6 地獄の道化師
【2025年7月26日】
この日も、ヴィは5時に目覚めた。昨夜はさすがに睡魔に勝てず、早い時間に寝てしまった。
シャワーを浴び、今日は修道衣を着てKelliを出る。足元に注意して。また黒い薔薇が落ちていた。
拾ってデスクに置く。昨日踏んでしまった薔薇の隣に。
ヴィは暫く薔薇を見つめていたが、礼拝堂の掃除をするために部屋を出た。出がけに、コイフからはみ出した髪を直した。鏡を見て。
今日は14時にクルチュ神父の遺体が搬入される。司法解剖が終わり、エンバーミングを施された遺体。礼拝堂の空の棺に入るために帰ってくる。そのあとは弔問客がやってくるだろう。明日27日が日曜日なので、通夜は翌月曜日の予定だった。日曜日の教会は忙しい。
アンキュラ法医学研究所では、午前8時からクルチュの遺体にエンバーミングが施されていた。
前日の司法解剖で判明した死因は肺挫滅、心破裂。その他、多数の内臓破裂、脊椎骨折、脊髄断裂など、轢過による損傷は多数に及んだ。
頭部は顎先に最初に倒れた時の擦過傷があるだけで、ほぼ無傷だった。また、ヴィの腕時計は、倒れた時の衝撃で機械部が壊れて動かなくはなったが、文字盤のガラスには目立つひびも擦り傷もなく、血の飛沫が数滴ついているだけだった。
同じ日にもう1人、司法解剖された男がいた。クルチュ神父を轢殺した後、警察署前の石壁に激突したトラックの運転手。所持していた運転免許証によると、男の名はタイラン・カフラマン、50歳。免許証と一緒に、財布にはローマ軍退役軍人証が入っていた。彼の死因は脳挫滅だった。頭部の半分が欠損していた。
カフラマンの遺体は引き取り手も現れず、エンバーミング処理もされず、当然通夜も弔問も葬儀ミサもなく、2週間の証拠保全期間を経て無縁墓地に埋葬される。
ズィヤはこの日、早朝からフキュメット通りを歩いてみた。警察の現場保全のための通行止めは解除されていたが、観光客のほとんどはアウグストゥス神殿の方へ行ってしまうため人通りは少なかった。
だがチナルホテルの前まで来ると様相は一変した。早朝なのに10数人の人々が、ホテルの前の一角の花束がいくつも置かれている場所で祈りを捧げている。花束は赤いカーネーションが目立つ。カイセル・バクシュの住宅街から歩いてきたのか。カイセル・バクシュには聖テレーザ教会に通う信者が多いらしい。車道の真ん中に、そこだけ色が違う箇所がある。人々はそこでも祈っていた。第一現場だ。
そのまま歩いて行くとアナファルタラル警察署がある。向かいの教習所の石壁に、巨大な爪で引っ掻いたような跡が10メートルほど続いている。第二現場。ここには祈る人の姿も花束もなかった。
ズィヤは壁際から警察署を振り返った。近代的なデザインの4階建てで、周囲の風景には全く馴染まない。数年前に新築されたビルらしい。
白い車が1台、車寄せに停まっていた。玄関から男が出てきて黒いドクターズバッグをトランクに放り込むと、後部座席に乗り込んだ。白い車は音もなく道路に出てきた。RoggのSUV。珍しくはないが高級車だ。ズィヤはナンバープレートが気になった。一般乗用とは逆の、黒地に白文字。政府、軍の公用車両だ。そしてナンバーのアルファベットはGT。このプレートをつける車の所属はひとつしかない。
特別使徒保安庁(Özel Apostolik Güvenlik Teşkilatı)。
ズィヤは腹の底に不穏な違和感を感じた。審問官が警察に出入りするのは別に不自然なことではない。しかし公用車、しかもVIPの車で車寄せに。
白いRoggは電動モーターとタイヤの接地音を残して静かに走り去った。
ズィヤは審問官のやつらが嫌いだった。だが今感じるのは嫌悪ではなく、そこはかとない不安だった。
iPortaが振動した。伍長だ。まもなく警察署に到着いたします。
すぐにダキアが坂を登ってきた。伍長は警察署の前で車を停めると、急いで後ろのドアを開けるため降りようとした。それを制し、笑みを浮かべて言う。
「助手席でいいって言ったろ?」
「おはようございます。すみません少佐、遅くなりました。交通規制が――」
