11 一途な想いの果てに
【速報】アンキュラの病院で男性死亡
聖テレーザ教会神父死亡事件の同乗者
2025年7月27日 18:45 RTK
【アンキュラ】アンキュラ署は27日、市内のイブン・シーナ病院に入院していた男性が死亡しているのが見つかったと発表した。男性は今月24日、フキュメット通りで発生した聖テレーザ教会のクルチュ神父(69)に対するひき逃げ事件の際、逃走車両の助手席に乗っていたドゥルグン・ウラシュ氏(41)。警察が死因を詳しく調べている。
【神父死亡事件の同乗者が死亡 病院個室で発見 死因は急性アルコール中毒か】
2025年7月28日 06:00 RTK
アンキュラのイブン・シーナ病院で27日夕、入院中だったドゥルグン・ウラシュ氏(41)が死亡しているのが見つかった。
警察の発表によると、同日午後5時頃、夕食を運んできた病院職員が、特別病棟の個室で意識を失っているウラシュ氏を発見。その場で死亡が確認された。
ウラシュ氏は今月24日、聖テレーザ教会のクルチュ神父が犠牲となったひき逃げ事件に関与した疑いがあるとして、警察が回復を待って事情を聴く方針だった。同氏は元ローマ軍人で、事件後に急性ストレス障害を発症し、言葉を発することができない状態だったという。
捜査関係者への取材で、遺体が発見された際、病室内から消毒用アルコール(コロンヤ)の容器が空の状態で発見されたことが分かった。警察は、ウラシュ氏がこれを大量に摂取したことによる急性アルコール中毒とみて、当時の管理体制や経緯について、病院および保健当局と連携し捜査を進めている。
『――続いて、アンキュラのフキュメット通りで起きた神父轢き逃げ事件の続報です。今月24日……』
ズィヤは、ホテルのドリップコーヒーを淹れながら、TVの早朝ニュースを聴いていた。昨夜から、TVもネットのニュースサイトも、この事件のことばかりだ。
6時に起き、真っ先にiPortaを確認したが、パヴルからの返信はなかった。昨日は午前中はホテルのジムで汗を流して前夜のジムビームを抜き、午後は聖テレーザ教会の周辺を下見して過ごした。伍長には連絡せず、歩いた。
夕食を済ませてホテルに帰り、パヴルのスペクルムに接続してみようとiPadaを見ていた時、ニュース速報が入った。
助手席の男が死亡。GTだ。
ズィヤは第一報からそう確信した。
ギュネルとの会話と、あのiPadaの資料。あれから何度も、頭の中でつけ合わせた。矛盾がいくつかはっきりしてきた。
お前の事情なんか知るか。
ギュネルは、エキンジは怒鳴りつけた、とはっきり言った。大げさに、バリトンで。聞き間違いではない。資料ではメッセージのやり取りだ。エキンジと運転手は会話はしていない。
運転手からアルコールが検出されたというのも引っかかった。エラの事件を、意図的に思い出させるためではないか。運転手のカフラマンは退役軍人で、PTSDだった。それなら殉教者業務部の医療データを見れば、なにかわかるかもしれない。
大当たりだった。カフラマンは11年前から、ジスルフィラム、プラゾシンを処方されていた。これらの薬はアルコール絶対忌避の薬で、酒を飲むと直ちに激しい頭痛、嘔吐、呼吸困難、場合によっては失神する。運転をしてはいけないどころか、不可能だということを医師に確認した。
GTは捏造している。真実を隠すため、そしてズィヤを嵌めるために。
『――死因は急性アルコール中毒と見られ、現場からは消毒用アルコール液の容器が――』
消毒液。コロンヤをボトル一本飲み干した。エタノール。80度。自分の意志で、そんなことが可能か?これも暗殺ではないか?
