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9 白い城、黒い翼

【7月27日 聖テレーザ教会】

 ヴィは空を見上げた。早朝5時、まだ太陽は地平線の下にあり、ようやくその光が濃紺の空を白く染めかけ始めたその時、ヴィの頭上でカラスが鳴いた。

 まだ暗く、はっきりとは見分けがつかない。だが空より明らかに黒いそれが、だんだん大きくなる。

 わたしに向かって落ちてくる?いや、カラスじゃない。別のものが、降ってくる。

 反射的に右手をかざした。次の瞬間、掌に痛みを感じた。何かに引っ掻かれた?

 カラスじゃない。それを受け止める。手のひらにまた何か刺さった。

 薔薇だ。黒い薔薇。

 空から薔薇が降ってきた。聖テレーザの伝承そのままに。これは夢?いや違う、あのカラスだ。カラスが咥えていて、それを落とした。


 ヴィはこの朝、いつもより早く目が覚めた。時計を見てまだ早いと思ったが、そのまま起きることにした。シャワーを浴びて、今日は黒いブラウスとパンツスーツを着た。修道衣は主日ミサで着なければならないので、掃除で汚れると困る。身支度を整え、鏡を見て、髪をちょっといじってからKelli(離れ)を出た。その時、空から薔薇が降ってきた。


 ヴィは血と薔薇を見つめていた。

 赤い血と黒い薔薇。

 カラスが咥えて飛んできて、薔薇を降らせた。たぶん3日連続同じ時間に。

 

 ヴィは教会で24年間、神父に育てられシスターとなったが、実は神の奇蹟など信じていなかった。

 10歳の時、自分が捨て子だったと知ったからではなく、単にその高い知能と理性が、成長するとともに現実を把握したからだ。だからこれも、聖テレーザ教会にいて聖テレーザの伝承通り空から薔薇が降っても、神がもたらした奇蹟だとは思わなかった。むしろ、何者かの意図を感じた。

 薔薇を咥えてきたカラスが、中庭に1本しかないオリーブの木のてっぺんに止まり、ヴィを見ていた。目が合う。カラスが飛び立った。

 

 ヴィはカラスを追って教会を飛び出した。早朝なので門には鍵がかかっていたが、ヴィはスピアトップを掴んで門の横棒をステップにすると、難なく乗り越えた。

 門を跨いだ時に空を見上げると、カラスは一旦は林の向こうに飛んでいったが、上空で90度転換して東に向かっていく。速い。あれには追いつけない。

 

 捕まえて、傷を負わされた仕返しをしようというわけではなかった。なぜ薔薇を運んで来たのか、誰がそうさせたのかを知りたいだけだった。

 カラスはすぐに見えなくなった。空はようやく明るくなり始めていたが、日の出はまだだ。

 教会に戻ろうとして、閉ざされた門の前で立ち止まる。

 

 わたしは今、教会の外にいる。無断で。

 もちろん、監禁されてるわけじゃない。だけど、お父様にも言わずに外に出たのは、これが初めてだ。お父様はもういない。

 スーツの上着の内ポケットを探った。ちゃんとiPorta(スマートフォン)は持ってる。何かあったら連絡はつく。朝の掃除は……1日くらい、サボってもいい?どうせ大して変わらない。わたしの自己満足でやってただけだし。朝の祈りまでに帰ってくれば、誰も気づかないはず。

 この2日、正直辛かった。苦しかった。お父様のことばかり考えて。明日は葬儀ミサ、そして……埋葬。きっとまた辛いだろう。また泣いてしまうだろう。だから……。

 

 ヴィはもう一度、カラスが飛び去った東の空を眺めた。まだ青空ではなく、深い紺色。だけどそれだけじゃない。紺色から青、水色へのグラデーション、地平線のすぐ上は、鮮やかなレモンイエローに染まっている。日の出はまもなくだ。地平線はまだ真っ黒。すぐ手前に見えるアンキュラ城。その奥の小高い丘は、ジェベジ墓地。お父様の安息の丘だ。

 