「ああ知ってる。昨日の事故でな。それで、亡くなった神父が知り合いなんだ」
「えっ……それは……ご愁傷様です」
「昔、世話になってな。葬儀に出席することにした。セリミエに報告してくれないか?」
「承知しました。ではそれまで、ホテルにご滞在で」
「ああ、頼む」
「飛行機はキャンセルします」
「ありがとう」
ダキアはカイセル・バクシュへ向かった。
エモ・デミルの母親。息子の戦死を受け入れられていない老女を利用するのは気がひけるが、やむをえない。悪事を働こうというのではない。そう自分に言い聞かせる。
10分ほどで、ダキアはデミル家に到着した。
「車で待っててくれ」
ズィヤがドアを開けて降りようとした時、声がかかった。
「――あらまあ!少佐!」
アイシェ・デミル。一昨日訪れた時とは別人のように元気そうだ。
「こんなにすぐ、またいらしてくださるなんて!エモが喜ぶわ!」
「……アイシェおばさん」
ズィヤは言葉に詰まった。身体は元気そうだが、精神の方はどうか。普段から波があるのかもしれない。
「どうぞ上がって」
玄関のドアを開けようとした。だが、両手が大きな買い物袋でふさがっている。
「私が持ちますよ」
ズィヤが手を差し出すと、アイシェは嬉しそうに笑って買い物袋を2つ、ズィヤに渡した。
「今日はね、たくさん買い物しちゃって!エモが、ナスのドルマが大好きだったの」
過去形だ。
「少佐も一緒にいかが?さあ上がって」
ズィヤはアイシェの後に続いて、2階のSofaに上がった。先日より片付いていて、布団も敷かれていなかった。
アイシェは真っ直ぐキッチンへ行く。ズィヤも買い物袋をキッチンに運んだ。手際よく片付けていく。
「――それは冷蔵庫に。適当でいいのよ」
どうやら今日は調子が良さそうだ。二重の意味でほっとした。
ナスのドルマは美味かった。素朴な味だった。昔よく、エモと兵舎の傍の食堂で食べたドルマより見た目も地味で薄味だったが、いくらでも食べられそうだった。
「――エモもね。毎日これがいい、とか言ってたのよ」
テーブルの上でこちらを見ているエモの写真を見ながら、アイシェはスプーンで肉を避けた。
「――あの頃はね、お肉もたくさん入れて。エモはこれで大きくなったみたいなもんだわ」
朗らかに笑いながら、避けた肉をズィヤの皿に移す。
「食べて食べて!最近はお肉なんて、高くてちょっとしか買えないの。私はもうおばあちゃんだからお肉はいらないから」
恐縮しながら、ズィヤは残さず食べた。その方が喜ぶと思った。食べながら、黙って耳を傾けた。
「――キロ1,000リラよ?信じられない。昔の倍」
これもハチュルの影響だった。スヴェイシュ運河の通行料が、こんなところで人々を苦しめている。
「エモが子どもの頃は、日曜日に毎週作ってやれたのにねぇ。市場でたくさん買い物して。教会の帰りに」
かちゃかちゃと、スプーンの音。
「――そういえば。一昨日、神父が亡くなったのよ。轢き逃げですって。怖い。人なんて、突然死んじゃうのよねぇ」
アイシェはスプーンを置き、エモの写真を手に取った。ズィヤも空になった皿にスプーンをカチャリと置く。
「ご存知の方だったんですか?」
「クルチュ神父?あら、よく遊んでくれたじゃない?子どもが大好きだったのね。捨て子を引き取ったりして。ほら!シスター・ヴェシレ。あの方は、神父の娘さんなのよ?ちっちゃい頃に捨てられてたんですって。教会の門の前に。あんなに立派にお育てになって」
「捨て子を。教会では大変だったでしょうね」
「そうね。でもほら、女の子でしょう?下品なこという人もいたけど。最近は嫌なニュースも多いし……」
聖職者の性的虐待疑惑。ローマでも数年前、7歳の少女の自殺が大きく話題になった。それ以前から、世界のあちこちでそうした疑惑がニュースになっていた。もちろん教皇庁は否定している。
「――でもね。クルチュ神父に限ってそんなことはなかったわ。絶対に。あの方はほんとに誠実で模範的な、神父の鑑。知ってるでしょ?」
アイシェの言葉は信じられた。本当に清廉潔白な神父だったのだろう。