やはりパヴルと話したかった。ここまでわかった以上、ズィヤがエキンジを撃つ気はないということはパヴルにも伝わるはずだ。
敵はエキンジではない。GTだ。もう、パヴルを巻き込みたくないなどと言っていられる次元ではない。パヴルのスキルが必要だ。そして、守ってやらなくてはならない。
だが、昨日から何度メッセージを送っても返信がない。スペクルムにもログインしない。
エーミットを開く。何か連絡手段があるかも知れない。
そしてズィヤは、その動画を見た。
@陰謀バスター
見たか?バビュールが暴いたあの瞳孔。ウラシュは『正気』だった。それが動画公開の直後に自殺?……いや、消されたんだ。エキンジの汚職の証拠を握っていたからだ!#EkinciyiAffetme
@カトリカタリ
コンスタンティノープルの聖座は腐りきっている。エキンジのような俗物が司祭を名乗り、邪魔になった退役軍人を『自殺』させる。これが我々の信じる『光』なのか? #EkinciyiAffetme
@Faithful_アンキュラ
エーミッターが病室に不法侵入して、死にゆく男の瞳を晒しものにする。これこそが現代の悪魔の業だ。バビュールの逮捕を強く要求する。エキンジ司祭への侮辱は、主への侮辱と同じだ
@ネコネコ_1999
イブン・シーナ病院常連です。かわいいナース多いんだよねー特にピンクの髪の子
サフィは、この日の勤務を終えようとしていた。昼勤のスタッフが揃っていた。申し送りをすれば、その日の仕事は終わりだった。いつもなら。
「504シャヒンさんは、夜間に一度痛み訴えありましたが、頓服で落ち着いています。現在は睡眠中です。以上になります。ご質問は?」
昼勤だけではなく、仕事を終える夜勤の看護師たちも皆、緊張した面持ちだった。退屈そうな態度を取る者も、iPortaを気にする者もいなかった。あの中年の看護師は涙ぐんでいた。なぜなら、申し送りをするサフィの背後には、2人の警官が手錠を用意して待っていたからだ。
「İyi mesailer, kolay gelsin.(では、お疲れ様です。良い勤務を。)」
サフィは申し送りをやり遂げた。それはサフィが望んで、許可してもらえたことだった。次の瞬間、冷たい金属の音がして、サフィは拘束された。
数時間前。バタバタしてチルり損ねて、やーっとおやすみタイム降臨して、シミットとチャイだけの地味な夜食パクついてた。バタバタしていたのは、この日がガチお仕事パンパンだったわけじゃない。ウラシュさんの事件の捜査が始まり、夜勤スタッフは全員取り調べを受けなきゃだったから。
最初の事情聴取ではすっとぼけた。異常なところはなかったです。あの研修生のことはよく知りません。初めて会った子だしぃ。
それで隠し通せるとか思ってなかったけど、とりま時間稼ぎ。ナースのお仕事はガチりたかった。
んでやっとご飯だってほっとしてたら、刑事さんが看護師室のドアのところで、こっち見て誰かと話してた。そしてそのままガン見でやってきた。
「サフィーエ・サナルさん。お食事中すみません。研修生のことで、お聞きしたいことがあります」
バレたか。そりゃそうだよね。監視カメラだってあるし。しゃーないか。でもね、刑事さん。もう手遅れだぴょーん。
「あの……"研修生"は、リストに予定も、名前もない。誰なのか、教えていただきます」
「あー、やっぱバレた?ごめんちゃい。かれぴなの」
「……カレピ?なんですそれは?」
「彼氏。もー、おじさんいくつ?デートしてたんだけどー、あたしが仕事の時間になっちゃってー、かれぴはね?あたしにぞっこんラブだからー――」
「……それで、不法侵入させたと?そんな言い訳――」
「だってー、どーしても離れたくないってゆーんだもん!」
おじさん。なにその顔。ウケる。
「……わかりました。とりあえず今は、そういうことにしといてあげましょう。ただし――」
「やーん!おじさんこわーい」
疲れてきた。キャラ間違えたかも?
