5 Let's Work
【2025年7月25日】
ヴィはいつものように朝5時にベッドを出た。寝ていなかった。眠らなかった。
あの後、救急車の中でヴィも診察を受け、急性ストレス反応とだけ診断され、暴行については不問に処された。
救急車は法医学研究所に直行した。
研究所の待合室で、警官から事情聴取を受けた。
エキンジ司祭が、教会を代表して研究所に駆けつけ、ヴィに付き添った。
事情聴取が終わると、ステンレスの台の上に安置されたクルチュの遺体の確認を求められ、書類にサインした。
エキンジの車で教会へ帰ってきた。
Kelliに帰り、血と砂で汚れたスーツを脱ぎ、シャワーを浴びた。
そしてベッドに仰向けになり、朝まで天井を見上げていた。
朝になっても姿勢はそのままだった。
普段の朝と変わらず、シャワーを浴び、着替えて、礼拝堂の掃除に行った。いつもと同じルーティンを繰り返した。
いつもと違ったのは、鏡を一度も見なかったことだ。
もうひとつ、いつもと違うことがあった。
部屋から出ようとドアを開けた時だ。1歩踏み出した時、クシャッと音がして、自分の足が何かを踏んだことに気づいた。
薔薇の花だった。1輪の黒い薔薇が、ドアのすぐ下に落ちていた。それを踏んでしまった。
ヴィは、特に驚きもせず、その薔薇の茎と、散らばった黒い花びらを拾い上げた。部屋に戻って、デスクの上に丁寧に置く。それから、礼拝堂の掃除をするために部屋を出た。
礼拝堂の祭壇の前には、棺が置かれていた。中はまだ空っぽだった。クルチュ神父の遺体はまだ研究所にあり、明日は司法解剖が行われる予定だった。教会に搬送されるのは、明後日の午後とのことだった。
ヴィはその棺も乾拭きした。表だけでなく、内部の隅々まで。表情はなかった。ただ機械的に手を動かしていた。
蝋燭に火を灯し典礼書を準備しようとして、初めて手が止まった。
今日はエキンジ司祭が司式者だ。昨日までそれはほぼ毎日、何10年も、クルチュ神父の勤めだった。ヴィが終生誓願を立てて正式にシスターになってからは毎朝、クルチュ神父のために、その日のページを開いた典礼書を準備した。
ヴィは暫く典礼書を見つめたまま動かなかった。2階から修道士たちの足音が聞こえてくると、ヴィは典礼書を棺の上にそっと置いた。閉じたまま、そっと。
修道士たちが螺旋階段を降りてきた。ヴィはそのようすをじっと見ていた。最後にエキンジが降りてきたが、ヴィはその後も、もう誰も降りてこない螺旋階段を見つめ続けた。
あれはまだ一昨日のことだ。お父様がゆっくりと螺旋階段を降りてきたのは。
『やあ、ヴィ』
ステンドグラスを通り抜けた陽光が、キラキラとお父様の周囲を照らしていた。オーク材の手摺りも光っていた。全てが光り輝いていた。中でもひときわ、手摺りに乗せた左手の腕時計が、眩しいくらいに光を反射していた。
ヴィはその光が今も実際に見えているかのように、眩しそうに目を細めた。近くにいた修道士が、小声で「シスター」とだけ声をかけた。ヴィは応えず、黙って修道士たちの列の端に並んだ。
エキンジが棺の足元に立った。手には自分で用意していたらしい典礼書を持っていた。
エキンジは棺に向かって一礼し、いつもの朝とは違う祈りを読み上げ始めた。
「……Rab, ona ebedi istirahat ver ve üzerine nurunu parlat……」
ヴィはエキンジの唱句は聞いていなかった。ただじっと棺を見つめていた。
「……Bu korkunç kazaya sebep olanın adalete teslim edilmesi için dua edelim.(この恐ろしい事故を起こしたものが、正義の名の下に裁かれますよう祈りましょう)」
ヴィはエキンジを見た。ヴィはまだなにも知らなかった。エキンジを見る瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
「……Her şeye kadir Tanrı, Peder, Oğul ve Kutsal Ruh sizi kutsasın.(全能の神と、父と子と聖霊が、あなた方を祝福してくださいますよう)」
