4 フキュメット通り
【2025年7月24日】
クルチュが教会を出る六分前、ヴィは連合センターへ行くため、教会を出た。午後はアスラン道の指導があるので、修道衣ではなく黒のパンツスーツに着替えていた。ヴェールとコイフも外しており、一見するとシスターには見えないが、胸元には銀色の十字架が目立つ。時刻は13時45分だった。
ジェイはクルチュとエキンジの会話を聴きながら、ヴィが気の進まなそうな足取りで教会を歩き去るのを見ていたが、6分後にクルチュも出掛けると、後を追うことにした。
(アリー。クルチュを追って)
教会の屋根でじっとしているのに飽きていたアリーは、喜び勇んで舞い上がった。
ジェイはファルトの運転席で、アリーの映像を注視する。
クルチュは、外出着に着替えもせず、黒いクレリカル・シャツにローマン・カラーの、一目で神父とわかる服装だった。右手に黒いドクターズバッグを持っている。
その日の朝、ヴィがアチュマを買い、ジェイがiPortaを見ていたあのカフェのテラスの前を通り過ぎる。白いビジネスシャツの男がテュルキエコーヒーを啜っていた。
アリーが旋回する。白シャツの男もiPortaを見ていたが、クルチュがカフェの前を通り過ぎると、iPortaを胸ポケットにしまってグレーの上着を羽織り、黒いスポーツ・サングラスをかけて席を立ち、クルチュと同じ方向に歩き始めた。
ジェイは、iPortaでインウェニ・ハリタを見た。教会での会話、その後の行動から推測すると、クルチュはエキンジの説得を諦め、たぶん横領の証拠を持って公的法執行機関に訴え出るつもりだ。
再びアリーの映像に意識を移すと、クルチュは今のところ、コンヤ通りを北に向かって歩いている。このまま歩いてアナファルタラル大通りを渡り、細いフキュメット通りを登ると、終点にアナファルタラル警察署がある。規模も大きく、金融犯罪捜査の専門部署もある。クルチュはここに向かっていると思って間違いない。
大人の足で15分ほどの距離だが、クルチュの年齢と今の速度を考えると20分弱といったところか。アンキュラにもタクシーはあるが、この時期は観光客が多くて捕まらないし、この辺は一方通行も多いので、混み具合によっては歩くより時間がかかる。夏の午後、朝の天気予報は大外れで、雲ひとつない快晴の下ではかなり汗をかきそうだが、歩くのが正解だろう。
クルチュの7メートル後方を、サングラスの男が歩いている。クルチュが足を早めるとその男も早め、クルチュの速度が落ちると男は足を止める。尾行している。
ジェイはファルトのエンジンをかけると駐車場を出た。加速する。クルチュがアナファルタラル大通りに出る前に、先回りするつもりだった。
ヴィは、連帯センターで朝と同じルノーに乗り込んだところだった。午後は、今朝最初に訪問したデミル家の少し先にある、ビジム・エヴに行き、そこに集まってくる子どもたちと過ごす予定になっていた。
ビジム・エヴは、ハチュルやその他の様々な理由で孤児となった子どもたちが、学校が終わったあとの時間に孤独にならないよう、解放されていた。設立はローマ教皇庁、運営費用は献金や募金で賄われている。
ヴィはここで週1回、使徒職の一環としてアスラン道を教えていた。子どもたちに1番人気のある授業だった。
ヴィも、この時間がとても好きだった。自分も孤児だったからというだけではなく、子どもたちと過ごす時間が好きだった。
友人らしい友人はいないが、この時間だけは子どもたちみんなが友だちだった。子ども相手に護身術を教えるなら、ヴィの乱暴な物言いはむしろ畏怖と尊敬を集めたし、子どもは教えたことをすぐ吸収するので、無力感よりも達成感を感じることの方が多かった。今日も楽しい時間になるはずだった。
教会に戻ったら、お父様に話しかけよう。なんてことないふりをして。もしかしたら仕事の悩みとかじゃなくて、どこか具合が悪いのかもしれない。お父様もじき70歳だし、これまで病気ひとつしてこなかったのが逆にすごい。もし具合が悪いんだったら、その時こそ攻撃的なヴィの出番だ。無理矢理にでも病院に連れて行く。
