣紋掛けがあるだけ。花はもちろん花瓶もない。ヴェシリアはカソックを脱いで衣紋掛けにかけると、黒革のハイバックのオフィスチェアに座り、デスクトップの電源を入れた。無粋な起動音は消してある。

 

 数10件のメール、業務報告ファイルを記憶し、保存せず削除する。ハイバックに背中を預けると、iPadaを手にした。

 Ancyrae, XXIV-XXVI Iulii MMXXV(アンキュラ、2025年7月24〜26日)と入力し、検索マークをタップし、いくつかのファイルを開いた。

 

 フキュメット通りの惨劇を伝えるニュース動画、ネット記事。警察の事故報告書、検死報告書。いくつかの画像。

 画像を1枚開く。狡猾な表情の白髪の司祭。エキンジだ。興味なさげにすぐ閉じて、次の画像。

 エーミット(動画配信サービス)の配信画面。虎のマスクのバビュール。そして素顔のパヴル・エルギュン。これもチラ見しただけで、次を開く。

 

 チナル・ホテルの防犯カメラのスクリーンショット。あの事故の寸前、ルノーから降りたシスター。

 顔を拡大する。怪訝そうに眉をしかめているシスター。

 ヴェシリアは無表情のまま、その顔を数秒見つめた。それから最後の画像を開く。

 オレンジ色の石壁を背景に立ち、こっちを見ているローマ軍人。

 

 ズィヤ・シムシェキ少佐。41歳。

 2012年〜2014年、第1回イェニ・ハチュル(新・十字軍)従軍。フィリスティン・ゲリラのテロ行為から聖墳墓教会を奪還、保持などの功績により、夜明けの使徒十字章、沈黙の聖痕章授与。帰任後、妻の死を知る。

 2021年、軍事神学アカデミー修了。

 2022年、殉教者業務課長任官。


 ヴェシリアはズィヤの人事ファイルを記憶していた。メッセージアプリを開き、保安庁アンキュラ支局長宛てにメッセージを送信すると目を閉じる。


 妻の死。愛を失い、この男の人生は変わった。彼は神を呪った。


 ヴェシリアはiPadaを置くと、オフィスチェアに深く身を沈めた。防音壁で囲まれた執務室の静寂が、ヴェシリアを包み込む。


「…………うるさいですわ……」


 呟いて、胸に手を置く。白いクレリカルシャツのクールシルクのひんやりとした感触。やはり白い糸で刺繍された、十字架の檻――審問卿の紋章の手触り。その下の、指を拒むような硬い瘢痕と心臓の鼓動。静かだが強く、規則正しいリズム。

 ハイバックにもたれて天井を見上げた。LEDの冷たく、白い光。

 あの時の天井と同じ光。


 24年前、12歳のヴェシリアは、このアヤソフィアの地下の術後回復室のICUベッドに横たわり、天井を見上げていた。バイタルモニターの電子音。人工呼吸器の駆動音。そして、胸の奥から聴こえる心臓の鼓動。


 ヴェシリアは、重症の心筋症を伴う先天性心疾患だった。生きるためには心臓移植しか選択肢がなかった。子どもの身体に適合する大きさの心臓のドナーは必然的に子どもとなるため、ドナーが合法的に現れる確率は非常に低かった。両親は熟考の末、ドナー・ベビーを設けるという選択をした。

 

 ヴェシリアが7歳の時、妹が産まれた。父は妹を姉の命を救うためだけに育て、母は妹を2人目の娘として愛した。それから5年後、姉の心臓が限界を迎えた時、母は妹を救うために遠くへ逃し、姉を救うために自分の心臓を使ってくれと懇願した。

 

 移植手術は延期できなかった。小柄な母と、12歳としては既に高身長だったヴェシリア。父は母の懇願を聞き入れた。母の愛が奇跡をもたらし、心臓移植手術は成功して、ヴェシリアは命を繋いだ。

 母の死によって。


 ヴェシリアが麻酔で意識を失う直前の最後の記憶は、隣の手術室で行われている母の安楽死の気配と物音だった。麻酔から目覚めて、母の心臓を体内に感じながら天井の次に見たものは、回復室の窓越しにこちらを見ている父の、感情のない顔だった。