「シスター・ヴェシレが、いい証拠よ。あの方も、クルチュ神父の本当の娘さんみたいに清く正しくて。ちょっとツンツンしてるし、背が高いから怖いっていう人もいるけどね。でも、こんなことになって……」
アイシェは言葉を切った。
シスター・ヴェシレか。ここで会った時は、ただその背の高さが印象的なだけだった。顔もよく覚えていないが、名前は覚えておこう。
「そうだ。あんた、いつまでアンキュラにいるの?」
先程から、アイシェの口調が変わってきている。息子の戦友に対する言葉使いではなくなってきた。ズィヤに親しみを覚えたからというわけではなさそうだ。
「はい。実はちょっと、休みを取ろうかと思ってまして。まだ数日はいるつもりです」
「じゃあ、お願い。神父の葬儀ミサに出席したいの」
これは願ってもない申し出だった。
「ええ。ぜひ。お供します」
アイシェはケタケタと笑った。
葬儀ミサの日程はまだわからなかったので、また連絡します、と言って帰ることにした。階段の降り口で靴を履いている時、アイシェが言った。
「もっとゆっくりしてけばいいのに。でもありがとね、エモ」
一瞬手が止まったが、間違いを指摘したくはなかった。
「じゃあ、お母さん。また」
ズィヤは言葉を選びながらそれだけ言うと、階段を降りて外に出た。
やっぱり、アイシェの精神は壊れてしまっている。息子と混同している。ただの言い間違いではなかった。その前から、少しずつおかしくなっていた。
伍長は言われた通りダキアの運転席で待っていた。
「セリミエ、OKです。公休じゃなく、任務の延長となりました」
「そうか。わかった」
「葬儀の日程がわかりましたら――」
「ああ。デミルの母親も一緒に行く」
「あ、承知しました。それまでは、どうなさいますか?」
ズィヤはその質問の答えは用意していなかった。
「うん。まあ、いろいろ見てみるさ」
伍長はこの答えを観光と受け取ったようだった。ダキアを発進させ、ベルリッツホテルに戻る。
帰り道はフキュメット通りを通らないので、僅か9分だった。その程度の時間では短か過ぎて、伍長はもちろん、ズィヤも気づかなかった。一台の白いRoggのEVの、静かな尾行に。
ベルリッツホテルに着き、ダキアから降りた時、iPortaが振動した。パヴルからだ。
『Çay demledik. Çay soğuyor(お茶を淹れた。お茶が冷める)』
ローマ軍の符牒だ。連絡乞う、至急。という意味だ。ズィヤはもちろん知っていたが、パヴルはネットで見つけたのだろう。至急と言いながら、まだ遊ぶ余裕があるらしい。部屋に戻ったらスペクルムで話そう。
だがホテルに入ろうとして、足を止めた。車寄せに、さっき警察署で見た白いRoggがある。ナンバーも同じ。リアの左右のドアが同時に開き、男が2人降りた。こっちに歩いてくる。審問官。
ズィヤは言いようのない不安を感じ、反射的に逃げようとした。
「――シムシェキ少佐!」
名前を呼ばれて立ち止まる。二度とこれまでの日常には戻れないのではないかという不安。だが俺は任務中の軍人だ。こそこそする必要はない。向き直って襟を正す。2人の内、背の低い方が右手に持ったなにかをズィヤに見せようと、真っ直ぐ突き出している。左手はくの字に腰に当てて。ポーズを決めているらしい。
「特別使徒保安庁です。あなたと話がしたい」
右手で突き出していたのは身分証だった。スリックバックに固めたサンドベージュの髪、銀縁の細めの眼鏡の奥で、ターコイズブルーの瞳が冷徹な光を放っている。シャツもスーツもチャコールグレーだが、血のように赤いタイだけが浮いている。
192センチのズィヤを、今は両手を腰に当て、ふんぞり返って見上げている。痩せぎすだ。骨ばった顔もその印象を強め、ズィヤは髑髏をイメージした。
髑髏が身分証をしまい、右手を差し出す。
「アンキュラ支局長……カアン!・ギュネルです」
カアン、のところで声を張り上げた。それが名前らしいが、いちいち芝居がかった髑髏だ。だが、支局長がお出ましとは。内心の不安が表情に出ていないことを祈りながら、ズィヤは差し出された手を握った。冷たく、細く、骨を直接握ったみたいな感じがした。
「ちょっとドライブしませんか?」
「連行しようってのか?何の容疑で?」