どんなに健康だったとしても、70歳の老人の身体は老い衰えているし、いつ急な病気になってもおかしくないということもよく解っていた。人はいつか死ぬということも。
でもお父様は別。
世界中の親想いの子なら誰でもそうであるように、ヴィもまた、クルチュ神父が死ぬことなんてありえないと、心のどこかで信じていた。来年30になる今でも。
道路は混んでいたが、朝よりはましだった。いつも渋滞するスザム通りも、比較的空いていた。
だがアナファルタラル大通りとの交差点はかなり混んでいた。信号が青になってもなかなか進まない。クラクションがあちこちで鳴っている。
ヴィはクルチュ神父のことを想いながら信号を待った。道路の左右は建物がひしめいていて、クルチュが今まさに、照りつける太陽に汗をかきながら、1本東の通りを歩いていることなどわかるはずもなかった。ダッシュボードのデジタル時計は、14:02を表示していた。
ジェイは、アナファルタラル大通りの路上でファルトを停めて、アリーの映像を見ながら待っていた。クルチュがコンヤ通りを出てくる。少し遅れて尾行者も。
だがその男は、大通りに出るとクルチュとは反対方向に向きを変え、ジェイのファルトの2台前の中型のパネルトラックの助手席に乗り込んだ。トラックはハザードを炊いたまま、動き出さない。その間もクルチュは歩き続け、ベルリッツ・ホテルの方へ歩いて行く。
ジェイは少し考えた。
(アリー、そのままクルチュを追って)
車の流れが切れると、ジェイはファルトを出して警察署に向かった。
アリーとの精神リンクに集中している時は、ジェイの肉眼は虚になり、脳は眼や耳が捉えたものを処理できなくなる。だから運転中は脳内の映像を注視することは危険だった。ジェイは警察署へ急いだ。
ヴィはまだアナファルタラル大通りの信号で待たされていた。青になっても、数台ずつしか進めない。ここを渡ればこの先は一方通行のフキュメット通りで、丘を登って警察署の前を過ぎれば目的地まですぐだ。デジタル時計は14:04。ギリギリだが、約束の時間には間に合いそうだった。
信号が青になり、車列が進んだ。だが前の2台はそれぞれ左右のウィンカーを点滅させていて、その横を通れるスペースはない。1台はスムーズに左折していったが、ヴィの直前の右折車は横断する歩行者の列に阻まれてなかなか動けない。
ヴィは少し苛立ち始め、指でトントンとステアリングを叩いた。後ろからクラクションが鳴らされる。うるさい。前が詰まってるんだからしょうがないのに。
やっと歩行者の列が切れ、前の車は右折して行ったが、もう信号は赤になっていた。大通りも交通量が多い。ヴィはあと1回信号を待たなければならなかった。
またクラクションが聞こえた。ヴィはため息をついてルームミラーを見た。そうせず前を見ていれば、僅か20メートル先のベルリッツ・ホテルの前を、片側3車線の大通りを渡り切ったクルチュが歩いて行くのが見えたはずだが、ヴィは気づかなかった。
その1分前に、ジェイのファルトはヴィがイライラしながら信号待ちしている交差点を曲がり、フキュメット通りを北上していた。
ベルリッツ・ホテル前を通り過ぎる時に横目でみたクルチュは、立ち止まって額の汗をハンカチで拭っていた。ファルトの外気温度計は32℃。湿度は低いが、69歳にはキツそうだ。
ファルトを停めて降りる。
「神父さん!」
大声で呼びかける。
クルチュは汗を拭く手を止めてこちらを見た。
「乗りませんか?暑いでしょう!」
クルチュは笑顔になったが、すぐに首を振る。
「大丈夫です!ありがとう!」
その声は老人のしゃがれ声だったが、張りはあった。クラクションが、クルチュの声をかき消すようにけたたましく響いた。ジェイのファルトが邪魔なのだ。
仕方なく、ジェイはファルトを発進させた。サイドミラーで、クルチュが小さく手を振っていた。
ジェイ・ロルトとクルチュ神父が言葉を交わしたのは、これが最初で最後となった。