 

 インターホン・アプリからブッという接続音声がし、ヴェシリアを現実に引き戻した。

「失礼致します、首席審問卿……教皇聖下がお呼びです」

「よろしい。すぐに参りますとお伝えなさい」

 ヴェシリアは返事を待たずに接続を切ると、真紅のカソックで身を固め、執務室を出た。


 エレベーターを降りると、回廊の左手に、扉のないアーチ型の入り口がある。ローマ教皇インノケンティウス14世の、謁見の間。

 このアーチをくぐると、長い回廊の奥の玉座に、教皇が座している。隔てる扉がないのは、教皇の威光は大聖堂全体、ひいてはローマ全土に及ぶという演出でもあった。


 ヴェシリアは歩を緩めることもなく、ヒールを鳴らしてアーチをくぐり、玉座へと続く回廊をすすんだ。空気が少しだけ、冷たく感じる。

 

 回廊の奥、床が数段高くなった座壇に、玉座と一体化しているかのように、インノケンティウスが座っている。両手を預けた肘掛けの先端には、智天使ケルビムの顔が彫られ、前に跪く者の心を見透かすようにこちらを見ていた。

 

 インノケンティウスの目は閉じられていた。

 ヴェシリアは回廊の床の、謁見者が跪くための印で正確に立ち止まると、カソックの床まで届く裾を捌き、上体だけを下げて深く一礼した。そして、許しを待たずに顔を上げ、インノケンティウスを見る。教皇は目を閉じたまま、掠れた声で言った。

「……(Domina)

 

 その声は低かったが、玉座の背の特殊な反響により、まるで耳元で囁かれたように聴こえた。教皇の右手がゆっくり持ち上がり、薬指の指輪が金色に光る。

 ヴェシリアは座壇に上がり、右膝を床に落とす。カソックの裾が扇状に広がり、血の薔薇の花弁のようだ。教皇の右手を取り、金色の指輪に唇を寄せる。

「……立ちなさい、卿」

 儀礼は終わり、用件に入ろう、という意味だった。

 

「猊下」

「……相変わらず、氷のように冷たいな、お前の手は」

 立ち上がってインノケンティウスを直視した。閉じられていた瞼が開いた。その瞳こそ、氷。

「アンキュラの件。お前のその手は、どう始末をつけるのか、聞かせよ。」

「……。承知いたしました。アンキュラ支局長を使います。エキンジ司祭は非公式に処分。パヴル・エルギュンは引き続き泳がせます。シムシェキ少佐は、利用価値があるかと」

「クルチュは?」

 

 ヴェシリアは一瞬考えた。神父か、それともシスターの方か。

「……クルチュ神父は、不運な事故にあいました」

「……。うむ。これだけは心せよ、|卿。お前が守るべきはこの聖座だ。わかっておるな?」

 ヴェシリアは、インノケンティウスの目を見据えた。そして、ほんの僅かだけ、語気に力を込める。

「我が身の全てを、その礎といたします」

 

 インノケンティウスは無言で頷いた。下がれということだ。ヴェシリアはインノケンティウスから目を逸らさずに後退し、座壇を降りると、そこでくるりとターンした。カソックの裾が再び広がり、一瞬、血の飛沫が撒き散らされたようだ。ヴェシリアは流れるように歩き出し、それに合わせてシルクの裾は美しい脚のラインに収束した。来た時と変わらぬ歩調で回廊を進み、そのまま振り返りもせず謁見の間を去って行く。


 インノケンティウスはその後ろ姿を見送りながら、頬杖をつき、僅かに口角をあげた。

 

 ヴェシリア・セレン。月の女王。そう、お前はそうやって、私の光を反射しておればよいのだ。



【同日14時 アンキュラ、聖テレーザ教会】

 アンキュラ市の遺体搬入車に載せられたクルチュの遺体が、聖テレーザ教会に還ってきた。

 遺体搬入車は、若い修道士たちが誘導する中、後退警告音を鳴らしながら、スムーズにバックで門を抜け、オリーブの木とヴィのKelli(離れ)の前を通り過ぎて正面玄関前で停止した。エンジンはすぐに切られ、一瞬の静寂が辺りを包む。