ギュネルは薄い唇を開き、歯茎まで見せて笑顔を作った。
「いえいえ。あなたとお話しがしたいだけですよ?すぐ終わります。アンキュラは美しい街だ。いかがです?観光がてらに」
ギュネルから少し下がった位置にいた男が、スッと前に出た。ズィヤと変わらない体格。背は相手の方が少し高い。断る権利はないらしい。両掌を見せて、抵抗する気はないと伝える。まだそういう段階ではないだろう。
白いRoggの後部座席に乗り込む。ギュネルが左側、ズィヤはその隣に案内される。もう1人乗ると思って詰めようすると、ギュネルが言った。
「そのままで構いませんよ?どうぞお寛ぎください」
体格のいい男は助手席に座った。本当に逮捕や連行ではないようだ。
「ケチオーレンのジュムフリエット・タワーへ」
運転手が無言で車を出した。EV特有の、ヒューンというモーターの駆動音。静かだ。ナビがルート案内を始めている。予め行く先は決まっていたようだ。静音設計の車内では、街の喧騒はほとんど聞こえない。ときたま、クラクションが遠くで鳴っている。
ケチオーレン市は、アンキュラの北に隣接したベッドタウンだ。標高950メートルの高台にある。ジュムフリエット・タワーというのは、ズィヤは名前を聞いたことがあるだけだった。
「ジュムフリエット・タワーはこの辺では1番高い建物でしてね。昨年完成したばかりで。今日はタワーには登りませんが、手前の路上からの景色も素晴らしいんですよ。ぜひお見せしたくて」
「本気で観光ガイドを始めるつもりか?話があるなら早く話したらどうだ」
「まあまあ。目的地までは20分ほどかかります。それまで、こちらをご覧いただきたい」
ギュネルはiPadaを、どこからともなくサッ!と取り出した。そのままの体勢でピタッと止まり、微動だにしない。黒い、何の変哲もないiPada。受け取って画面を見る。
ズィヤの人事ファイルだった。証明写真は殉教者事業部に配属になった時に撮ったものだ。3年前の写真だが、軍に登録してあるのはこれが最新だ。経歴などは見るまでもない。政府の役人、まして審問官なら、手に入れるのは造作もないファイルだ。
スワイプする。明るい画像がフルサイズで表示された。赤ん坊のズィヤ。両親。幼稚園、小・中学校の入学写真。公園の砂場。家族旅行。カッパドキアの洞窟ホテル。教会の前で両親と並んでいる写真。サッカー部の集合写真もある。全部調査済みってわけだ。再び、不安の種が下腹で芽をふく。
ギュネルは車外を流れる街並みをスモーク越しに眺めている。顎に親指を添え、小指を立てて。
アルバムはまだ続いた。高校。サッカー県大会の試合中。キーパーだった。ゴールネットを背景に、なにかを指示して叫んでいる顔。学校で撮ったスナップ。学校行事の写真。卒業アルバムからコピーしたのか。どの写真にも見覚えがある。
高校卒業写真の次は士官学校だ。ここからあとは軍服姿ばかりだろう。結婚式でも――
スワイプする手が止まった。
結婚式。エラとの結婚式。純白のウエディングドレスを纏ったエラ。その隣で中途半端な笑顔を浮かべ、エラを見つめる軍服のズィヤ。もちろん嬉しさで爆発しそうだったが、同時にものすごく緊張していたのだ。
エラは最高の笑顔だった。世界最強の男になった気分だった。エラを妻にしたのだから。
笑顔で瞳は見えないが、ズィヤはその瞳を思い出せる。明るいライトブラウン。涙目じゃないのに、いつもキラキラして見えた。笑うと糸目になったが、その笑顔が美しかった。
ズィヤはもう数年、エラの写真を見ていなかった。もう2度と会えないと知った夜は、誰もいない部屋で遺影を見ながら嗚咽し、結婚式以来の涙を流した。その後もエラのデスクを片付けたり、共通の友人たちと会ったりした時にふいに写真を見せられたこともあった。だが2人の家を引き払い、今の独身兵舎に引っ越した時に箱にしまって以来、なぜかその箱を開けることが出来なくなった。iPortaに保存してあった画像も開けなかった。もう何年振りか。
眼球が熱くなってきて、瞼を閉じた。だがすぐに今の状況を思い出し、目を開いてiPadaをスワイプした。
次の画像はなく、ホーム画面に戻った。