 このまま、東に向かって歩いて行って、イペク通りを渡ればエヴィ公園がある。たった50メートル先。普段はピクニックの家族連れで賑わう公園だけど、まだ夜明け前のこの時間なら誰もいないはず。

 手を見る。一輪の黒い薔薇。その棘でついた傷は、もう血が止まっている。

 ヴィは歩き出した。教会の、"外"に向かって。



 ジェイはアリー経由で、シスター・ヴェシレが門を跨いで外に出るまでを見ていた。アリーは遠くへ飛んでいったので、続きが気になってロルフを降り、教会前の道路との境の木陰に潜んだ。シスター・ヴェシレは、門の前で佇んでいたが、やがて動き出した――教会に戻るのではなく、東方向へ歩いて行く。この数日、使徒職のため、または朝食のため、西に歩いて行くのは見たことがあったが、東は初めてだ。早朝に。

 

 ジェイはロルフに戻り、エンジンをかけて走り出した。駐車場を出て、イペク通りを北進する。シスター・ヴェシレがあのまま歩いて行けば、この先でイペク通りに出てくるはずだ。

 ……それで、どうしようというのか。会って、挨拶して、それから?

 聖テレーザ教会に続く路地の手前でロルフを停める。シスター・ヴェシレはまだ路地を歩いて来ている。助手席に残った2本の黒薔薇が目に入った。慌てて薔薇の包みを引っ掴み、ロルフを降りてトランクに隠す。その時、シスター・ヴェシレがイペク通りに出て来た。



 ヴィは、通りを横断するため左右を確認した。反対車線に、黒っぽい車が1台、路上駐車している。運転席に人がいないようだ。少し近づいて見る。オープンカー。埃だらけの紺色。タンカラーの幌は、あちこち破れていてボロボロ。

 こんなところに車を放置するなんて。こういう人がいるから、交通事故が――

 いや、今は思い出したくない。

 

 ヴィは車の方を見ないようにして、イペク通りを渡った。草地に入り、公園の土の感触を味わいながら、奥へと歩いて行った。辺りは明るくなってきた。ようやく、日の出の時間になった。



 ジェイはロルフの後ろに屈んでいた。足音で、シスター・ヴェシレが草地に入って遠ざかって行くのがわかった。ほっとした。

 ほっとした?なんでおれはコソコソしている?わからない。

 とりあえず運転席に戻る。電動ソフトトップを開けた。コソコソしてるのが嫌で。もうシスター・ヴェシレは公園の奥まで行ってしまった。

 

 ジェイはシートを倒して目を閉じた。朝日が頬に暖かい。

 余計な心配だったかも知れない。シスター・ヴェシレの足取りは軽やかだったし、黒いパンツスーツのシルエットが朝日に浮かび上がって美しかった。芝の緑もキラキラしていて。

 馬鹿馬鹿しい。ジェイはそのまま寝てしまった。締まらない顔で。口角を、少しだけ上げたまま。



 ヴィは公園のベンチに座った。iPortaの時計は、5時50分。ライトブルーの空が目に優しく、小鳥の声が耳に心地よい。若い女性が、2匹のミニチュアダックスフンドと散歩している。ランニングしているカップル。

 すごい。こんな平穏な時間がまだあったなんて。

 

 朝日が眩しい。教会の方、西の空を振り返る。街並みや遠くの丘の稜線に、ローズピンクの帯がふんわりと乗っている。綿のヴェールみたいに。

 小学生の頃に、この不思議な色の魔法のことを先生に教えてもらって、インターネットでも詳しく調べたのを思い出した。

 

 ウェヌスの帯、と呼ばれている。美の女神の腰布に喩えて。ローマ神話で、生の女神でもあるウェヌスは、愛するアドニスが死んでしまった時、彼の血からアネモネという花を芽吹かせた。この美しい話に、小学生のわたしは少し、ドキドキしたのを覚えてる。

 手のひらを見た。乾いた血の軌跡が残っている。黒い薔薇の花弁にも、数滴の飛沫。

 血と花。アネモネではないけれど。もう一度、朝日に顔を向ける。明日、お父様が埋葬される丘も、陽光を受けて輝いている。

 