 エキンジは、主任司祭の務めとして、開かれた玄関の中で待っていた。紫色のストラ(典礼布)を首にかけていた。

 

 ヴィは、お父様の建ててくれたKelli(離れ)の前で、いつもの修道衣に身を包み、背筋を伸ばして立っている。

 

 運転手が降り、襟を正した後、静かに歩いて、リアゲートを開けた。低温に保たれていた車内の冷気が白い霧のように漂うが、すぐに消える。

 短いかけ声に合わせて引き出された柩を、ヴィは他の数人の修道士と囲んだ。男たちが全身黒を纏う中、ヴィのコイフだけが白く際立っていた。

 

 ヴィはたった一人だけの遺族として、柩の担ぎ手を務めることを望んだ。右後ろ、頭の位置のハンドルに手をかけ、男たちとともに柩を肩まで持ち上げる。特別な重さが肩に食い込んだ。

 ヴィの身長は、男たちとともに柩を担いでも見劣りしないどころか、むしろ高い方だ。彼女が右列の最後尾を、柩を完璧な水平に保ってゆっくりと歩く姿は、却って周りのものたちの涙を誘った。だがヴィは仮面のように表情を崩さない。

 

 礼拝堂の身廊に、午前中まで祭壇に安置されていた空の棺が置かれている。ヴィたちはその隣に、クルチュの遺体の入った搬入用柩を静かに降ろす。背後で玄関の扉が閉ざされ、礼拝堂にはエキンジと、数人の作業員、柩を担いできたヴィたち、そしてクルチュの遺体だけとなった。

 ステンドグラスを通して、虹色の光が降り注ぐ中、作業員が2つの棺の蓋を開けた。

 

 クルチュの表情は、生前と変わらず穏やかだった。だがその瞼は閉じられ、あの黒い大きな瞳はもう、誰に見られることも、誰を見ることもない。頬の色は蝋。ホルムアルデヒドの人工的な匂いが鼻をつく。

 

 ヴィはクルチュの頬に、顔を寄せた。それまでの無の仮面が、この時初めて崩れた。瞳が潤み、涙が溢れそうになるのを堪えて、眉が歪んだ。

 細かに震える唇が頬に触れる。

 冷たい。

 無機質な凍てつき。

 ついに涙が一滴、溢れて唇に伝い落ちた。その熱でも溶かすことのできない、硬い冷たさ。


「……Ölümün soğukluğundan geçerek evine dönen bu kulunu merhametinle kabul eyle (死の冷たさを経て帰ってきた彼を、あなたの憐れみのうちに受け入れ)……」

 エキンジのレクイエムが、修道士たちの啜り泣き、嗚咽にかき消される。

 

 修道士と作業員がリフティングシートに手をかけ、ゆっくりと遺体を持ち上げた。ヴィはその肩に震える手を添えようとするが、身体が動かない。修道士の1人が、その手をそっと導いた。

 

 クルチュの遺体が、静かに空の棺の白いサテンの上に横たえられる。胸の上の小さな銀の十字架が、僅かに傾いた。ヴィはそれを直そうとしたが、震える指先が弾いてしまう。ヴィを支えてくれていた修道士が直し、それからクルチュの典礼書を柩に納める。

 柩の蓋が、胸まで閉じられる。修道士たちが、遺骸となったクルチュの柩をまた静かに持ち上げてカタファルク(安置台)に載せた。

 

 ヴィは、床に片手をつき、跪いたまま、もう立ち上がることもできなかった。口を抑えた手から嗚咽が漏れた。涙が決壊した。誰も、傍らにいることさえ出来なかった。皆が啜り泣き、エキンジの詠唱は誰にも聞こえなかった。ステンドグラスに彩られた陽の光だけが、ヴィに寄り添っていた。



 ジェイは、そのステンドグラス越しに、アリーの目を通して、スポットライトに浮かび上がったかのようなヴィの小刻みに震える肩を、背中を見ていた。

 いつの間にか、この季節には珍しい雨が降っていた。ロルフの幌の裂け目から、数滴の雨の雫がジェイの顔を濡らした。ジェイは気づかなかったが、その頬を濡らしたのは、雨だけではなかった。



