10 消毒
【2025年7月27日 アンキュラ、イブン・シーナ病院】
3階の、特別病棟の、清潔で整然とした一室で、ドゥルグン・ウラシュはベッドの上で背中を枕に預け、俯いたまま、戦場にいた。
少しだけ開いた窓の外からは、近くのクルトゥルシュ公園で遊ぶ子どもたちの甲高い嬌声や、大人たちの笑い声、散歩中の小型犬の、キャンキャン吠える鳴き声が漏れ聞こえてくる。時折、公園内を走るアンキュラレイルのリズミカルな走行音が、
銃声だ!伏せろ!マシンガン。チェーンガンだ!低く腹に響く重低音。アラート!鋭く耳を刺す高音。
突然、全ての音がやんだ。
「ウラシュさん、大丈夫ですよー」
中年の看護師が窓を閉めて、平坦な声で言った。
「ダウル(太鼓)とズルナ(高音の管楽器)にびっくりしたのね。大丈夫ですからねー。今日は結婚式がたくさんあるから。日曜日ですもんねー」
そうだ。日曜日。平和だ。ここは病室だ。アンキュラだ。フィリスティンじゃない。
「体温測りますねー」
落ち着きを取り戻して身を起こしたウラシュの額に、看護師は非接触型体温計をかざす。短い電子音。すぐに体温が計測され、看護師はその数値をクリップボードにメモした。
「平熱、と。じゃあ、また来ますねー」
看護師は、サイドテーブルのコロンヤの400ミリリットルのプラスチックボトルをチェックする。全然減ってない。このまま置いといていいのかしら。でもこの患者には、レモンの香りが必要かも。看護師は一人で頷くと、出ていった。
3日前の夜にこの病室に入った時の新品のままのコロンヤ。身寄りのないウラシュに、見舞いなど来るはずもない。来るのは医師と看護師と警官だけだ。
11年前にイェニ・ハチュルが終わり除隊してから、ウラシュの人間関係は非常に限定されていた。仕事をいくつも転々としたが、同僚の顔も名前も覚えていない。離婚し、元妻も息子たちも、今どこで何をしているか、生きているか死んでしまったかもわからない。一緒に除隊したカフラマン中尉だけが、唯一友人と呼べる関係だった。
カフラマン中尉は、フィリスティンやイエロソリマでウラシュと寝食を共にした戦友だった。戦場では上官だったが、除隊後にカフラマン中尉が悪夢に苛まれPTSDと診断されてからは、ウラシュが世話を焼いた。仕事が長続きせず、生活にも困窮するようになった頃、カフラマン中尉の故郷エデッサの教会で、エキンジ司祭と出会った。
エキンジ司祭は、カフラマン中尉とウラシュにとてもよくしてくれた。金に困っていた2人に、主の思し召しだと言って仕事をくれた。エキンジ司祭の運転手だったりボディガードのような仕事だ。
エキンジ司祭はとても羽振りがよかった。高級車をカフラマン中尉の運転で乗り回し、歓楽街に出掛けることも多かった。毎月大宮殿へ参朝する時も同行した。コンスタンティノープルにはエキンジ司祭の内縁の妻と娘がいたが、家族に会うよりもイスティクラル通りに行く回数の方が多かった。
ウラシュもカフラマン中尉も敬虔なカトリックではなかったし、むしろエキンジの堕落ぶりには親しみさえ感じた。その俗物のおこぼれで贅沢な遊びもできるということもあるが、荒んだ戦場を嫌というほど体験してきた2人にとっては、癒しですらあった。
エキンジが世俗で豪遊するための資金の出どころも、やがて2人の知るところとなった。教会の金の着服や横領だ。2人がそれを知った時には、カフラマン中尉もウラシュも後戻り出来なくなっていた。
エキンジは国中の教会を転々としていた。長くても2,3年で拠点を変えた。不正がバレないための邪計だった。カフラマン中尉もウラシュもセットだった。
アンキュラに来たのは2年前だ。聖テレーザ教会の主任司祭としての赴任だった。エキンジが豪遊に使った金は彼が各地の教会から横領した莫大な額のほんの一部で、その大半は教皇庁への不正献金、賄賂だった。聖テレーザ教会にはクルチュ神父という、エキンジとは真逆の清廉潔白な神父がいたが、エキンジは彼を差し置いて主任司祭となった。もちろん賄賂のおかげでだ。
エキンジはクルチュを嫌悪していた。当然のように。だが警戒はしていなかったらしい。これまでより早く、しかも明確な証拠をクルチュに掴まれて、エキンジは焦った。そして、彼が唯一信じるものである金の力が通用しないとわかったとき、エキンジは暴走した。
あの日は、大宮殿参朝からの帰りで、エキンジのRoggで空港から教会まで送って、近くのカフェでカフラマン中尉と2人で、次の呼び出しに備えて待機していた。カフラマン中尉のiPortaに命令が来て、中尉は首を傾げながら「トラックをレンタルしてこい、だとよ」と言ってカフェから出かけた。そのすぐ後にウラシュにもメッセージが来た。