祝福。それは定型句で、これに関してはエキンジには何の意図も罪もなかっただろう。しかしヴィには、それが呪いのような響きを持って聴こえた。その最後の言葉が発せられる前に礼拝堂を出ていったとしても、たぶん誰も責めたりはしなかっただろう。
だが、ヴィは朝の祈りの儀式を最後まで果たした。その後も、教会の日課を淡々とこなした。いつにもましてきびきびと、背筋を伸ばして。
何人かの修道士は、そんなヴィを見て涙を拭わずにはいられなかった。
ヴィは、一条の涙も流さなかった。
ジェイはこの日、朝からずっと、アナドル文明博物館の駐車場で過ごしていた。アリーも昨日と同じ鐘楼の影で、盗聴器の仕事を文句も言わず続けたが、教会からは祈り以外の声はほとんど聞こえてこなかった。
昨日、救急車がクルチュの遺体を乗せて現場を去った後、警察はフキュメット通りを全面通行止めにし、事故現場の保全に努めていたが、それはこの事故が単なる交通事故ではないことを、暗に語っていた。
ジェイは救急車が走り去るとその場を離れて、歩いてレンタカーを借りに行った。ファルトを取りに警察署に戻るのは、さすがにまずいと思った。
レンタカー店の前まできて、念のためと思い、尻ポケットからiPortaを出し、カード口座の残高を確認した。
ずん、と、腹の底が急に重くなった。堕天使ジェイエルにとって初めての不快な感覚だ。
13,889リラ。ファルトが1か月レンタルで16,500リラだった。金が足りない。現金はゼロ。ジェイ・ロルトが死ぬ前から使っていたカードが頼りだったのだ。
口座の引き落とし履歴をチェックする。先月のiPortaの使用料金、パケット代が、今まで見たことのない金額になっている。使い過ぎなのもあるが、物価高のせいか。その他のちょっとした買い物、食料や日用品を買ったA101での金額も、馬鹿に出来ない額だ。節約していたつもりなのだが。
転生は80年振りで、確かに金銭感覚はズレているかも知れないが……こんなはずでは。
ふと、レンタカー店の陰にある1台の車が目に入った。紺色のロルフ・カブリオレだった。埃だらけでポロポロで、ソフトトップがあちこち破けている。近づいて、運転席を覗く。
「おい」
背後から声をかけられた。
「寝床でも探してんのか?商売の邪魔だ」
太った男。レンタカー店の店員らしい。
ロルフを指差して聞く。
「すみません。これもレンタカー?」
「ああ?こんなボロ車、商品のわけねぇだろ?とっとと出てけ」
「マルティン」
女性の声がした。シスターだ。年配の。
マルティンは明らかに狼狽している。
「シ、シスター・デフネ!こんちは」
「こんにちは、でしょう?マルティン。乱暴な言葉はいけませんと、いつも言ってるでしょう?そちらの方は?お困りではないかしら?」
シスターが、ジェイに慈愛の眼差しを向ける。
「ありがとうございます、シスター。ちょっと、レンタカーを見てただけです」
「マルティン!お客様じゃないの。ちゃんとなさいな」
「はい!ち、ちゃんとなさいます!」
マルティンは突然、CS向上精神に目覚めたらしい。慇懃無礼な態度で、ジェイの接客を始めた。
「へへ、お客様。どのようなお車をお探しで?」
「いや、その……あまり金がなくて。この店で一番安いのは?」
シスター・デフネが、マルティンをじっと見ている。マルティンとしては、一刻も早くこの危機を乗り越えたかった。
「それでしたら、そちらのロルフはいかがでございましょう?そんな見た目ですが、中身はちゃんとなさってますよ?」
マルティンはジェイに話しかけながら、目線はチラチラとシスターを気にしている。この男がシスターにどんな弱みがあるのかは皆目見当がつかないが、ちゃんとなさってる車なら、見た目はジェイにとってはどうでもよかった。
ジェイの表情が明るくなったのを見ると、老シスターはにっこりした。運転席に座ってみた。オドメーターは20万キロ以上回っているが、内装は綺麗だった。
マルティンが助手席に乗ってきて、身振りで車内を説明するフリをしながら言った。
「おい。こんなボロでいいなら使わせてやる。金はいらねえ。もう廃車にする予定だったんだ。車検切れだ。お前の寝床には充分だろ?」
「え?タダで?」