「……奥様は、お気の毒でした」
いつからか、ギュネルの銀縁眼鏡がこちらを見ていた。
「いや」
涙声になりそうなのを懸命にこらえる。
「そろそろ目的地です」
Roggは細い、急な坂を登り始めた。EVモーターの回転数が上がり、駆動音が高音になる。ズィヤは本革シートに背中を、ヘッドレストに頭を預け、再び短い間目を閉じた。
数秒で、軍人としての矜持で冷静さを取り戻す。
Roggがアスファルトの継ぎ目を跨ぎ、ガタンと揺れた。坂を登り切ったらしい。運転手は減速すると、何かを探すように何度か首を振り、すぐにステアリングを切ってRoggを路肩に寄せ、停車した。
ズィヤの側のスモークウインドウがスーッと降りた。運転手が開けたのだろう。ズィヤの眼前にアンキュラ市街の遠景が広がった。空は抜けるように青く、真夏の太陽が照りつけて陽炎が景色を揺らす。燃えるように赤いテラコッタの屋根、白と黒のコントラスト。印象派の絵画のような、鮮やかで熱のある光景。
「目を奪われるでしょう」
背後からギュネルが言う。
「ここは夜景の名所なんですが、私はこの、昼の光景が好きでして。どうです?あのオレンジ、いや赤いたくさんの屋根。私には、溶岩の海のように見えます。これで夕焼けだったら、地獄に見えるかも知れませんな」
地獄か。見たこともないくせに。
「iPadaに、別のファイルがあるんですが。よかったら、見てもらえますか?」
絶景から目を落とし、iPadaを見た。ファイルのサムネイルが2つあり、1、2とナンバリングしてある。2のファイルをタップする。
誰かの身上書。黒いシャツ、白いローマン・カラー。神父だ。額はかなり後退、というかほぼ頭頂部まで髪がないが、その周りをラフな白髪が柔らかく囲み、まだ茶色い太い眉と大きな黒い瞳が、強い意志と優しさを両立している。柔和な笑顔。
ダニエル・クルチュ、聖テレーザ教会助任神父。飾り気のないフォントで記載されている。
スワイプすると、さっきフキュメット通りで見たばかりの情景が表示された。祈る人々、路傍の花束。
2025年7月24日、交通事故死。享年69。死因、肺挫滅、心破裂。さらに、身体の損傷箇所が列記されている。フィリスティンでもたくさんの仲間や敵兵の無惨な屍を葬ってきたが、ここまでの損傷はあまり見たことがない。
ズィヤはニュースなどでこれを知ってはいたが、耳で聴くのと活字で目にするのとでは、過酷さが違った。掌に汗が滲むのを感じ、思わず拳を握る。
活字はまだ続く。
轢死。
同じフォントのはずだが、ズィヤにはその単語が浮き上がって見える。エラ。また眼球が熱くなる。
「悲しい事故ですな。轢き逃げとは……みんなに愛されていた人だったのに」
エラ。エラも誰からも愛されていた。愛さずにはいられない、そんな女だった。
11年前。ズィヤの休暇が終わる前日。イェニ・ハチュルとしてまた戦場に戻る、その前日。エラは窓辺のお気に入りのソファで、オットマンに足を投げ出して本を読んでいた。暖かい春の陽射しが、エラのダークブラウンの髪を明るく輝かせていた。エラは穏やかな微笑みを浮かべて、読書に集中していた。窓の光の中のその姿に、ズィヤは聖母を見た気がした。
次の日、出陣式の後、エラは何かを言いたそうにしていたが、結局特別なことはなく、ただ「待ってるね」とだけ言って泣いた。それがエラとの最後の別れになった。
2か月後に戦争が終わり、帰国したズィヤを待っていたのは、エラが死んだという知らせだった。酔っ払いの車に轢かれて。2週間も前に。
既に葬儀は終わり埋葬されていて、ズィヤを待っていたのは遺影と、その前でエラの両親が嗚咽しながら語った、エラは1人じゃなかったという言葉だった。エラは、ズィヤとの最初の子を身籠っていた。
ズィヤの指が止まったまま、微かに震えているのをギュネルが気づき、手を伸ばしてファイルをスクロールした。クルチュの事故の詳細。轢き逃げしたトラックの運転手は直後に自損事故で死亡。タイラン・カフラマン、退役軍人。司法解剖において、0.25mg/lのアルコールを検出。