『クルチュだ。今証拠を持って出て行った。金はいらないらしい。やれ』
やれ?……やれ、とはどういう意味なのか、ウラシュにはわからなかった。だがその意味がわかった瞬間から、全ての終わりが始まった。
病室のスライドドアがノックされた。
「ウラシュさーん。こんにちは」
入ってきたのは、さっきの中年の看護師ではなかった。大きな離れた目とピンクの髪。何度か検診に来たことのある若い看護師だ。その後ろにもう一人、見たことのない若い男の看護師。黒縁眼鏡にブロンドの長髪。背はピンク髪と大して変わらない、男としては小柄だった。
ウラシュの脳内でイエローアラートが点灯した。このブロンドメガネは看護師じゃない。オニュリュク(白衣)を着慣れていないのが一目でわかる。ブロンドメガネが何者かはまだわからないが、警戒しなくては。
「調子どうですか。お昼ご飯美味しかったですか?」
ピンク髪はウラシュのお気に入りだった。美人だからではなく、どこか純真さを感じさせてくれるからだ。髪の色がピンクなのはさておき、この子は他の看護師よりも情のある対応をしてくれる。今だって他の看護師なら、ただ食事をしたかどうか、としか聞かないだろう。
だからといって、ウラシュが警戒を弛める理由にはならなかった。喋れば死ぬ。ウラシュは固く決意していた。絶対に喋らない。
ウラシュは無表情のまま、頷くことさえしなかった。
ピンク髪がブロンドメガネの方を見て、首を振った。ブロンドメガネがiPortaを出し、背面カメラをウラシュの方に向けた。写真か動画を撮るつもりか。いくらでも撮ればいい。警察にも何枚も写真を撮られたが、それがなんだというのだ。
「ウラシュさん。カメラを見てください」
ブロンドメガネがiPortaを操作しながら言う。
ウラシュはカメラレンズを凝視した。
パヴルは、İlişのターゲットサーチがウラシュの瞳を捉えるのを待った。片目でウラシュの様子を観察する。
サフィが教えてくれたドゥルグン・ウラシュという名前から、パヴルはネットで、年齢41歳、第1回イェニ・ハチュル従軍、2014年退役、フィリスティン、イエロソリマで戦闘に参加、というところまでは調べてあった。部隊とかは違うが、年齢も赴いた戦場もズィと同じだ。違うのは帰還後で、ズィは軍事アカデミーに進み、ウラシュは除隊した。
パッと見、病院のベッドにいて患者用ガウンを着ている以外は、全く健康そうに見える。だがその目は、ズィとは全く違う目だった。
その瞳はなにも見ていなかった。もちろん視力は正常だ。İlişもロックオンできた。だが、なにも見ていない。虚空を見つめる目だ。
「ウラシュさん。ちょっとした検査です。すぐ終わるので、そのままカメラを見ててくださいね」
それから、サフィに合図する。サフィは打ち合わせ通り、持っていたプラスチックのクリップボードをわざと落とした。クリップボードはリノリウムの床で大きな音をたてた。
『瞳孔拡張率 2%』
誤差の範囲内だ。大きな音に反応しない。だがウラシュはその後で、スッと目線を音のした方へ向けた。一瞬の反応の遅れというより、意図的なズレに感じる。
「あははは……ごめんなさい」
ウラシュの目がクリップボードを拾うサフィを追っている。目以外、ピクリとも動かない。
「ウラシュさーん。カメラ見てくださいね」
パヴルは何事もなかったように、iPortaを操作するフリをした。İlişは昨日、ズィにテストした後少し改良し、短時間目を逸らしただけではロストしないようになっている。
「はーいそのまま。いくつか質問しますが、お返事はしなくても大丈夫ですからね」
無反応。
「ではいきます。あなたは、エーミットは見ますか?」
無反応。
「あなたは、ドゥルグン・ウラシュですか?」
無反応。
パヴルは、いきなりiPortaのフラッシュを点灯した。
『瞳孔拡張率 マイナス47%』
よし。パヴルは心の中で拳を握った。これは正常な反応だ。この反応を抑えるためには薬物しかない。つまり、この男はクリーンだってことだ。やはり意図的に精神障害のフリをしているのだ。詐病だ。
『瞳孔拡張率 78%』
リバウンド散大。ウラシュも詐病がバレたことに気づいた。今が最大のチャンスだ。
「ウラシュさん。もうしゃべ――」
その時、内線電話の着信音がパヴルの声をかき消した。電子音が、短くしかし鋭く、
アラート!伏せろ!敵襲!!