「ああ。だからここで大人しくしてろ。あのシスター、おっかねぇんだよ……ガキの頃から。たまにはいいとこ見せねぇと」
ジェイは本心から、感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ありがとう。君にはきっといいことがあるよ」
「うるせえ」
マルティンはさっさとロルフを降りると、埃を払いながらシスターの方へ歩いて行く。
ウインドウが汚れている以外は、特に問題はなさそうだった。キーはついている。回すと、一発でエンジンがかかった。
マルティンがシスターになにか言いながらニコニコしている。ジェイは二人に頭を下げて、セレクトレバーをDに入れた。ギギッと短い音がしたが、スムーズに動き出す。マルティンの顔色が変わり、何か言いながら追いかけて来たが、ウォッシャーとワイパーで視界を確保しながら、ジェイはレンタカー店を後にした。
アリーはこの車が気に入った。ソフトトップの裂け目から出入りできるからだ。
それから、ジェイはソフトトップが穴だらけのロルフ・カブリオレの試走がてら、買い物に出かけた。
信号で止まるたび、車内をあれこれいじって見る。ルームミラーの上に、AUTOと書かれたスイッチがある。押すと、カタっと小さな音がしてソフトトップが少しだけ動いた。天井の左右にバックルがある。バックルを外してからもう1度スイッチを押すと、モーターの音と共にソフトトップが開く。
電動ソフトトップだ。アリーが驚いて一声鳴く。隣の車の後部座席から、小学生の男の子が、目を輝かせてこちらを見ていた。
フルオープンで走るのはとても気持ちよかった。エンジンも良く回る。髪を乱す風が、天の空を思い出させた。マルティンとシスター・デフネに、何かお礼をしたくなった。レンタカー代も浮いたことだし。ちょうど花屋があった。
フルオープンのまま、花屋の正面の駐車場にロルフを停めた。
(おなか。すいた。
ごはん。かうの?)
アリーが小首を傾げて、嬉しそうなロクツィオを送ってきた。
アリーを車に残して、花屋に入る。
「いらっしゃいませー!」
若い女性店員が、元気に迎えてくれた。
「こんにちは。シスター・デフネをご存知ですか?」
「あら、聖エズラ教会の?」
「……年配の方なんですが……ウルスでよく見かける」
「じゃあ間違いないですよ。贈り物?」
「ええ。優しくして頂いたので」
「素敵!どんなお花になさいますか?それとも、お見繕いしましょうか?」
「ぜひお願いします。花のことはあまり知らなくて。……700リラくらいで出来ますか?」
「お任せください!シスター・デフネは、確か……これかな。リシアンサス。桔梗がお好きなんですよ?色は白ね。あと、麒麟草を添えて」
女性店員は、手際よく花束をまとめていく。白い薔薇のような花弁の、見栄えする花を数本、その周りに小さな黄色い花が連なり、葉の緑が鮮やかな、綺麗な花束が出来た。
「ありがとう。それに、カードを添えられますか?」
「もちろん!こちらにお書きください」
小さな白いカードをカウンターに出し、サインペンを渡される。ジェイはちょっと考えて、カードの真ん中に力強い筆跡で、大文字で、"マルティンより"と書いた。
「こちらは、教会に配達しますか?送料は別になりますが」
「お願いします」
女性店員はニコニコしながら、カウンターの奥に入ってラッピングを始めた。所在なげに店内を見回す。
黒い薔薇が数本、カウンターの横の花瓶に挿してあり、「レア!現品限り!」と書かれたポップがある。
黒い薔薇。
「綺麗でしょ?その薔薇。」
女性店員が、ラッピングを終えた花束を携えて出てきた。
「黒って、不吉なイメージがあるけど……あたしは大好きなの。黒い薔薇はとても貴重だから、お値段はアレなんだけど」
「おいくらなんですか?」
女性店員はすぐには答えなかった。たぶんジェイの風体を見て、この人の買える値段じゃない、と思っているのだろう。
「……1本、2,600リラよ。」
2,600リラ。花束の4倍。6本でレンタカーひと月。アリーのごはん50日分。
「黒い薔薇には……死を忘れるな、という意味があるの。この言葉もいろいろ解釈できるけど。あと、ウルスにある聖テレーザ教会とも縁がある。薔薇つながりね。聖テレーザは、亡くなった時に薔薇の雨が降ったって言う伝承があって。その中に黒い薔薇もあったと思うの。きっと。」