クルチュは左手にハンカチを持ったまま、再び歩き始めた。右手は、ドクターズバッグの取手をしっかり握りしめていた。この先は三叉路になっていて、右はアウグストゥス神殿へ、左はアンキュラ社会科学大学へと続く道だ。真ん中の細い一方通行の道は緩やかな坂で、ここを登った先の丘にアナファルタラル警察署がある。
太陽は既に真上にあり、強い陽射しがアスファルトや周囲の建物の壁に反射して、眩しく、暑い。空気は乾燥しているが、それでも汗が滲んでくる。
またハンカチで汗を抑え、腕時計を見た。14時6分。長針が短針に追いつこうとしている。
19年前の誕生日に、ヴィがくれた贈り物。ケースボディは丸くシルバーで、文字盤は白、外周に大きめな黒のアラビア数字が並んでいる。その下には赤い小さな24時間表記の数字が添えられて、とても機能的だ。太めの時針と分針には蓄光塗料が塗られ、暗がりでも時間がわかった。ベルトは黒の合成皮革で、白いステッチがアクセントになっている。
シンプルで上品だが、ジャポン製の安物だった。だがこの腕時計は、クルチュにとっては何物にも代え難い宝物だった。
クルチュは、バスで50分かかるカトリックの学校にヴィを通わせた。ヴィは週に数回早起きして、クルチュには内緒で歩いて通学し、バス代をちまちまと浮かせて、それを貯めたお金でこの腕時計を買った。
クルチュはヴィがたまにバスに乗らないことを信者から聞いて知ってはいたが、まさか自分へのプレゼントを買うためとは思ってもいなかったので、とても驚き、そして感動した。
あの日以来、肌身離さず、丁寧に手入れして、他の時計に替えることは1度たりともなかった。文字盤のガラスはいつもピカピカに磨いてあった。
クルチュは車1台分の道幅しかない緩やかな坂を登った。歩幅は少し短くなったが、依然として足取りはしっかりしている。
暑いからか観光客はほとんど歩いておらず、車も多くはなく、たまに後方から近づく車があると、立ち止まって脇へ避け、先に行かせた。
警察署は24時間開いているし、もうあと少しで着く。ここまでくれば、急ぐ必要はなかった。
ヴィはまだ大通りを通過できないでいた。青になって動き出した直後に、大通りから信号無視のトラックが強引にヴィのルノーを遮り、曲がって行ったのだ。
思わずクラクションを鳴らしかけたが、この辺りではこんなのは日常だった。急ブレーキをかけたヴィの後続の車が、代わりにクラクションを鳴らした。
ヴィは大人しくトラックに続いて、交差点を直進した。
だが、大通りを渡ったベルリッツ・ホテルの前で、また前が詰まってしまう。もたもたしている車がいるのか、前の方からもけたたましいクラクションが聞こえる。直前には先ほどのトラックがいて、大きく四角い白いパネルが視界を塞いでいて前方の様子は見えない。
車列はすぐに動き出したが、歩いた方が早いくらいの低速だ。
トラックのディーゼルの低音が耳障りだった。ヴィはカーラジオをつけた。
グレゴリオ聖歌が流れてきた。
|Stabat Mater《悲しみの聖母》だ。
こんな悲しい曲を聴きたい気分ではなかった。違う局にしようとラジオのスイッチに手を伸ばしかけたが、トラックが動いたので運転に集中するしかなかった。すすり泣くような旋律とディーゼルの低音が、歪なハーモニーを車内に響かせる。
ヴィのルノーはそのまま、ゆっくりと狭い一方通行の坂を登り始めた。時刻は14時8分だった。
ジェイはその2分後、アナファルタラル警察署の駐車場にファルトを停めた。エンジンは止めず、運転席に座ったままアリーの映像を注視する。
アリーは、チナル・ホテルという4階建ての古宿の屋根から、坂を登ってくるクルチュを見ていた。警察署までもう1分ちょっとだろう。道が大きくカーブしているのでジェイの視界にはまだ入らないが、それもまもなくだ。
ホテルの向かいは自動車教習所の広い敷地で、道路とは高さ3メートルほどの石壁で隔てられている。この石壁は警察署の前まで続いていて、車道との間にスペースがないので、歩行者はホテル側、警察署に向かうと右側を歩くしかない。
だがそのホテルの前には5,6台の路駐車両があり、ここは車道を歩かないと先へ進めなくなっていた。