ウラシュが突然、ベッドを転がり出て、床に伏せた。バイタルモニターが外れた。リードオフ。ポーン、ポーンと、大きな電子音が鳴る。
「パヴルさん!人が来る!」
サフィが叫んだ。
パヴルは呆然とした。やられた。反撃された。
「パヴルさん!」
廊下から足音。走ってくる。緊急事態ではないが小走りだ。
パヴルより先にサフィが動いた。笑顔に戻り、ウラシュの傍に腰を落とす。
「大丈夫ですか?落ちちゃいましたね。痛いところありませんか?」
ウラシュの表情が和らいだ。サフィに支えられながら立ち上がり、ベッドに戻る。
スライドドアが開き、中年の看護師が顔を出した。
「サナルさん?大丈夫?」
「あは、大丈夫です!ウラシュさんがまた、ベッドから落ちちゃって」
中年看護師は、それだけで納得したようだ。ああ、いつものことね。という顔で、ニコッとした。
パヴルはまだ呆然と突っ立っていた。一発喰らった気分だった。
予定通りジェベジ駅でサフィと会い、ランチを食べながら綿密に打ち合わせし、病院に行ってからの細かい動きや看護師の日常などもマスターし、サフィの指導を受ける研修生という役に完璧になりすまして、ここまで全く問題なくやってきたのに、偶然とパニックという最も恐れていたアクシデントにやられた。だがまだ時間はあるはずだ。
サフィに助けられた。今朝、興奮して鼻血を出して椅子ごとひっくり返った限界オタクと、同一人物とは思えない冷静さだった。彼女はプロなのだ。プロの看護師なのだ。サフィに比べたら、僕なんか……。いや、僕だってプロだ。サフィに負けてられるか。
パヴルは再びiPortaを構え、İlişのターゲットサーチをやり直そうと、ウラシュを見た。
ウラシュはベッドに戻って落ち着いていた。サフィがバイタルモニターをつけている。その様子を、ウラシュがじっと見つめている。
さっきまでの虚空を見る瞳ではなかった。瞳に光が見えた。異様な光が。口角が上がり、半開きになって、涎が一条垂れている。
サフィは下を向いて作業している。フォルマの背中の襟が浮き、ウラシュからはうなじと背中が丸見えだった。
ウラシュが、舌なめずりをした。
悪寒が走った。パヴルの背中に。
「はい、できました!セット完了です!」
サフィが身体を起こし、ベッドから少し離れて屈み、モニターの壁のプラグをチェックする。すぐに立ち上がり、ウラシュにニコッと微笑んだ。ウラシュは、サフィの一連の動きを、執拗な目つきでずっと追いかけている。
パヴルは混乱していた。脳がうまく働いてくれない。考えが整理できない。このミッションのことを考えようとしても、苛立ちや怒りの感情が先に立つ。
怒り?なんで?何に怒っているんだ、僕は。何に苛ついてるんだ?