死を忘れるな。ジェイは花瓶のポップの、現品限り!の文字を見た。それから、そこにある薔薇の本数を数えた。5本だった。
「これ、全部ください」
「…………え?」
「おいくらになりますか?花束と合わせて」
暗算が間違ってなければ、足りるはずだ。
「えっと……全部で、14,000リラだけど。配達料込みで」
赤面したのが自分でわかった。配達料を、忘れていた。
「でも、いいわ!配達料はサービス!それで大丈夫?」
「大丈夫です。ありがとうございます。」
カードで支払いを済ませる。それから店の出口まで、女性店員は黒薔薇5本の包みを持って送ってくれた。
「茎を水につけておいてあげてね。長持ちするから。花束の配達は任せて!」
頭を下げた時、初めて彼女の胸に、ネームプレートがあるのに気づいた。
テレーザ。
マルティン、そしてテレーザ。人は、こういう出来事が続くと、『奇蹟』というだろう。『神の思し召し』という人もいるだろう。
それは違う。単なる偶然だ。親父の野郎は地上のことなど気にしていない。
この駐車場に戻って来て、教会の監視を続け、夜になると寝た。
アリーは、ロルフの助手席を占領した黒薔薇の包みを、最初は、これは食べられるものなのかと突っついていたが、ごはんじゃないとわかると、ジェイの耳元でひと声、大声を出して、幌の破れ目から飛んで行ってしまった。思考は何も伝えてこない。こいつには呆れたわ。自分でなんとかしよっと。そんなとこだろう。
今朝には、アリーの機嫌もなおっていた。
昨日はシスター・ヴェシレ・クルチュの事情聴取を盗聴しに行ってもらったりしたので、疲れていたのかも。
彼女の声はほとんど聞こえなかった。おそらく頷くとか首を振るだけで、喋らなかったのだろう。
代わりにエキンジがよく喋っていたが、クルチュの人柄を褒め称えるのと、ドクターズバッグの行方を気にしているだけだった。教会の備品があるはずなので、と。
それより、シスター・ヴェシレ・クルチュの様子が気になった。急性ストレス反応。乖離、麻痺。エキンジにケアは期待できない。明日の朝、残り4本となった黒薔薇の1本を、またシスター・ヴェシレの小屋の前に置いておこう。アリーに頼んで。
教会はずっと沈黙の行をしているかの如く、会話はほぼなかった。昨夜決行予定だった"狩り"は、暫く延期することにした。少なくともクルチュが埋葬されるまでは、控えた方がいいだろう。それは2日後か、それとも3日後か。
"狩り"は獲物と面と向かってじゃないと出来ないし、無関係の人間に見られるのは極力避けたい。教会への侵入経路は、まだ決まっていなかった。
『大丈夫!ありがとう!』
昨日、フキュメット通りの坂の手前で、クルチュに声をかけた時のことを思い出す。あの時強引にでも乗せてやっていれば、彼が死ぬことはなかっただろう。あるいは、尾行に気づいた時に処理していれば。あるいは、彼がエキンジと対決した時に介入していれば。
堕天使といえど、過去をやり直すことはできない。ただ振り返って後悔することしかできない。人間と同じだ。
だが反省はできる。
そして償いも。
【同時刻 ベルリッツホテル401号室】
ズィヤは、またiPadaを睨んでいた。
昨日、ズィヤはパヴル・エルギュンと別れた後、伍長にこのホテルまで送ってもらい、部屋に上がったあとはずっとエーミットを見ていた。
バビュールchの動画は、飛ばし飛ばしながらほぼ全部見終わった。バビュールがエーミッターとしてデビューしてから2年の間に、30近い動画が投稿されていた。そのほとんどは、インノケンティウスや大宮殿についての根拠のない陰謀論で、カッパドキア洞窟の秘密!などというのもあり、ズィヤの見る限りまともな内容の動画はスヴェイシュ運河に関するあの1本だけだった。
だがその1本は、軍上層部や教皇庁の関係者が見たら、驚くほど真実に近い。
ズィヤはiPadaを手に取ると、さっき聞いたばかりのパヴルの番号にメッセージを送った。
『やってみよう』と、ひと言だけ。