アリーの映像の中で、クルチュは今、その場所に差しかかるところだった。後方から1台のトラックが、ゆっくりと坂を登って来ていた。右の助手席にはスポーツサングラスの男が座っていたのだが、アリーの角度だと見えなかった。
トラックのすぐ後ろには、ルノーが続いていた。
ヴィは苛立ちが募っていた。目の前のトラックは歩くよりも遅く、しかも不規則に加減速を繰り返す。ラジオを消すこともできなかった。道幅は狭いし、ちょっと目を離すと追突してしまいそうだ。
四階建ての古い建物の手前で、トラックは遂に停止した。ハザードもつけずに。
まさかこんな所で荷を降ろすか積むかしようというの?それともトラックの前方でなにかあったのか。白くて四角い大きなパネルの箱のせいで、トラックの前の方は全く見えない。ヴィの後ろにはもう長い車列ができている。クラクションが複数聴こえる。
とうとうヴィも我慢するのをやめ、ステアリング中央のパッドに掌を叩きつけてホーンを鳴らした。トラックは動こうとしない。
ヴィはレバーをPに入れ、シートベルトを外して、車を降りようとドアを開けた。その時だった。
突然ディーゼル音が咆哮し、白いパネルの四角い箱が小刻みに震えた。後輪が小石を跳ね飛ばし、トラックが急発進した。ディーゼルの唸り、そして鈍い衝撃音。何かにぶつかったのか。トラックが止まる。ドアの開く音。ヴィはルノーを降りたが、左側なので何が起きたのかはわからない。
ルノーの前を横切って右側に行こうとした次の瞬間、トラックがまた急発進した。何かを踏み越えるように、パネルの箱が大きく上下に揺れる。それから、トラックはさらにスピードを上げ、走り去った。
トラックが去った路上に、何かが転がっていた。黒いもの。その下から染み出す、赤黒い液体。
「そんな、まさか」
思わず声が出る。あのトラックは人を跳ねたの?しかもそのまま、轢き逃――
白いカラー。黒いシャツ。
近寄ろうとしていた足がとまった。身体が凍りついた。
神父だ。顔はうつ伏せで見えない。でも――
キラっと、なにかが目の隅で光った。手。手首。腕時計。
力が抜けた。膝が折れ、崩れ落ちた。喉の奥から湧き上がってくる悲鳴を抑えるように、両手が口を塞いだ。眩暈。視界が歪む。クラクションも、グレゴリオ聖歌も、全ての音が消えた。心臓の激しい鼓動、血管が脈打つ音。
「……うそ。やだ。――」
両手の隙間から声が漏れた。
「……やだ……いやだ。いや……」
声はすぐに、嗚咽になった。
ルノーのカーラジオからは、まだ|Stabat Mater《悲しみの聖母》が流れていた。
ジェイは全て見ていた。アリーの目を通して。
クルチュがホテルの前まできて、路駐の車の後ろで立ち止まった。後ろを振り返る。トラックが停車した。ドライバーはステアリングを両手で握りしめているが、助手席の男が、手で「どうぞ」と合図した。クルチュは一瞬、戸惑うような素振りを見せたが、すぐにお辞儀をして、車道に踏み出した。
そして、前を向いて小走りに駆け出そうとしたその時に、突然トラックが動き出し、加速して、そのままクルチュの背中に衝突した。
ジェイは頭を殴られたかのようなショックを受けたが、映像はまだ続いた。
クルチュはうつ伏せに倒れた。発車直後だから速度は速くはなかったが、2トンの鉄塊が人を轢き倒すには充分だった。トラックはクルチュの足をバンパーの下に咥え込んですぐに止まり、助手席からスポーツサングラスの男が降りてきた。男はクルチュのドクターズバッグを奪うとすぐにトラックに戻り、そしてトラックはまた急発進した。
クルチュを轢き潰して。
ジェイは映像を切り、ファルトのギアを入れようとしたがやめて、車から降りて走った。
トラックのディーゼル音が近づいてくる。
血流が全身を駆け巡る。背中の筋肉が疼き、盛り上がった。
ジェイは走りながら上着を脱ぎ捨てると、警察署前の道路に飛び出した。
カーブの奥から、時速60キロでさらに加速しながら突っ込んできたトラックの直前に飛び出されて、ドライバーは反射的に急ブレーキを踏み、ステアリングを左に切った。ブレーキ音とともに、激しい衝突音が響いた。トラックは左側の石壁に接触し、側面を擦り潰し、激しく火花を上げて10メートルほど進んで止まった。