 クルチュの遺骸はそのまま、祭壇の前に安置されて、半世紀近くも勤めていたこの教会での最後の2日間を過ごす。翌日は日曜日で、毎週の主日ミサが行われる。

 クルチュは柩の中で、最後の聖務を果たすだろう。そして、月曜の葬儀ミサが終わると、教会から東へ4キロほど離れた小高い丘の上のジェベジ墓地の一角に埋葬され、そこからアンキュラの街並みを見守りながら、安息する。永遠に。



 遺骸の安置されたカタファルクは、銀糸の十字架が刺繍された黒い布がかけられ、その周りには六本の蜜蝋の蝋燭が灯されて、炎の揺らめきがクルチュの死面を照らしていた。ヴィはその足元に寄りかかり、通夜を迎えた。

 修道士や、シスター・デフネなどの他の教会のシスターたちが、何度かヴィの様子を見に来たり、差し入れにテュルキエコーヒーやスープを運んできた。ヴィはコーヒーをもう1カップ頼み、2つのカップから漂う薫香の中で、無言で父と語り合った。

 

 ヴィの記憶は、最初から教会で始まっていた。それ以前、教会の門の前に捨てられる前のことは、ほとんど何も思い出せない。

 ただひとつだけ、少女の自分が誰かに手を引かれて、どこかに連れて行かれる夢をたまに見るが、それが実際にあったことなのかもわからない。

 これまで生きてきた八千幾日の朝と夜。ここで、父と同じ屋根の下で過ごしてきた。祈り。アスラン道の稽古。お祭り。誕生日。

 

 修道衣の袖のポケットから、あの腕時計を取り出す。針は、あの時止まったままだ。14時11分。ガラスの血の飛沫は、遺品として返却された後にきれいに拭き取った。お父様はいつも、このガラスを磨いていたから。蝋燭の灯りでも、キラリと反射する。

 

『やあ、ヴィ。』

 

 光に包まれ、螺旋階段を降りてくるお父様。

 

 3杯目のコーヒーが冷めるころ、ヴィは遺骸の元で眠りに落ちていた。8時頃、帰宅する前にヴィの様子を伺いにきたシスター・デフネが揺り起こし、ヴィのKelli(離れ)に連れていった。ベッドに寝かされたヴィは、そのまま深い眠りについた。翌朝、いつもより早く目が覚めるまで。


 

【同日夕方 アヤソフィア、首席審問卿執務室】

「よろしい。ごきげんよう。」

 ヴェシリアはそれだけ言うと、スペクルム(秘匿ビデオチャット)を強制終了した。

 相手は、アンキュラ支局長、カアン・ギュネルの運転手だった。全国の官公庁専属運転手組織、『ディルシズ(舌のない者)』の1人だ。より正確に言えば、スパイを全国の官公庁運転手として配置した、ヴェシリア直属の諜報組織である。

 

 もちろんヴェシリアは、公用車のルームミラーなどに設置した隠しカメラを通して全てを見、聴いていた。先ほどのスペクルムは、デジタルを補完する生の情報を得るための、運転手本人からの印象報告だ。

 ディルシズというのは、かつてローマがまだ東ローマ帝国だった800年前の宮廷で、機密保持のために雇われた聴覚・言語障害者達の呼称だった。ヴェシリアのディルシズは障害者ではないが、運転手というのは元来、無口なものだ。

 

 デスクトップモニターの時計を見た。18時20分。今日は20時から、コンスタンティノープル空港拡張計画のレセプション・パーティに出席しなければならない。豪華だが退屈なパーティ。教皇肝入りのプロジェクト。めんどうだが仕方ない。

 

 "d"と名のついたファイルを開く。ツリーから、"kg_250726.ts"を開く。

 ギュネルの専用車の、空の後部座席の映像。停車している。ルームミラーのHDRカメラで録画した動画だ。170度広角レンズで、後部座席が完全にフレームに入っている。デジタル補正をかけて、広角レンズの歪みもなく鮮明だ。

 