「……ゴホンっ。ただし、朝まで病院からは一歩も出ないでくださいね」
「え?あったりまえじゃーん!そんなの。朝まで仕事だしぃ」
おじさん。そんなため息つくと、老けるよ?今も老けてるけど。
こうしてサフィは、夜を乗り切った。
だけど、朝になったら?捕まるのかな。タイホされちゃう?んー。まいっか。
サフィは、投げやりになっているわけではない。バビュール様のためだ。最推しのため。
サフィがバビュールchを観るようになったのは、必然だった。看護師として、ウラシュのような戦場で身体や精神を傷つけられた人たちを何人も見てきた。家族や友だちにそういう人がいたわけじゃない。仕事場で、サフィがプライドを持って臨んでいるこの場所で、彼らに寄り添ってきたんだから。
サフィは、戦争や軍団が無くなればいいと思っているわけでもない。私達を守るために自らを犠牲にして戦ってくれるなら、それはとても崇高で、尊いことだと思っていた。でも、今の戦争は違う。
サフィが一人暮らしをしているジェベジ駅前の一角は、学生街だった。カフェやダイナーや、オシャレなお店がたくさんある若者の町だ。だけどここ数年、特に第2回イェニ・ハチュルが始まってからは、カフェの話題はゲームやファッションのことよりも、ハチュルやスヴェイシュ運河のことのほうがずっと多い。私達は近い将来、自分の夢や希望を捨てて、戦場に行くことになるかも知れない。人ごとではなかった。それが誰かを、家族や愛する人たちを守るためだというならまだ救いはある。でも、今の戦争は違う。
暇つぶしに見ていたエーミットでバビュールの動画を初めて観た時、この人だと思った。スヴェイシュの動画だ。今回のハチュルは、教皇庁が金儲けのために始めたと言っていた。信じられた。看護師として接した多くの兵士たちが言っていることと同じだから。
ジェベジのカフェでは、革命なんて言葉もちらほら出るようになっていた。でもみんな、ひそひそ小声で話す。バビュール様は違う。匿名?虎のマスク?違う。あんなのは今の技術では裸同然だ。バビュール様も、覚悟を決めてあんな動画をあげ続けているんだ。
あたしはバビュール様のためならなんでもする。最推しなんだから。それでタイホされたってかまうもんか。なめんな。
そして、今朝6時。サフィは412号室のシーツを交換していた。ここにさっきまで寝ていたユルトゥエルさんがEx。親しかったわけじゃないけど、いつも悲しい。もちろん口にも顔にも出さないけど。お孫さんがいつもお見舞いに来てたっけ。兵隊さんで、背が高いのにおどおどして、ぼく邪魔じゃないですかって。そんなことないのに。
そこに、さっきのおじさん刑事がiPortaをかざしながらやってきた。
「サナルさん。この動画を知ってますね」
バビュール様の最新動画。知ってますねって、バカなの?このおじさん。こっちは仕事してんだよ。
「あの。このベッドに今朝まで寝てらした患者さん、Ex……亡くなったんです。そちらこそ、ご存知ですよね?あなたもお仕事なのはわかりますけど、もう少し……いえ、すみません」
これは効いた。嘘泣きなんかよりこういう演技の方が、この手のおじさんにはバッチリ効くんだ。
「い、いえ……こちらこそすみません。外で待ちますので」
刑事が部屋を出ると、サフィは死角に入ってiPortaを確認した。
『エキンジ司祭を赦すな(EkinciyiAffetme)』
そして始まったのは、昨日のウラシュさんの動画。ミュートしてるけど字幕付きなので、バビュール様が何を訴えてるのかもちゃんとわかる。あたしが映り込んでないのも。いや、映ってたけどバビュール様が消してくれたんだ。まあここに刑事がいるってことは、無駄だったってことだけど。でも。