 お父様。わたし、大丈夫。きっと。


 ヴィは立ち上がると、教会に向かって歩き出した。朝日を背に受けて。西の空では、ウェヌスの帯とその下の地球影が陽光に押されて沈み、夜の残滓も消えていった。

 


 聖テレーズ教会の東に位置するアンキュラ・エヴィ公園は、総面積500デニュムの、南北に長い広大な自然公園の一角にある。ポプラやクロマツ、プラタナスなどの大木や、野生のキジ、ハクチョウ、リスやウサギ、トカゲなどが自然の中に生息している。

 その恵まれた環境で、ひときわ目立つ一本のポプラが、夏の早朝の眩しい朝日にその黄緑の葉を輝かせ、風に揺れるとサラサラと、まるで光が音を奏でているようだ。

 

 そのポプラの木の、地上20メートル近いてっぺんの枝に、アリーは止まって羽繕いをしていた。

 

 時々、ポプラの葉に昆虫を見つけて啄む。朝ごはんには全く足りないから、トカゲを見つけたら狩るつもりだった。ジェイはもうお金がない。ごはんを買えない。アリーにはよくわかっていた。なぜお金がないのか?薔薇をたくさん買ったから。

 

 羽繕いや虫を取ったりすることに飽きると、アリーはポプラの葉をむしり、それをわざと落としたりして遊んだ。それにも飽きると、今朝の任務の失敗についての反省会をすることにした。

 

 鳥は3歩で忘れる、というが、他の鳥ならいざ知らず、ニシコクマルガラス等の知能の高い鳥は、3歩どころか数年に渡って記憶を維持できる。今から1時間前に自分がしでかしたやらかしについても、細部まで明確に覚えていた。

 

 (おとしちゃった。ばら)

 

 黒い薔薇が、真下にいる"こわいおんな"目掛けて落ちて行く。彼女がかざした手に直撃し、その白い手から一条、赤い血が流れる。

  

 アリーは慌てた。この2日間そうしてきたように、朝5時に薔薇を咥えてロルフの幌の破れ目から飛び立ち、ジェイの頼み通りにKelli(離れ)のドアの前に置こうと、目標上空に差し掛かった時、いつもより早く"こわいおんな"が出てきたからだ。思わずひと声鳴いてしまい、嘴から薔薇が落ちた。身を翻して見事なスティープターン(急旋回)を決めたが、キャッチ出来なかった。小柄で敏捷なニシコクマルガラスといえど、2連続ターンは無理があり、アリーは離脱するしかなかった。

 

 (アリー?)

 

 しかもやらかしたのをジェイにみられた。おちこむ。

 

 アリーの、ジェイに対する感情は複雑だった。物心ついた時には、傍らにジェイがいた。自分とは全く違う生き物であることはもちろんわかったが、もしかしたら、自分も成長すれば、ジェイのような体になるのかも?とは考えた。それはいやだった。あんなに大きいのに、のろまだし。たまに翼が生えるから空は飛べるけど、私みたいにいつでも飛べるわけじゃないし。

 

 ジェイが自分を使い魔に変えたこと、それによって地獄の罰を逃れて地上に転生したこと、人間だった頃の記憶、いや、自分が以前はジェイと同じ人間だったことすら、ほとんど覚えていなかった。だが、その小さな体、脳、そして心のどこかに、ジェイに対する不思議な感情が生まれる前からあったということを、アリーは感じていた。

 ジェイは私と、景色や音を共感できる。他の大きな生き物とはできない。ジェイだけ。ジェイが考えてることがわかる。伝わってくる。私が望んだ時だけだけど。

 

 ジェイの頼みをきくことは、アリーにとっていつしか喜びになっていた。なぜって、ジェイが嬉しいって伝えてくれるから。褒めてくれるし、頭や首の後ろや、嘴だって撫でてくれるから。とっても優しく。気持ちいい。これで、いつでも美味しいお肉を買ってくれたら、文句はないんだけど。お金がないからしょうがない。