 カアン・ギュネルが画面右側に、脚を組んで座っている。顔の正面にiPorta(スマートフォン)を持って、自撮りをしている。視線をiPortaに固定して、顔の角度を上下左右に動かして撮影し、それを確認しながら、眉をしかめたり微笑んだりしている。

 ギュネルの隣、助手席後ろの座席には、がっしりした大男が座っている。ギュネルの方を見ないようにして。

 

「来ました」

 ディルシズの声。運転手として必要な時は喋る。最少限。

 ギュネルはiPortaをしまい、代わりに保安庁の身分証を出しながらドアを開けて、車を降りた。ほぼ同時に、大男も降りた。

 動画を倍速にして飛ばす。

 

 左ドアが開き、ギュネルが乗り込んでくる。続いて反対側のドアから、軍服の男が乗ってきて、座席真ん中に詰めて座ろうとする。

「そのままで構いませんよ?どうぞお寛ぎください。」

 軍服の男はギュネルを見てから、出来るだけ離れようにドアに身体を押し付けた。この男も大男だが、悲しげで賢そうなゴリラ。ズィヤ・シムシェキ少佐だ。

「ケチオーレンのジュムフリエット・タワーへ」

 車が動き出す。ギュネルが観光案内を始める。倍速なのもあるが、身振りが大げさだ。相変わらず。ヴェシリアはシークバーを動かす。

 

 カアン・ギュネル。ヴェシリアは2度、直接会ったことがある。1度目は保安庁に入庁したばかりの頃、研修で行ったアンキュラで。ヴェシリアはまだ20歳だったが、ギュネルを支局ナンバーワンの審問官と紹介されても、何ひとつ学ぶべきものはなかった。覚えているのは、ヴェシリアが1度会った人間のことを決して忘れないからだ。 

 2度目は一昨年、ギュネルがアンキュラ支局長就任挨拶で、このアヤソフィアに参朝した時。派手過ぎるピンクのカソックで、大き過ぎる挙動で、ギュネルなりに精一杯アピールしようとしていたが、滑稽でしかなかった。

 

 もちろん、無能が支局長になれるわけはない。審問官としての実績は優れているし、貪欲な向上心は評価に値した。審問官には変人が多いが、ギュネルは変わっているということにかけては群を抜いていた。イカれている、という方が正確だが、特別使徒保安庁に対して民衆が持つイメージをいい意味で悪くするのに、大いに貢献してくれている。それに、軍人は肩書きを必要以上に重視する。シムシェキの精神を弄るためには、支局長の肩書きは効果がある。インノケンティウスも納得する。

 

 シークバーの指を止めた。iPadaをスワイプしていたシムシェキの指も、ちょうど止まったところだ。結婚式の写真を見ている。画面はこの動画では見えないが、ヴェシリアはiPadaの中身は全部知っている。彼女が用意させたものだから当然だ。

 

 ギュネルはここまで、完璧にヴェシリアの台本をなぞっている。シムシェキの反応も台本通り。結婚式の写真は華やかで美しかった。美しいものは人の心を揺さぶる。愛していた妻を失った男を動揺させるには最適だ。しかも、その前に自分の成長をアルバムで見ているので、シムシェキは当時の感情の昂りを再体験している。

 

「……奥様は、お気の毒でした」

 最初のアドリブ。演技力がないやつに限って、こういう余計なセリフを挟みたがる。心にも思ってないことを口にすると綻びになるが、まだ許容範囲ではある。

 ギュネルは、罠にかかった獲物を観察する捕食者の目でシムシェキを見ている。シムシェキは顔を上げて目を閉じた。選んだ写真が効いている。順調だ。

 

 シークバーをスライドする。

 車が所定位置に停まった。シムシェキの横でウインドウが下がり、眩い光が差し込むが、一瞬だけだ。

「――地獄に見えるかも知れませんな」

 また余計なことを。台本通りに喋っていればいいものを。アドリブが増えてきたのは危険な兆候だ。特にギュネルの場合はただでさえ演技過剰なのに。この男が口にすると、地獄という言葉も陳腐でしかない。


 ヴェシリアはモニターから顔を上げ、さっき動画のシムシェキがしていたように、椅子に背をあずけて目を閉じた。執務室がまた、ヴェシリアの――母の心臓の鼓動に支配される。