右側のドアが開き、男が転がり落ちた。スポーツサングラスはもうない。エアバッグの火薬のせいで咳き込む。朦朧としながら、ふらふらと立ち上がる。クルチュのドクターズバッグは、しっかりと抱えている。
突然強風に煽られ、男は尻もちをついた。その目の前に、黒く大きな影が舞い降りる。
上半身裸で、その背中から巨大な鴉の翼が生えた——悪魔。
黒い長髪が逆立ち、髭も伸びて、獅子のたてがみのよう。その瞳は赤く爛々と輝き、額には太い血管が浮き出ている。
「それをよこせ」
悪魔が右手を突き出した。同時に、翼が縮小して背中に消え、ただの人間の姿になった。
事故のショックで朦朧としている男には、今見えたものが幻覚なのか現実なのか、区別がつかなかった。正気ではいられなかった。男はその場で気絶した。
ジェイの背後の警察署から、警官が数人駆け寄って来た。警官の中には翼を見た者もいたが、翼だと認識できた者はいなかった。
ジェイはドクターズバッグを拾うと、振り向いて警官の一人に差し出した。
「PCと小切手帳を調べろ」
警官は動揺はしていたが、職業意識はしっかりしていた。ドクターズバッグを受け取りながら、
「……あなたは?ケガしてませんか?」
ジェイはトラックが走ってきたカーブの先を指差した。
「怪我人なら向こうに一人いる。できれば助けてやってくれ」
警官は躊躇した。こいつが何を言ってるのかわからない。それより、トラックの乗員を助けなければ。だがその時、無線が入った。
『チナル・ホテル前で人身事故発生――』
救急車のサイレンが近づいて来るのが聴こえる。近くのアジルから出動したのだろう。
「これを」
警官は振り向いて、別の若い警官にドクターズバッグを渡した。
「あなたも――」
再び前を向いた時には、もうジェイの姿はなかった。
救急車が2台、サイレンを鳴らして一方通行を逆走して来た。1台が警察署の前で止まり、もう1台は壁に張り付いたトラックの横を抜けて走って行った。1分でもうひとつの事故現場に到着し、サイレンが鳴り止んだ。
クルチュはうつ伏せに倒れていた。トラックのタイヤに背中を踏まれ、胸を押し潰されて。傍らに座り込んでいたヴィに救急隊員が声をかけたが、ヴィは反応しなかった。できなかった。
「――お父様……お父様……お父様……」
ヴィはただその言葉を、掠れる小声で繰り返すだけだった。救急隊員はまずクルチュの身体の状態を確認した。ヴィがしがみつく。
「シスター……お怪我を、あちらで」
救急隊員にはまだ、事故の状況がわからなかった。1人は神父で、傍らに血塗れのシスター。2人は一緒にいて事故にあった。そう考えるのは自然だった。
「……お父様……」
ヴィはクルチュから離れようとしなかった。涙とクルチュの血で、顔もスーツもぐちゃぐちゃだった。
救急隊員はヴィを促すのは諦めて、クルチュをストレッチャーに乗せ、持ち上げた。左手がだらんと落ちた。手首の腕時計は長針と短針がピッタリと重なって、14時11分を指していた。
ジェイは、チナル・ホテルの屋上に座って、その光景をじっと見つめていた。脱ぎ捨てた上着を拾って羽織った肩に、アリーが止まっていた。
アリーの銀色の瞳の中で、ストレッチャーに縋るシスターの背中を支えようと、救急隊員の1人が手を添えた。次の瞬間、シスターの右手が背後に飛び、救急隊員のこめかみに裏拳がヒットした。救急隊員は昏倒して崩れ落ちたが、シスターは振り向きもせずクルチュの遺体に縋り泣き続けた。
状況にあまりにもそぐわない出来事に、ジェイは呆気に取られたが、またすぐに悲しげな表情に戻った。
あの動き、肩のしなりや腰の捻りは、武道家のそれだ。おそらくは、悲しみのあまり動転して理性を無くし、本能のまま反射的に動いてしまったのだろう。
(こわいおんな)
ジェイはアリーの、そこだけ灰色の後頭部を撫でた。アリーは気持ちよさそうに目を閉じた。
パトランプの青い光が明滅していた。
人々の騒めきに混じって、ドアが開け放たれたままのルノーから、ヴァイオリンの悲痛な旋律が、いつまでも聴こえていた。