バビュール様はあたしを守ろうとしてくれてる。だったらあたしだって。
サフィはきちんとベッドメイクを終えてから、病室を出て刑事に言った。
「全部話したげる。その代わり、8時まで待って。仕事を最後までやりきりたいの。ダメ?」
おじさんの瞳がちょっと光った。小説やマンガの比喩じゃなくて、文字通り光った。潤んだってやつ。このおじさんも、悪い人じゃない。
【速報】重要参考人死亡の直前、個室に“偽の研修生”か 逮捕の24歳看護師「動機」語らず
2025年7月28日 09:30 RTK
『――警察は今日、重要参考人とされていた入院患者の個室に不審な人物を立ち入らせたとして、病院に勤務する看護師の女を逮捕しました。女は黙秘を続けているとのことです』
パヴルは、エーミットのニュース・アーカイブ動画を見ていた。同じ場面を、何度も何度も。
イブン・シーナ病院の正面玄関。青いパトライトが回り、何回もフラッシュが焚かれる。サフィが出てくる。右側の警官がサフィの首を押さえつけようとして、左側の私服警官が手を上げて制した。サフィは横目でその私服を見てから顔を上げた。笑顔だ。胸を張って。目をしっかり見開いて。ラベンダーの瞳がフラッシュを撥ね返す。
『逮捕されたのは、アンキュラ市内のイブン・シーナ病院に勤務する看護師、サフィーエ・サナル容疑者、24歳です。警察の調べによりますと――』
僕はなにをしたんだ。なんてことをやっちまったんだ。あんな動画をアップしたら、こうなるのはわかりきってたじゃないか。サフィは8時までは仕事だった。逃げられなかった。僕だけ逃げた。僕だけ。
動画を上げたのは6時だ。それから2時間も、彼女はどんな気持ちで――
2時間?2時間も、警察はなにをしていたんだろう?警察は僕の動画には即気づいたはずだ。今から考えると、監視カメラを見れば、僕とサフィが映ってるのは当然だし、早い段階で警察はサフィをマークしていただろう。なのになぜ、2時間も?
サフィは逃げられなかったのか、その2時間で。いや違う。サフィは逃げなかった。仕事を完遂した。この左側の私服警官。ただ手を添えているだけ。サフィは私服に笑顔を見せた。
『サナル容疑者は今朝、夜勤を終えたところで捜査員によって身柄を確保されました。調べに対し、サナル容疑者は男を立ち入らせた事実は認めているものの、動機などについては口を閉ざしているということです。警察は――』
サフィは覚悟を決めて逮捕された。でも黙秘を続けている。僕だ。僕を守るためだ。
『――ウラシュ氏に対して自殺を教唆、あるいは何らかの手段で死に関与した疑いがあるとみて、殺人および証拠隠滅の容疑を視野にサナル容疑者の取り調べを進める一方で、防犯カメラの映像を解析するなどして男の行方を全力で追っています』
震えた。怖いからでも、寒いからでもない。
血が沸き立つ感じがした。
くるならこい。
リアルはともかく、ネットの世界で僕に勝てると思うな。
ここは僕のフィールドだ。
パヴルは虎のマスクを手に取った。マスクといっても、頭からすっぽり被るようなよく出来たものじゃない。鼻から上しか隠れないし、後頭部は丸見えだ。ゴムひもで耳にかけるやつ。お祭りの露店で買えるやつ。パヴルはWiaで270リラで買った、ちゃちなお面。
だがこれがバビュールだ。見た目はちゃちだが中身は本物の虎だってことを、やつらにわからせてやる。
パヴルはお面をつけて、ポインターを"ライブ配信開始"のボタンに置いた。深呼吸1回、そしてクリック。
「はーいバビュールでーす!今日もバビュッと噛みつきます!今日は、緊急で動画回してまーす!」