 地獄。地獄とは、目に見えるものではない。


 ICUベッドに拘束された12歳のヴェシリアの枕元で、父はヴェシリアの瞳に囁いた。

「ヴェシリア。お前が望んだことだ」

 違う。私はこんなこと、望んだりしなかった。ただ……ただ、死にたくなかった、生きたかっただけなの。なのに、母さんが。

「母さんはあの子を、お前の妹を死なせたくなかった。愛していたからな。お前のことも愛していた。お前が生きたい、死にたくないと望んだから、母さんはこうするしかなかったのだ」

 

 だって……だって!私……私は……怖かった。死にたくない。生きたかった。

「お前は生かされた。母さんにだ。わかるな?だからお前は、母さんの分も生きなきゃならん。お前が母さんを殺したんだからな」

 ……殺した?私が?……母さんを、殺した。違う!私は……

「罪を償うのだ、ヴェシリア。父さんが手伝おう。父さんの言う通りにしていれば、いつか神も赦してくれる。お前は償うことができる。わかったな」

 ……違う!父さん、違うの!私は……

 

 私のものじゃない心臓の音が、強く、低く、身体に響く。聴こえるのはその鼓動と、父の声だけ。恐ろしい声、恐ろしい言葉。その言葉から逃げられない。逃げたいのに。


 目を開ける。執務室の天井、LEDの冷たい光。

 ヴェシリアは再び、モニターに集中した。

 シムシェキが再びiPadaを見ている。2番目のファイル。クルチュ、カフラマン、エキンジ。

 

 クルチュのファイルを読んでいたシムシェキが、妻の事故と重ねて動揺し、スワイプする手が止まる。だが横からギュネルが手を伸ばし、ファイルを先に進めてしまう。嬉々として、早く次を見て欲しそうに。シムシェキが自ら次のファイルを見る方が効果的なのだが。

 

 カフラマン。運転手。エキンジの横領のおこぼれに預かっていた、落ちぶれた退役軍人だ。戦場(フィリスティン)でPTSD。仕事も身寄りもなく、酒よりも神に救いを求めた結果、エキンジに盲従。

「酷い話ですよね。飲酒運転とは」

 またアドリブだ。ギュネルにすれば腕の見せどころとでも思っているのだろう。この後、シムシェキの妻の裁判で被告が吐いた暴言を耳元で囁けば、それだけでシムシェキは落ちるのに。

 カフラマンは酒を飲まないが、司法解剖報告は改ざんしてある。ただ活字で確認させるだけで十分だ。余計な一言が、シムシェキの疑念を呼ぶ。

 

()()()()()()()()()()()!」

 

 ギュネルが頭をくいっと動かしてバリトンで叫ぶ。この言葉自体は非常に効果的だか、囁くだけで充分なのに。まるで雄鶏だ。滑稽な。

「――エキンジは、そう怒鳴りつけたそうです」

 演技に酔うあまり暴走している。エキンジはメッセージでカフラマンとやり取りしていた。ギュネルは自分が最高の演技をしたと満足げだが、演技過剰なだけでなく、これは完全に失言だ。シムシェキの表情には、悲嘆や怒りよりも疑問が浮かんでいる。今の齟齬に気づいたとは思えないが、後でiPadaと照らし合わせたら矛盾は明白だ。ギュネルはやり過ぎだ。調子に乗って。それでも結果は同じだが。


 シークバーを進める。シムシェキは狙撃銃を拒否する。台本通りなら、使い慣れた銃に手を伸ばすはずだった。そう仕向けるためのセリフも、ギュネルに教えておいた。車内映像なので映っていないが、車外から、シムシェキをゴリラが銃で脅したとディルシズから聴いた。これなら、最初から銃を突きつけて無理やり従わせても、同じではないか。品がない。シムシェキに、己の意志でエキンジを処分させるのが狙いだったのだが。


 まあいい。シムシェキはステーションシックスとiPadaは受け取った。ギュネルの役目はそれだけだ。計画(コンシリウム)は順調に進行中。バックアップもある。

 ギュネルの慢心も想定内。

 これ以上慢心するようなら……。


 処分すればいい。

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