それからズィヤは立ち上がって伸びをした。少し外の空気を吸いたくなった。この辺は観光地で、紀元前8世紀に建てられた城や、初代ローマ皇帝アウグストゥスの神殿など、とても古くて有名な建築物が多い。明日は午後の便で帰らなければならない。リフレッシュするにはちょうどいいかもしれない。
パヴルの返信が来た。
『ileri』
ズィヤはiPadaをタクティカル・ブリーフに入れると、歩いてアウグストゥス神殿を見学した。救急車の音がやかましく、歴史に浸るどころではなかったのですぐホテルに戻った。
それからパヴルとメールを交わし、今朝九時からビデオ通話でミーティングをするはずだった。ズィヤは8時半と言ったのだが早過ぎるらしく、9時で妥協したのに、もう1時間も遅刻だ。最初のミーティングからこれだ。メールに添付されていたスペクルムのインストールと設定を四苦八苦しながらなんとか済ませて、こっちは準備万端整えていたというのに。
ズィヤはコーヒーを淹れるため、立ち上がった。途端にiPadaが振動し、画面に着信中の通知が表示された。
ズィヤは首を振りながらソファに座り直し、通知をタップした。すぐに繋がると思っていたのに、画面には、マイクとカメラの使用許可を求める通知が出る。
ため息をついて『許可する』をタップ。やっと、画面中央にパヴルの顔がアップで出てきた。
「おはようハントくん!」
パヴルが陽気に言う。
「ふざけるなと言ったはずだ。この通話は大丈夫なんだな?」
「挨拶くらいいいでしょ?大丈夫。スペクルムのセキュリティは軍事レベル。通話記録も自動的に削除されるしね。あちこちの国の軍や政府機関で正式に――」
「本題に入れ」
パヴルはこちらが口を挟まないと、延々と早口で喋り続ける。動画を早送りして大事なところだけ再生するみたいな感じで会話すれば話が進む。少し扱いには慣れてきた。
「へいへい。昨日、そこのすぐ近くで事故あったのは知ってる?」
「ああ知ってる」
アウグストゥス神殿で聞こえたサイレン。夜になると、ニュースはその事故のことばかりだった。
「轢き逃げと、警察署前での自損事故、だろ?」
「そうそう。神父を轢き逃げしたトラックが、その直後に壁に突っ込んだってやつ。よりによって警察署の真ん前で。」
「また酔っ払いか」
エラの顔が浮かぶ。妻が酔っ払いの車に殺されてから、飲酒事故は目についた。
「いや。違うみたいよ。それに、死んだ神父は、なんと――」
これもパヴルの悪い癖だ。重要な情報を焦らして、ドラマチックに伝えようとする。
「――聖テレーザ教会の……経理責任者!」
「そうなのか?」
なんてことだ。タイミングが悪過ぎる。
「タイミング良すぎだよね?いやあいつらにとってさ。僕たちが調べようと思ったその日に、だよ?」
「事故じゃないというのか」
パヴルは眼鏡を直して下を見る。
「うーん、まだわかんないけどさ。今別窓でニュースとスィビラ見てるけど……ニュースは今んとこ、事故扱い。人を轢いちゃってパニクって自爆したと。でもスィビラは……」
「さっさと続けろ」
「いろんな話しがあるよ。噂。殺人だって言ってるスィビルスもある。オカルトもあるよ?どれから聞きたい?」
「殺――」
「じゃあオカルトからね!」
どれから聞きたい?と聞いておいて自分の話したい順でしか話さない。これもパヴルだ。諦めて黙って聴く。
「実はさ。以前からこれ、一部のオカルト好きは話題にしてたんだけどね。教会に悪魔が出るって話」
「それがどう関係が――」
「2年前くらいからさ。神父が発狂したとか、自殺したとかって事件が何件かあって。アンキュラじゃなくて全国各地で。事件当日に、教会の屋根に悪魔がいたとか、フライングヒューマノイドを見たとかってスィビルスがトレンド入りしたこともあってさ。画像もある」
チャット欄に小さなプレビュー画像が来た。タップすると最大表示されたが、夜の教会の尖塔らしき影が映っているだけだ。
「尖塔の右の影のとこ、拡大してみて。あ、1度閉じたら消去されちゃうから気をつけて」
言われた通りの箇所を指でピンチする。鳥が止まっているようにしか見えない。
「鳥だな」
もう1枚、画像が来た。それもタップする。同じ構図だが、鳥の影が飛び立ったところだ。夜空に黒い影では細部はわからない。
「鳥。カラスだな。これがどうした」