 でも今朝は、やらかした。初めてだった、ジェイの頼みを完璧に実行出来なかったのは。悪いのは、あの"こわいおんな"だ。

 アリーはヴィのことを"こわい"と恐れているわけではない。ジェイが恐れているのだ。この数日、ジェイの頭の中を覗くと、いつもあの"おんな"の顔が見える。なにかしたりされたわけでもないのに、ジェイは謝って、怖がっている。

 

 あの薔薇も、きっとそのためだ。あの薔薇のせいでお肉が買えなかった。お肉より薔薇の方が大切な理由が、アリーにはわからなかった。でもジェイが、薔薇をあの"おんな"の巣に置いて来て、と頼んだ時、わかった。ジェイはあの"おんな"に、ごめんなさいがしたいんだ。なぜかはわからないけど。贈り物をして、ごめんなさいがしたいんだ。それは私にもわかる。

 

 アリーがポプラの木のてっぺんでトカゲが現れるのを待っているのは、朝ごはんのためだけではなかった。お腹は空いていたからもちろんトカゲは食べる。だけど全部じゃなくて、半分くらい残して、それをジェイに"贈り物"してごめんなさいするためだ。任務を失敗したから。


 アリーは地上20メートルの高みから、トカゲを探した。だが、彼女が見つけたのはトカゲではなく、ジェイの車に近づく"こわいおんな"だった。

 アリーはポプラの枝を揺らして飛び立った。葉がサラサラと光の音を奏でる。アリーにはその音が、「アリー、がんばれ!」と聴こえた。

 がんばる。

 アリーはジェイを守りたかった。状況によっては、"こわいおんな"への攻撃もやむを得ない、そう決意して、アリーは全速力で羽ばたいた。



 ヴィは、ジェイのロルフのことなど気にも止めていなかった。ただ来た道を戻り、朝の祈りに間に合うように教会へ帰ろうとしていただけだった。

 朝日を浴びてキラキラ光る芝を踏み締め、イペク通りに出ようとしたその時だった。

 一瞬、黒い小さな影が頭上を横切り、路傍の車に向かって飛んでいった。カラス。

 

 いくらヴィの観察眼が鋭くても、それが今朝、ヴィに薔薇爆弾を投下したのと同じカラスかどうかまでは判別はできない。しかし、直感的にそうだと思った。ヴィが見つめる先で、カラスはオープンカーの黒いロールバーに着地した。そして、ひと声鳴いた。

 運転席から、男が身を起こした。ボサボサの黒髪。古ぼけた黒いスーツ。不精髭。知ってる顔だ。あの不躾な浮浪者。

 カラスはロールバーの上で、翼を広げてまた鳴いた。危険を知らせるような、切迫感を感じる声だ。男がカラスに何か言っている。

 

 嘘でしょ?まさか、あの男が、毎朝わたしに黒い薔薇を届けてたっていうの?どうして?

 

 ヴィは小走りにオープンカーに近づいた。



 ジェイは、アリーがなにを騒いでいるのかわからなかった。寝ぼけていたからだ。ここ数日の不規則な睡眠が、体内時計を狂わせていて、たまたまこの時、眠気のピークを迎えていた。あくびをしながら伸びをして、やっと頭がスッキリした時、ロクツィオ(非常警報)が飛び込んできた。

 

(こわいおんな!

 ジェイにげて!)

 

 その激しさに、ジェイは一気に目が覚めた。足音が聴こえて振り向いた。そこに、シスター・ヴェシレが立っていた。

 ジェイを見下ろして。怖い顔で。

「……あ?どうも」

 それしか言葉が出なかった。

 


「あ、どうも」

 それが第一声?