だめだ。今日はもうだめだ。
サフィは戸惑っていた。
バビュール様の様子が変。しくったから?でもさっきのはアクシデントだ。看護師やってると、ありありがちがち。いちいちキョドってたら身がもたん。バッチリパーペキ処置もできたし、またやり直せばいいじゃん。
ウラシュさんがあたしを、エロい目で見てるのも知ってる。いつもだ。そんな目はウラシュさんだけじゃないし、そんなん気にしてたらこの仕事やってらんない。だってあたし、かわいいし!なんちて。
そんなことより、もうあまり時間がない。16時からシフトが始まるから、夜勤の人たちが現場に出てくる。あたしも他の患者さんのところに行かなきゃだし、申し送りも出なきゃだし。その前にバビュール様を脱出させてあげないと、下手したらヤバいことになっちゃう。
時計を見た。15時49分。バビュール様を病院の外に逃すのに90秒、ダッシュで戻ってきても51分になっちゃう。申し送りの準備に5分、残り4分はギリギリだ。だめだ。今日はもう無理。時間切れ。
「ウラシュさん、今日はなんだかお疲れみたいですね。ゆっくり休んで、早く良くなりましょう!じゃあ、また来ますね!」
サフィはそう言って、まだ涎を垂らしているウラシュを残し、まだ呆然としているパヴルを急かして個室を出た。
バタバタとサフィに急かされ、パヴルは病院から追い出された。サフィは一生懸命謝っていた。謝ることなんかひとつもないのに。むしろ謝らなきゃならないのは僕の方だ。
肝心な場面で冷静さを失った。変な感情に流された。情けない。それに比べてサフィはどうだ。プロ。それしか言いようがない。僕は時間のことも忘れていた。打ち合わせで、16時がデッドリミットだと念を押されていたのに。
やっぱり僕なんかにできることじゃなかった。これだけのリスクを、僕じゃなく今日初めて会ったばかりの女の子に負わせて。もしこのことがバレたら、サフィはどうなる?首になるんじゃ?そんなことは絶対だめだ。サフィを巻き込みたくない。
巻き込みたくない。
そうだ。ズィも同じなんだ。ズィも僕を巻き込みたくないから嘘をついた。GTに連行され、エキンジ暗殺を強要されたのに、僕を巻き込みたくないからたったひとりで全部背負い込もうとしているんだ。
そんなこと、考えもしなかった。最低だ。ズィに必要とされてないんじゃないのに、僕は1人でイキって、ズィを助けてやるなんて、おこがましいにもほどかある。
僕なんか、ただのエーミッターに過ぎないのに。ズィもサフィも、自分の仕事をプロとしてやり遂げようとしてるのに。結局は僕は独りよがりで、身勝手な正義感を振り翳して、神にでもなったつもりでいたのか。
パヴルはイブン・シーナ病院を出て直結のシヒイェ駅の待合室で、プラスチックの椅子に腰掛け、頭を抱えていた。iPortaが振動した。
通知が99+。エーミットのコメントや、スィビラのレスの通知ばかり。こんなの全部まやかしだ。ネットの中なら無敵なのに、一歩リアルで外に出たらこのザマだ。
通知を見もせず、全部消去する。すぐにまた通知がきた。
サフィだ。メッセージ。
『バビュール様。いえ、パヴルさん!今日は本当に……』
通知をタップして、メッセージを開く。
『バビュール様。いえ、パヴルさん!今日は本当にごめんなさい!せっかくお会いできたのに、サフィはお役に立てませんでした。でも!サフィは幸せです!お会いできただけじゃなく、一緒にお仕事できて。すごくドキドキしました!夢のような、いえ、夢じゃないですよね!?良かったら、お返事ください。ひとことだけでも、サフィはもっっっっとたくさん、幸せになれます!これからもいっぱい、動画アップしてください。必ず見ます!あたしも仕事がんばります!いつまでも応援してます。今日はありがとうございました!』
涙が出てきた。
やっぱり僕は、自分のことしか考えていない。こんなところで、自分を憐れんでいたってどうにもならない。
『――これからもいっぱい、動画アップしてください。――』
『――あたしも仕事がんばります!いつまでも応援してます』
そうだ。まだ僕にだって、出来ることがある。
ズィのために。サフィのために。
İlişを開く。メイン画面ではなく、アーカイブを開く。さっきウラシュをサーチした時の動画が、ちゃんと録画、保存されているのを確認する。