『うおっ、バビュール!』
『なんかきたー』
『ちょ、大丈夫か?おまえも逮捕されるぞ!』
バビュールの背景には、サフィの逮捕画像が貼ってある。顔を上げ、胸を張り、笑顔でカメラを睨むサフィ。コメントが加速する。
『バビュール!生きてたのか』
『どうすんのこれ』
『サフィーエちゃんかわ!!』
『なにライブやってんだよ。そんなことしてる場合か』
「バビュルスのみんな。朝の動画見てくれた?うん、ありがとう。でさ。なんか大騒ぎになっちゃったけど。今日はみんなに大事な話がある」
『きた……』
『バビュールやめちゃうの?!』
『大事って、これ以上まだなにあんだよ!』
パヴルは耳に手をやった。ゴムひもを外す。
さらば虎よ。
『え?』『えええええええええええ』
『さらば虎よ』
『えーーーーーっ!』
『やっぱ引退か。さらば虎よ』
『さらば虎よ』
『さらば虎よ』
コメントが爆速だ。『さらば虎よ』がコメント欄を埋め尽くす。
「えー、みなさん改めまして。バビュールこと、パヴル・エルギュン、といいます。はい。バビュールは……みんな、覚えててくれたんだ。僕が引退する時、さらば虎よって言うからって……」
眼球が熱くて、泣きそうになる。でも堪える。泣いてる場合じゃない。
「ありがとうございます。でも、まだ言わないよ?終わりじゃないんだ。この子、みんなニュースで見たと思うけど、サフィーエさん。バビュルスなんだ。仲間。僕のせいで逮捕された」
『おい泣くんじゃねえ』『あれ?急に雨が』『泣くな!こっちまで泣けてくる』『泣かないで……』
「今朝の動画。ウラシュさんが死ぬなんて、思ってもなかった。そんなつもりじゃなかった。でもね。あの動画で僕が言ったことは本当なんだ。真実。今このアンキュラで、大変なことが起きてる。だから、みんなの力を貸してくれ!貸してください!」
『わかってるよー!』
『いやいやいや。人が死んでんねんで』『言い訳かよ。泣き落としとか』
『うおおおおおおお』『バビュール様!ついていきます』『バビュール様!』
『警察署にデモか?!』『警察署にGo』
『サフィーエちゃんを救え!』
『サフィーエを救え!』
『サフィーエを救え!』
「ありがとうみんな。警察署は違うよね。警察だって仕事しただけ。敵は警察じゃないよね」
『エキンジ?』『エキンジを赦すな!』
『だよねー。てことは?』『どうすんの?』
『教会』『聖テレーザ教会』『教会集合!』
「今日はさ。クルチュ神父のお葬式。それは邪魔しちゃいけないと思うんだ。だけど――」
『そうだぞ』『そうそう』
『なんだよそれ』『おもんね』『?』『?』
『邪魔しなきゃいい』『マスゴミも来る?』
「バビュルスのみんなを、信じてる。エキンジを赦すな!」
コメント欄が、今度はハッシュタグで埋め尽くされた。『#EkinciyiAffetme』
同時接続数のカウンターが高速回転している。それまでに10万を超えていた数字が、万単位で増えて行く。20万、30万。
パヴルは、再びマスクを手にして、カメラの前にかざす。それから、ゆっくりと顔につけた。
『!』『!』『!』『!』『!』『!』『!』『!』『!』『!』『!』『!』
『ん?』『どゆこと?』
『把握』『わかったよ!』『りょ』『OK』
パヴルの、コメント欄に特化した動体視力をもってしても、もうその先は解読不能だ。同接はついに50万を超えようとしていた。サーバーが悲鳴をあげ始める。
「さすがバビュルス!わかってくれた!葬儀は14時からね。で、ここからが大事なんだ。大声で叫んだり、大きな音を出すのは一切禁止!いい?大事なことだから2回言うよ?シュプレヒコールも罵声もなし!」