何かを握り潰す勢いで、また拳に力が入った。爪が肌に食い込む。こめかみの血管がドクンと脈打つのを感じた。もちろん運転手の顔は、エラを殺した酔っ払いとは別人だ。だがズィヤの脳裏では、2人の顔が重なって見えた。
「酷い話ですよね。飲酒運転とは」
ギュネルが画面をスワイプした。白いアルバ。別の神父が、腕を組み、狡猾そうな表情で映っている。
ビルゲ・エキンジ。聖テレーザ教会主任司祭。
「その男。その男が、まだ酒が抜けていない運転手に、運転を強要したという確かな証拠を掴みました。保安庁の捜査でね。まあ運転手は前夜の酒が残っていたようで、自覚はあった。エキンジに、運転できないとメッセージをやり取りしていました」
ギュネルは言葉を切ると俯いて顔を背けた。かと思うとクイっと頭を動かして、こちらを見るとピタリと止まる。血の色のネクタイが、遅れて揺れたあと、パサっと元の位置に戻った。眼鏡の奥の瞳が光る。それから間を置いて、いきなり声を荒げた。バリトンが車内に轟いた。
「お前の事情なんか知るか!」
ズィヤの心臓が一瞬、跳ねた。息が詰まり、脳がキン!と音を立てた。なぜそれを――
『お前の事情なんか知るか!』
裁判でエラを飲酒運転で轢き殺した男が叫んだ言葉と、一語一句同じだった。被害者質問という制度で、被害者遺族が被告に質問する権利が認められており、ズィヤがその権利を行使した時だった。
なぜ、とズィヤは尋ねた。なぜ俺から、エラと子を奪ったのかと。かけがえのない幸せな未来をと。それに対して、あの男は法廷で叫んだのだ。
『お前の事情なんか知るか!』
神よ。これを望んだと言うのか。なんのために。
「――エキンジは、そう怒鳴りつけたそうです」
ズィヤの手から、iPadaが滑り落ちた。エラの事件のことじゃないのか。だが、こんな偶然があるのか。
ギュネルは身を屈めてiPadaを拾うと、画面を消した。
「シムシェキ少佐。お気持ちがわかります。許せない。でもまだ間に合います。この男を罰することが、我々ならできます。そう思いませんか?」
ズィヤの眼下に、テラコッタの屋根の家々が陽炎に揺れて赤く燃えていた。溶岩。地獄。
「……どういう意味だ」
呟いたその声は、自分の声には聴こえなかった。
「世俗の法では、この男に正しい罰を下すことができません。我々ならできる。神の力で――」
「神などいない。いてたまるか」
ギュネルは目を細めた。口角が僅かに上がる。言葉を続けず、助手席の男に合図した。男は車から降りてトランクを開け、大きな黒いタクティカル・ケースを取り出す。ギュネルがズィヤの身体越しに手を伸ばし、ドアを開けた。男がその片膝にケースを乗せて、ズィヤの前に跪いた。一連の動作が、予め練習したかのようにスムーズだ。
男は片手でバチン、バチンとケースの留金をはじいた。ケースが開く。
銃だった。黒いウレタンフォームに、見慣れたタンカラーの銃が収まっていた。
CNG-90、通称ボラ、ローマ製狙撃銃。フィリスティンで同型を使ったことがあった。馴染みのあるガンオイルの匂い。イエロソリマの教会の鐘楼にいたゲリラの狙撃手を、600メートル離れたビルの影から狙った記憶が蘇る。風があり、時折砂が舞い散る。難しい狙撃だったが、1発で決めた。任務のために障害を排除した。それだけだった。
だが、これは違う。
「一般市民を、狙撃しろというのか」
「……一般市民。便利な言葉ですねぇ」
ギュネルはくつくつと笑った。
「エキンジは、その市民の善意の募金を横領の穴埋めに使っていました……横領した金は、彼の背徳的欲望を満たすために使われた。愛人に貢いでいたのですよ?何千万という大金を……。しかも、それがバレそうになると、隠蔽するために清貧な神父を殺めたのです……自分の手は汚さずに」
iPadaに、クルチュ神父の優しそうな笑顔。
「エキンジは焦っていたのでしょう……手下を怒鳴りつけて、無理矢理人殺しをさせた。何か弱みでも握っていたのかも知れませんねぇ」
スワイプ。エキンジの狡猾な笑い。
「この男は一般市民なんかじゃない……悪魔です」
悪魔か。フィリスティンにはいなかった。
「今ならこの悪魔を倒せます……今なら間に合います」
……今なら。間に合う、か。何にだ。俺を嵌めるのに、か?