 なぜかわからなかったが、ヴィはそのひとことがムカついた。湧き上がる怒りを抑えながら、ヴィは平常心を取り戻すために言った。

 

「あら。おはようございます。ここでお休みでしたの?」

「お、おはよう……ございます」

「このボロッボロの今にもスクラップになりそうなお車は、あなたの?」

「ええ、おれのです。優しい人からいただきました」

「まあ。それはよろしかったですわね。でも、こんなところでお休みになっては、他の車にぶっ飛ばされますわよ?」

 

 なぜこんなことしか言えないのだろう、わたしは。もっとシスターらしいことを言わなきゃ。

「さっさとどこかへお行き遊ばせ。せっかくの気持ちの良い朝が台無しですわ」

 心とは裏腹に、強い言葉しか出てこない。ヴィはいつもこうだった。防衛本能の裏返し。でも、わかっていても口が勝手に言葉を紡ぐ。何も言わない方がマシだった。

 クルッとターンし、教会へ帰ろうとした。

「ごきげんよう」

 

 

 クアァーッ!

 アリーが叫んだ。

 

(ジェイを、いじめるな!)

 

 その声が、ジェイの背中を押した。

「待って!」

 ヴィが立ち止まる。振り返ってジェイを見た。いや、睨んだ。

「待ってください。あなたに……話さなきゃならないことがある」

 ヴィは、ジェイの瞳を見ていた。

「――なんですの?」

「おれは……あなたに、謝らなきゃいけない。あなたの、お父さんのことで」

  

 ヴィの瞳が揺らいだ。ダークブラウンの虹彩が収縮し、瞳孔が大きく開かれた。

「……なにを……なにをおっしゃいますの。あなたみたいな人が、父の何を語れると――」

 その時、けたたましいエアホーンの咆哮が、ヴィの言葉をかき消した。巨大なトレーラーが、後方から迫ってきていた。トレーラーはロルフの手前で僅かにスピードを落としたが、横を掠めて通り過ぎて行く際、あからさまにアクセルを踏んで重いディーゼルエンジンのエキゾーストノートを轟かせ、黒煙を撒き散らして去って行った。

「ここにいたらぶっ飛ばされそうだ。あなたの言う通り。乗ってください。」

 ジェイは助手席のドアを開けた。

「こんな、汚らしい車にわたしが乗ると?」

 

『大丈夫です!――』

 

 あの日、フキュメット通りで、クルチュを車に誘って、断られた時の光景がフラッシュバックする。

 

『――ありがとう!』

 

「あなたのお父さんは、ありがとうと言ってくれました。でも乗らなかった。その直後でした、あの事故は。」

 ジェイは俯いた。無意識に。演技ではなかった。

 

 

 ヴィには、ジェイのその姿は、演技には見えなかった。

 この人はあの事故の直前に、お父様と言葉を交わした。もしかしたら、お父様の最後の言葉だったかも知れない。

 

『ありがとう』

 

 なんて……なんて、お父様らしい言葉だろう。これ以上の言葉があるだろうか。

「ありがとう……」

 ヴィは思わず口に出していた。ジェイはその言葉を、許諾と受け止めた。顔を上げて、微笑んだ。

 ヴィは、もう逃れられない何かを感じた。いや、逃げることはできる。簡単だ。アスラン道は、まさにこういうシチュエーションを想定した防護術だ。ヴィの脳裏に、この場から安全に立ち去る技術が、10数通りも浮かぶ。

 その全てを、ヴィは打ち消した。

 

 ヴィはロルフの助手席に腰を下ろした。ロルフはツードアだから、ヴィの長い脚もすんなりと収まった。

 ジェイが丁寧にドアを閉めた。フルオープンなので、閉じ込められた感はない。シートベルトを締める。 

 

 埃だらけでボロボロのロルフ・カブリオレは、ジェイの運転で、ヴィを助手席に、アリーをリアシートに乗せて、ゆっくりと動き出す。

 そして、Uターンした。スキール音が早朝の静けさを切り裂く。

「どこへ行くのです」

「すぐ着きます。5分くらいで」

 ジェイは南に向かってアクセルを踏み込む。風に乱れるジェイの頭のボサボサの影を、朝日がヴィの頬に落とす。

 