「うんまあね。闇夜のカラスだよね。そんな写真じゃ大きさもわかんないしね。投稿者は、2,3メートルはある巨大な影、とか言ってるけど。ところがさ」
黙って話を促す。パヴルと付き合うと、忍耐力が相当鍛えられそうだ。
「――昨日、警察署前の事故で、デカいカラスを見たって言う警官が――」
「ちょっと待て。警官?」
「うん、うちのメンバーの警官が――」
「警官がメンバーにいるのか?」
パヴルの口が止まった。キョトンとしている。
「そりゃいるよ?職業に貴賎なしって言うでしょ?」
呆れた。というか感心した。こいつのネットワークはすごい。だが考えてみれば、今や誰もがiPortaを持っていて、誰もが手軽に情報提供できる。もちろん情報を集め、選択する側のスキルは高度なものが要求される。こいつは、そのスキルが非常に優秀なのだ。
「で、その警官が言うには、トラックが事故ったのは、そのデカいカラスが突然現れてびっくりしたからじゃないかって。どっかから飛んで来たんじゃなくて、『現れた』って言ってた。そしてすぐ消えたって」
「何かと見間違えたんだろ。目の前で大事故が起きたら誰だって混乱する」
「その警官は、警察署の2階の窓から見てたらしいよ。わりと冷静だったんじゃないかな。それと、事故の直後に、上半身裸の男がトラックから降りてきて、その辺に落ちてたジャケットかなんかを羽織って立ち去ったんだって」
「降りてきた?無傷でか?」
「それはわかんないよね、2階から見てたら。まあ大怪我じゃなかったのは確かだろうけど」
「それで?」
パヴルはペットボトルから何かを飲んで、続けた。
「オカルトは以上。次は、別の警官の……違った、警官じゃないか。職員?証拠保管係みたいなやつ。彼女の話。事故のあと、現場から押収した鞄があってさ」
「待て。警察職員がそんな情報話していい訳ないだろ。確かな情報か?」
「あのね。警官だろうがなんだろうが、人ってのはなんでも話したがる生き物なんだよね。承認欲求ってやつ。しかも匿名だからバレないと思ってるし。こっちは、知りたいことさえわかれば、相手が誰かなんてどうでもいいしね」
その通りだ。情報のソースの信頼性は、その情報が信じられるかどうかを判断する材料に過ぎない。そこにこだわり過ぎるのは本末転倒なのだ。
「鞄の中身は、ノートPCと小切手帳、スマホ、その他。PCとかの内容までは彼女は見てない。まあ仕方ないよね。でもその他の方は……」
「早く言え」
「へへへ。じゃあ言います!聖書!ロザリオ!紫と白のリバーシブルの布!」
神父か。神父の鞄に小切手帳。
「轢かれて死んだのも神父だったな」
「そう!まあ鞄がその神父のものかどうかまでは、まだわかんない。わかんないけど?」
「もしそうなら、強盗殺人か。違うとしても、小切手帳が気になるな」
「お?ちょっと待って」
キーボードを叩く音。
「運転手死んだわ。昨日の時点で意識不明の重体だったから。もう1人は軽傷だけど喋れないらしい」
急性ストレス障害。戦場ではよくある。
「死んだ神父。こっちは即死。名前いる?」
「教えろ」
「神父はクルチュ。ダニエル・クルチュ。トラックの方はまだ身元不明か……もう決まりだね、計画的な強盗殺人」
「ノートPCと小切手帳。その中身がわかるまでは、なんとも言えん」
「トラックのやつらは実行犯。天罰が当たったって感じ?悪魔が罰しても天罰って言うのかな?地罰?」
パヴルは推測を通り越して妄想の域にいってしまっている。
「決めつけるな。死人が出てるんだ。慎重にならんと」
考える。まだ情報が少な過ぎる。時間がいる。
「パヴル。こいつはかなり危険な事件だ。本当にやる気か?保安庁が恐くないのか?」
パヴルはまじまじとズィヤを見る。
「なにを今さら!バビュールは1度喰らいついたら離さないんだから!」
ズィヤもパヴルを見つめ返す。
「本気なんだな?よし」
パヴルはおちゃらけているが、ハチュルで父を亡くしたのだ。殉教者事業部の課長として様々な人々と会い、話をしてきたが、こういうタイプも何人かはいた。内心に抱えた怒りや疑問、悔しさを押し隠す人々。その一方で、保安庁も審問会も恐れていない。
ズィヤは覚悟を決めた。
「それなら、俺からも頼みがある。俺は公休を取る」
ズィヤの言葉に、パヴルは虚をつかれた。……はあ?休みたいならどうぞ?