ズィヤは、タクティカル・ケースを支えて跪いている男に、きっぱりと言った。
「立て。それをトランクに戻せ」
男がズィヤの肩越しに、戸惑いの目でギュネルを見る。ギュネルが短くため息をついた。外の男が、ケースを持ってトランク後方へ行った。ズィヤは車を降りようとした。その時、背中に硬いものが押しつけられた。
「引き受けてくださらない……そう解釈してよろしいですな?」
トランクにケースをしまった男がズィヤのまえに立った。銃口をこちらに向けて。
Canik TP9 Elite SC。軍支給拳銃だ。ズィヤの脇の下にも同じ銃かある。意識が右手に集中する。
「この下は草木が茂っているんですよ。それはもう鬱蒼と……すぐには見つかりませんな。腐敗の進行も早いでしょうねぇ……なにせこの暑さですし」
相手はもう抜いている。こちらは狭い車内。どう動いても、被弾は免れないだろう。犬死にするのもつまらない。ここはギャンビットだ。
「断るとは言ってない。あの銃じゃ目立ち過ぎるだろ」
ギュネルはニヤリと笑い、ズィヤの背中に当てていた銃をくるっと回し、グリップをこちらに向けて差し出した。
「流石だ……ではこちらの銃はいかがです?」
パッと見、それはモデルガンのようだった。マットブラックで、グリップは四角くて大きく、バレルは長い筒のよう。本物には見えない。
「こんなオモチャで何をさせる気だ?」
またくつくつ笑い。
「ステーションシックスという銃をご存知ですかな?」
即座に思い出した。アカデミーで習ったことがある。第二次大戦で活躍した暗殺銃の現代版。世界一音の小さい銃、と教えられた。
「これがそうなのか?」
「ええ……フランク王国のDGSE御用達でしてねぇ。とてもおもしろい銃ですよ?差し上げます」
「これが、俺の免罪符というわけか」
ギュネルは目を異様に輝かせた。
「素晴らしい比喩ですねぇ!」
ズィヤは両掌を外の男に向けてから、右手をゆっくりと左胸ポケットに動かして、ポケットチーフを取り出した。またゆっくりと向きを変え、ポケットチーフをステーションシックスのグリップにかけ、それを握る。
「いいだろう。だが、お前たちのためにやるわけじゃない」
背後で、銃をホルスターに仕舞う音、そして足音がした。外の男が、助手席に向かっている。
「いいですねぇ!そのプロらしさ。ではこれもどうぞ」
ギュネルがiPadaを差し出した。
「横領の証拠。エキンジのメッセージのやりとり。教会周辺の詳細なデータ。全てここに。アルバムはサービスです」
両掌を、釣り上がった唇の横でヒラヒラさせている。こいつはイカレてる。
ズィヤはiPadaを受け取った。車を降りる。
右手にステーションシックスの重さを、ずっしりと感じる。確か一キロくらいのはずだが、重い。ずっしりと。
「ホテルまで、お送りしますよ?」
「いや、もう結構」
「そうですか。ではご自由に!」
ギュネルは右側に座り直し、ウインドウにニタリ顔を近づけて手を振る。Roggが静かに動き出すと、目だけをズィヤに固定し、まるでピエロの退場のように走り去った。
ズィヤはその場に立ったまま、アンキュラを見下ろす。陽炎にゆれる赤い溶岩の海。銃の重み。
だが、空はどこまでも青い。