 ヴィはため息をつき、視線を落とした。黒い薔薇を、まだ持っている。ジェイの横顔を見た。前を向いて、運転に集中している。

 ふと思いついて、花弁を1枚抜き、1度足元に手を伸ばして何かを拾ったように見せかけ、花弁をジェイの横顔にひらひらさせながら言った。

「落ちていましてよ」

「あ……そ、それは……」

 焦っている。ヴィはちょっとだけなごんだ。

 

「この黒い薔薇についても、お聞かせくださいまし。でないと、今すぐ飛び降りますわ」

 ジェイがびっくりしてヴィを見た。だがすぐに前を向き、微笑みながら頷いた。

 ロルフ・カブリオレは、カディフェ通りへのヘアピンを曲がる。スキール音。ヴィは横Gにはむかって上体を左に傾けた。肩がジェイと触れ合う。

「ちょっと!スピード出し過ぎですわ!」

 ジェイは微笑んだまま、さらに加速した。

 

 ギョズジュ通りを右へ。見張り番通り、と言う意味だ。細い石畳の道を、ロルフが疾走する。アナドル文明博物館が、右後方に流れ飛ぶ。

 ディヴァン・チュクルハンの、窪みの中の城壁のような茶褐色の石壁が、突然ヴィの視界に飛び込んできた。見張り番通りから、城壁へ。もしディヴァン・チュクルハンのT字路を左に曲がるなら、その道はカレ・カプス(城門)通り。まさか、行く先は。

 

 T字路。ジェイは強くブレーキを踏み、左へステアリングを切る。

 ヴィの予想通り。今度は、横Gにも耐えられた。

 直角コーナーを立ち上がり、より精密に配置された四角い石畳を、ロルフのタイヤが蹴るたびに、ダッダッダッという音と振動が、2人と1羽を揺さぶる。

 前方の高みに、白銀の壁が聳え立つ。その頂点は、朝日が黄金に輝かせている。まるで、王の冠のように。

「……アッカレ?アッカレに行くのですか?」


 アッカレ。白い城。千年前、ここで、ローマ人とテュルキエ人は剣を納め、和解した。マラーズギルト和睦。今のローマの、ローマン・テュルキエ民族の、つまりヴィたちの始まりの場所。だが今、その場所は特別使徒保安庁(GT)の管理下にあり、年に1度、マラーズギルト和睦記念日にしか解放されない。来月だ。今の時期は、その準備のため普段より一層厳重な警備体制が敷かれているはずだ。

「無理。行けませんわよ?特に今は。来月の記念日に向けて、今は1番警備が厳しいはずです」 

 ジェイは返事の代わりに、微笑みを浮かべてさらにスロットルを開けた。2リッターSOHCの吸排気音が心地よく響く。石畳を蹴る音がより小刻みになり、早鐘を打つ鼓動のようだ。

 

 だがすぐに、その鼓動は止まった。アリタシュ(赤い石)と名がついた細い小道の手前で、ジェイはブレーキを踏み、車両通行止めの看板を過ぎた先の脇道へロルフを乗り入れて停める。

「ほーら。言いましたでしょう?歩いてもこの先は進めませんわ。全く、どこへ行くかと思えば――」

「降りてください」

 ヴィがぶつぶつ言っている間に、ジェイはもう車を降り、助手席側に回ってドアを開けた。

「――ここで?どうなさ――」

 ジェイが、いきなり上着を脱ぎ捨てた。そして、呆気に取られるヴィの上に覆い被さるように裸の上体が迫る。

 

「え?ちょ、ちょっと!なにを――」

 ジェイは右手でヴィのシートベルトを外し、そのままヴィを抱き抱える。

「なっ!なにするの!降ろしなさい!」

 ヴィはその気になれば、アスラン道で振り払うことは容易なはずだった。拳に力を入れる。だが、身体が動かなかった。突然だったから……いや、違う。ヴィの心のどこかの、それを許すなにかが、アスラン道の反射的な反応を抑え込んだ。

 

 そして、ヴィは見た。

 直射日光の眩しさと、赤く聳える堅牢な壁の照り返しの光が溢れる中で、自分を抱きかかえている男の背後から、黒く、巨大な翼が現れるのを。静かに音もなく、ゆっくりとその翼は広がった。同時に、その翼長3メートルにも達しようかという鴉の翼を支えるための筋肉が、首、肩、胸、そしてヴィを抱えている腕に盛り上がる。