明確に証拠となるようなものはなにもない。だけど、あの虚空を見つめる瞳や、パニックを起こした場面、サフィを見る異様な表情。これらにはインパクトがある。サフィが映り込んでるところを削除して、僕が得た確信、詐病のこととかを大げさに誇張してやれば、陰謀論が大好きなリスナーや、スィビラを叩きたがっているオールドメディアは喰いついてくる。タイトルは、『エキンジ司祭を赦すな』。
僕の信用はガタ落ちだ。バビュールはもう終わりだ。でもそんなの……。
どうでもいい。
大騒ぎを起こしてやる。
バビュールと引き換えに。
16時半。
パヴルがバシュケントライの座席で、帰宅してから編集する動画の内容を熟考し、サフィは夜勤シフトで他フロアの病室で、看護師としての激務に精を出していた頃。
夜勤スタッフの定刻健診が終わり、夕食までのしばらくの間、ウラシュは病室で独り、先ほどの2人の訪問のことを思い出していた。
ピンク髪はいつも通りテキパキと仕事をして、優しくしてくれた。あの子のことは嫌いじゃなかった。別に、性的な欲望を感じているわけではない。そんな気持ちはフィリスティンに捨ててきた。帰還してから一度も勃起したことがない。エキンジの金でパヴィヨンとかで半裸の女が隣にきても、ただの肉の塊にしか見えないのだ。それもPTSDの症状のひとつだと、カフラマン中尉に言われたこともあった。
ウラシュも、自覚したのは最近だが、PTSDなのだろうと思っていた。ネットで調べると、遅発性PTSDというのもあったし、これだろうと思っていた。医者にはかからなかったが。
エキンジの金で、カフラマン中尉と飲み歩くのは楽しかった。カフラマン中尉は酒を飲まないし、ウラシュは女に興味が持てなかったが、それでも中尉と馬鹿話するだけで充分だった。除隊してからの唯一の楽しみだった。もし自分に生き続ける意味があるとしたら、カフラマン中尉と馬鹿話をすることがそれだった。それしかなかった。
カフラマン中尉は死んだ。ウラシュの隣で。石壁に頭を擦り潰されて。
フィリスティンで、ゲリラが占拠していたホテルかなにかの建物に、カフラマン中尉と2人だけで突入したことがある。チームで残ったのが2人だけだったのだ。もうここで死ぬのか、と思った。夕日が空を燃やしていた。俺たちの身体も、あんな風に燃えるのかな、とカフラマン中尉は言って笑った。
あのクソ重い、MKEK-G3。角材とか死んだロバとか、みんなで言って笑ってた。
なぜか、戦場のことを思い出すと、誰かが笑ってる顔が真っ先に浮かぶ。カフラマン中尉は特に笑い上戸で、止まらなくなって死にかけたこともあったくらいだ。カフラマン中尉がオレンジジュースを飲み、俺はウイスキーをあおる。そして戦地での笑い話をする。それが楽しみだった。それだけが。
あの時、あのフィリスティンのホテルかなんかの建物の中で、割れた窓から差し込む夕日だけを頼りに、2人で建物の奥へと進んでいった。カフラマン中尉に階段をキープしてもらって、俺は地下へ降りた。ドアも全部壊れていて、地下だからフラッシュライトを点けて、物置みたいな一角を照らした。
なにか黒い塊が隅にあった。フラッシュライトで照らすと、どうやら黒い布を頭から被った人間だ。生死はわからなかったが、小さかった。
子どもか。息子を思い出した。あの頃はまだ、生きて帰って息子に会いたい、会って抱きしめたいと思っていた。だからこの黒い布を被ったものが子どもなら、死んでいて欲しかった。撃ち殺したくなかった。
でもそれは、フラッシュライトを浴びてビクッと動いた。生きている。ならば殺すしかない。
MKEK-G3を構える。撃つしかないなら苦しませたくはなかったから、塊の中心に狙いを定める。
「出てこい!武器を持ってないなら、撃たない!」
嘘だ。そう言って撃たなかったら、腹に爆弾を抱えた子どもに抱きつかれて爆死した仲間がいた。だからもしこいつが両手を上げて出てきても、必ず撃たなければならないのだ。
黒い塊は動かなかった。ただ小刻みに震えていた。仕方なかった。
俺は引き金を引いた。クソ重い銃のクソ重い引き金。狭いコンクリートの暗闇で銃口が火の花を咲かせ銃声が轟いて7.62ミリ弾が発射され、次の瞬間には塊の真ん中に着弾した。そしてそれは、いきなり上と左右に広がった。
悲鳴。泣き声。嗚咽。上に伸びたのは少年だった。7.62ミリ弾はこの少年の胸に当たったようだった。だが、左右に広がったのはなんだ。
黒い翼。
そう見えた。
悪魔。オレは悪魔を撃ったのか。
実際には、左右に飛び出したのも子どもだった。後で埋葬するため地下から引っ張り出した時、小さな女の子だとわかった。真ん中の少年は兄か。