「俺は今、軍の殉教者事業の任務でここに来ている。今日までだ。セリミエに帰任しなきゃならん」
セリミエは、首都コンスタンティノープルの地名だ。ボスポラス海峡の南口、ハリチ湾――別名ゴールデンホーンの東側一帯のことだが、ローマ軍の中枢、第1軍団司令部がここにあった。ズィヤの現住所であるナイチンゲール兵舎も隣接している。
「はあ。それが?」
「この事件、関わるからには徹底的にやりたい。だから帰任を延期したい。そのために、公休の理由が必要だ。それを考えてくれ」
「ああ。要するに、サボる言い訳?」
ズィヤは短くため息をついた。まあ端的に言えばそういうことだが。
「クソ真面目。まあいいや、そういうとこ、嫌いじゃない。親――」
親父みたいだ、と言いかけた。
「こんなのは?交通事故で死んだ神父の葬式に出たい、昔世話になったからとかなんとか」
「悪くない。ローマ軍は教皇軍みたいなもんだしな。逆に推奨されるかもしれん。だが俺は神父のことは知らん。会ったこともない」
「いやだから、嘘つきゃいいでしょうが。まあバレないよう、カバーストーリー作んなきゃだけど。いいね!スパイらしくなってきた」
「おれはスパイじゃ――」
「任せて!こういうの大好き。潜入捜査!デン、デン、デンデーン!……」
パヴルはスパイ映画のテーマを口ずさみ始める。
「やめろ」
「――クルチュ神父のデータ。簡単」
キーボードを叩く音。すごいスピードだ。
「はい見っけ」
チャット欄にURLが貼られた。タップすると、聖テレーザ教会のウェブサイトが開いた。「About Us」。シンプルなテキストだけのページだ。
ダニエル・クルチュ神父。生年月日。経歴。
「もうちょっと、個人的なデータはないか?」
「信者のメンバーに聞いてみるよ」
また高速タイプ音。
「返信来たら転送するね。まあでも、家族になりすまそうってんじゃないんだから、表面的なことさえ知っておけば大丈夫。あんたの仕事もちょうどいいし。あんまり知らなくても違和感ないと思う。遺族で神父のこと知ってる人に聞けば?それでいけるっしょ」
エモ・デミルの母親をあの教会に連れて行ったことがあったのを思い出した。
「ああ。そうしよう」
「おっとまた新情報。トラックはレンタカー。それと、警察署の駐車場に……ファルトのレンタカー。エンジンかかりっぱなしで放置?」
ズィヤには無関係に思われたが、パヴルには引っかかるものがあるらしい。
「事故の直前から……気になるなあ」
タイプ音。合間を縫ってiPortaも操作し始めた。
「パヴル。……パヴルー」
「はいはい。ちょっと待って……」
こちらを見ない。
「――あー、ちょっと忙しくなってきた。また後で話しません?」
「そうか。わかった。俺は遺族とアポを取る」
「はいはーい。あ、そうだ。あんたのこと、なんて呼びます?」
「何でもいい」
「――んー、少佐。シムシェキ少佐。舌噛むな。ズィヤ。Z。ズィ」
1人で喋っているパヴルをほっといて、伍長にメッセージを打つ。
「Z。うん、コードネームっぽい。決まり。では任務を開始せよ。なおこのメッセージは、自動的に消滅する」
パヴルは真顔で言うと、ログアウトした。