「しっかり、掴まって」

 ジェイはそれだけ言うと、濡れ羽色の虹が僅かに煌めく黒い翼を、静かに、だが強く羽ばたかせた。

 

 声が出なかった。息を呑んだ。ジェイの身体が、ヴィを抱いたまま、ふわり、と宙に浮いた。ヴィは思わず、ジェイの太く、硬く、鋼のような首にしがみつく。黒い薔薇が手からこぼれ、赤い血液の海のような石畳に落ちて行く。

 ジェイは思い切り、翼を空気に叩きつける。埃と、黒い薔薇の花弁が舞い散った。

 ビュン、と、加速して舞い上がる。


 ヴィは目を逸らすことも出来なかった。ジェイのボサボサだった黒髪が逆立ち、風になびくどころか切り裂いていく。不精髭も伸び、岩のよう。額には太い血管が浮き出て、脈打っているのがわかった。息が荒い。その瞳は赤く爛々と燃えている。だがそれを、ヴィはその顔を、恐ろしいとは思わなかった。陽の光に輝いて神々しくさえあった。


 ……この人は天使なの?それとも悪魔?

 

 翼は黒い。今それは激しく、空気を切り裂くように、残像さえ見えるほどに上下している。

 身体が熱い。頬が触れる胸、しがみついた首、抱かれている腕。全てが燃えるように熱い。その熱がヴィにも伝わって、身体の奥から燃えるよう。

 

 天使。悪魔。違う。この人はどちらでもない。

 

 風が、ヴィのショートボブを乱す。音は羽ばたきにかき消され、青い空をぐんぐん昇って行く。

 スピードは、さっき車で飛ばしていた時の方がたぶん速い。高さも、鳥のように高い空を飛んでいるわけではない。でも、これは。

 

 このまま……どこまで昇っていくの?

 

 額に浮かんだ汗が、流れ落ちる間もなく飛んでいく。身体が、心が、溶けていく。

 

 ヴィはもう、恐れていなかった。風のせいではなく、瞳が潤んだ。悲しさや恐怖はなかった。抗いがたい法悦。人のものではない、この世界のものではない。熱い。肌が、身体が。溶けてしまいそうに熱いものが、流れ込んでくる。

 

 どこでもいい。このまま、どこまでも、いつまでも飛んでいたい。

 

 ヴィはそれを受け入れた。

 

 四角く、角が切り立った、白く強固な石造りの砦。十五メートルはあるその頂上まで、黒い翼は一気に上昇した。朝日が創った翼の影が、白い壁にくっきりと映える。アッカレを飛び越えるかと思った矢先、突然、翼の音が消えた。ジェイが羽ばたきをやめ、滑空してアッカレの頂上に降下する。

 

 異質な、2本の鋼鉄の支柱が突き出て、その先端に紫色のローマ国旗と、真紅の特別使徒保安庁の紋章旗がはためいている。普段、街から見上げていた時は小旗にしか見えなかったが、近くで見ると異様に大きい。ジェイの羽ばたきの生きた音の後で、無機質な布が風に煽られる轟音は、巨大な機械の作動音のように威圧感があった。

 ジェイは暴れる2枚の旗を避け、砦の西角に舞い降りた。


 着地した石畳は、大理石とアンキュラストーンが不規則に並んでいる。大理石は、おそらく保安庁の整備で磨き上げられていた。ヴィはジェイから離れ、大理石に手をついた。

 冷たい。

 夜の間に冷え、日光も旗の影に遮られ、その冷たさは、あの頬を思い起こさせる。

 死の冷たさ。

 思わず、黒い薔薇を探したが、どこにもない。

「……薔薇を……落としてしまいましたわ……」

 

 ジェイの方を振り返った。ジェイは、座り込んで肩で息をしていた。翼が消えていた。髪も顔も筋肉も、元に戻っていた。

「……あの。大丈夫ですの?」

「…………大丈夫……ちょっと休めば、また飛べる……」

 呼吸が荒い。

「……あんまり、端には行かないで……今落ちたら、救えない」

 