だがそれがわかったのは埋葬する時だ。今は動くものは全て撃つ。前線では当たり前のことだ。
悪魔の翼かなにかわからなかったが、反射的に引き金を引いていた。俺の弾は布に穴を開けただけだったが、いつのまにか降りて来ていたカフラマン中尉が正確な射撃で2発、子どもを2人撃ち殺していた。一緒に。
それは、別に特別な出来事ではなかった。戦場ではよくあることだった。子ども3人を皆殺しにしたことを悔やむ必要はなかった。戦場なのだ。
そして一昨日。
フキュメット通りをあの神父の後からゆっくりと登っていた時。カフラマン中尉は、ハンドルを両手で握りしめて、こう言った。
「なあ……悪かった。おれが病気でなかったら、あんなやつのいいなりになることもなかったのに」
「そうですね、中尉。もうやめませんか?今なら――」
その時、神父と目があったのだ。笑顔。俺はもうやめにしたかった。本当だ。エキンジがどうなろうが知ったことではない。だから俺も、出来るだけ笑顔を作って、神父にどうぞ、と合図した。神父が会釈して、道路に出てきた。次の瞬間、カフラマン中尉がアクセルを踏んだ。
今考えても、なぜ中尉がアクセルを踏んだのかわからない。その直前に、中尉は悪かったと言ったのに。だが、なぜであろうと、トラックは神父にぶつかった。そこからはもう、全部自動だった。なぜかわからないがオレはトラックを降り、エキンジに言われた通りに神父の鞄を奪い、またトラックに乗り込んだ。カフラマン中尉はまたアクセルを踏み、神父の身体を乗り越えて加速した。
そして、あれが来た。
黒い翼。悪魔。デカい悪魔。
11年前に俺たちがフィリスティンで撃ち殺したのは、悪魔の子どもだったのか。全部わかった。だからこのデカい悪魔は復讐に来たんだ。
そんなことを考えていた間に、いつの間にかトラックは石壁に激突し、カフラマン中尉は悲鳴も上げずに潰れて死んだ。エアバッグが開き、俺は火薬に咽せながら頭をエアバッグに守られて、無傷でトラックを降りた。そしてそこに悪魔がいた。
あの目。赤い目。フィリスティンで見た夕日より赤く、燃えていた。そして、その目よりも恐ろしかったのは、悪魔の黒い翼だった。巨大な、黒い翼。世界を全て覆ってしまう、黒い巨大な翼。
悪魔が何か言ったが、俺にはわからなかった。もう意識が朦朧としていた。俺はその場で気絶した。黒い翼が俺を覆ったのだ。
あの時、何を言われたのか。喋ったら死ぬ、と言われた気がした。だから、それから一言も、口を聞いていない。
さっきのブロンドメガネは、俺に何かを聞きたかったのだろう。だが無駄だ。誰も悪魔には逆らえない。
ベッドの上で、ため息をついた。そのまま、息が全部抜けてしまえばいいと思った。もうカフラマン中尉はいない。先に逝ってしまった。俺も追いかけなければ。
コツコツと、どこからか音がした。小さな音だった。音のした方は窓だった。まだ昼のように明るい。その窓辺に、一羽の鴉が止まった。よく見るズキンガラスやニシコクマルガラスではない。全身真っ黒の、ワタリガラスだ。大きい。その真っ黒な瞳が、瞬きもせず凝視している。
そうか。来たか。迎えに。
部屋の中を見渡した。サイドテーブルのコロンヤのプラスチックボトルが目に入った。コロンヤは消毒液だ。エタノール。一度に大量に摂取すれば、死ねるはずだ。
ウラシュはボトルを手に取り、キャップを開けた。レモンとアルコールの匂いが立ち込める。酒の芳しい香りではない。ただのアルコール。消毒液の匂い。
中栓がピッタリとはまっている。爪でこじ開けようとしたがすぐに諦め、歯で齧りとった。深呼吸を3回してから、一気に呷る。
苦い。尋常ではない苦味だったが、すぐに忘れた。喉が燃えていたからだ。喉だけでなく、舌に、口内に、食道に火がついた。激しく咽せる。吐血。喀血か。すぐに胃が燃え始める。これでいい。だが、意識が遠のく。
飲み干すのだ、なんとしても。まだ気を失うな。
ベッドに仰向けに倒れ、ボトルを咥えたまま力を振り絞って顔の上でボトルを支えた。咳が止まらない。内臓を全部吐き出してしまいそうな咳。血が飛び散る。顔も胸もベッドも、コロンヤと血でぐしゃぐしゃだ。
意識がなくなったときもまだ、両手は顔の上のコロンヤのボトルを支えていた。
ウラシュは死んだ。鴉はもういなかった。
別の誰かのところへ行ったのだろう。
悪魔はいつも、傍にいるのだ。