 強風がヴィの身体を煽った。やむを得ず四つん這いになり、ジェイの傍に寄る。ジェイは、ヴィが側に来ると、仰向けになった。腕で目を覆い、深呼吸する。

「……この身体……弱いから。いつもこうなる。すぐ元気になるから……そのまま、待ってて」

 風が止んだ。旗がしだれて、陽光が2人に降り注ぐ。羽ばたきが聞こえてそちらを見ると、カラスが城壁の端に降りたところだった。小さな鉤爪が、しっかりと石を掴んでいる。小首を傾げて、銀色の瞳がこちらを見つめる。

 


 ジェイエルは、千年前にもここで仰向けになり、消えていく最後の意識で、空を見上げていた。依代はローマ軍団の百人隊長。ディオの願いで彼と共に戦い続け、このアッカレでディオを救って死んだのだ。

 

 上体を起こすと、切り立った石の向こうに、ウルスの古い街並みが広がっている。

「あそこ」

 ジェイはフキュメット通りを指差した。

「あそこで、あなたのお父さんは殺された。トラックはお父さんに道を譲ってから、故意に加速した」


 ()()()()

 ヴィの拳が震えた。手のひらに爪が食い込む。故意に。加速した。道を譲ってから。

 

 ジェイは聖テレーザ教会を指差す。

「あそこに、お父さんを殺した男がいる。エキンジだ。教会の慈善資金の横領。お父さんはそれを正そうとしていた」


 ()()()()

 一瞬、意識が遠のいた。

「なにを……おっしゃっているのです」

 だがヴィは、あの翼を見ていた。あの翼で、この腕に抱かれて、ここまで飛んできたのだ。あの激しさ、あの熱さ。死の冷たさとは逆の、でも生とは違うものに抱かれて。

「まずあなたが何者なのか、教えてくださいまし。あなたは……堕天使なのですね?」


 ジェイは教会を指差したまま、朝日を反射する十字架を見つめた。あの姿を見て悪魔と言わない人間は珍しい。ディオは悪魔と呼んだ。悪魔の力を借りてでもローマを守りたいと、懇願した。

 

「あなたは、堕天使。天から堕ちた。そしてわたしを、天から引き摺り下ろすのですね」

 言葉が出てこない。なんと答えていいのかわからない。

 


 ヴィはジェイの瞳を受けとめていた。何も言わないが、そうなのだ。この黒い瞳が、そうだと言っている。

「――でしたら、わたしはあなたを信じますわ。シスターだからではありません。この目で確かに見たのです。あなたの瞳を信じます。あなたの翼を信じます。わたしはこの目で見たのですから……あなたの熱を感じました。この肌で。あなたのおっしゃることも、それがどんなにおかしなことでも、信じますわ。だってそれは、あなた自身の言葉なのですから。神から与えられたものではない、地獄に強いられたものでもない、あなた自身が選んで、決めた言葉」

 

 ヴィは大きく息を吸って言った。

「わたしは、あなたを信じます。この世界で最も自由な、堕天使を。」


 

 ジェイはヴィの瞳を受け止めていた。

 それから、少しの間、目を閉じた。

 そう……同じだ。みんな同じだ。言葉が違うだけ。

「うん……じゃあ、全て話すよ」

 

 エキンジの横領。クルチュとエキンジの会話。アリーを通じて聴いたこと。全部聴いていたのに、クルチュを助けられなかった後悔。これからやろうとしている"狩り"。それが、エキンジを正せるかも知れないこと。クルチュがやろうとしていたように。

 

 おれがこの時、ヴィに話した全てというのは、これだけだ。黒い薔薇のことは話さなかった。


 天使。堕天使。悪魔。

 どうでもいい。

 好きなように呼べばいい。



 アリーは、ジェイの心を覗くことができた。

 アリーには、難しいことはわからない。だから、彼女だけに出来ることをした。

 

 アリーはジェイの肩に、優しく止まった。

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