息を吸い込む。コメント欄はもう光の帯にしか見えない。
「静かにやろう!ただ集まって、見るんだ!沈黙の圧力で、権力を押し潰す!虎の目で睨み殺せ!バビュルスが本気出せば凄いんだぞって、みんなが集まればどれだけ恐ろしいか、わからせてやるんだ!いい?」
目を閉じて、みんなの声を聞く。聞こえる。目を見開く。
「……みんななら、僕たちなら出来る。信じてる!……じゃあ、あとは頼んだ!」
ブチっと、パヴルは配信を止めた。機材が熱を持ち、排熱で室温も上がっている。気がつけばTシャツの背中も、汗でぐっしょり濡れていた。指先が震えていた。
やった。もう取り返しはつかない。
だがまだ、もうひとつ、やることがある。
コメント欄を拡大し、フル画面にする。検索窓に一文字だけ打ち込み、エンターキーを押す。
『Biz!』『Aziz』『Özgürlük!』『Zalim』『Hazırız』『Hızlı!』……
……
……『Çay İçeriZ(お茶を飲もう)』
あった。やっぱりあった。来てくれた。
もう怖いものはない。
パヴルはiPortaで短いメッセージを打つと、準備を始めた。
【機密】特別使徒保安庁:聖テレーザ教会葬儀ミサに伴う特別保安警備状況
[プロトコル:11:30 配置完了報告]
■ 現地状況更新
指定目標地点を中心とする半径150メートル圏内の封鎖準備完了。
外周各ポイントに武装人員を配置。全6箇所の検問業務準備完了。
■ 周辺監視状況
指定区画の外周における全センサーの正常作動を確認。
進入禁止区域内での不審な動体検知は現在ゼロ。
目標地点周辺の熱源および動体密度は予測範囲内を維持している。
■ バイオメトリクス照合状態
全光学センサーによる顔認証および歩容解析プロトコルは正常に稼働中。
中央データベースとの照合精度は最上位(ランクS)を維持。
現時点において、照合エラーおよび未識別個体の滞留は確認されていない。
■ ネットワーク負荷
通信トラフィック、計算資源の消費率ともに規定値以下。
システムの処理能力には十分な余剰があり、遅延は発生していない。
■ 運用指示:交戦規定および執行条件
• 聖域の保持: 宗教儀礼の円滑な遂行を最優先事項とする。儀式を妨げる一切の物理的介入、および聖域への無断立ち入りを厳禁とする。
• 武力行使の制限: 武器(火器)の使用は厳格に制限される。本部からの直接指令なき発砲、および承認なき致死性武力の行使はいかなる状況下でも認めない。
■ 運用指示
現行の監視密度を維持し、微細な異常値の発生も見逃さず即時報告せよ。
■ 運用指示
当該区域への全侵入経路を完全な遮断準備。
不審者の接近を確認次第、事前の許可なく身柄を確保することを認める。
区域内の秩序維持を最優先事項とする。
特別使徒保安庁アンキュラ支局、通称使徒の丘。アンキュラ市中心部から南に約4キロほど離れた丘の頂上に聳える大聖堂だ。だがこの名で呼ぶのは、ここに勤める審問官たちだけだった。大多数の市民は、ここを単にコジャテペと呼ぶ。
このコジャテペのすぐ北側の、立体駐車場の屋上にあるカフェのテラスが、カアン・ギュネルお気に入りの場所だった。ギュネルがアンキュラ支局長就任後、最も自慢できる功績は、大聖堂内の執務室のあるフロアからこのテラスまで直通のスカイウォークを建造したことだった。
それも今日までだ。今日、聖テレーザ教会での事件が全て収束すれば、私の名前は全ローマに轟くだろう。ギュネルはひとりごちた。
ズィヤ・シムシェキは、ジュムフリエット・タワーでは傲慢だった。あの人を見下すような目つき。私を誰だと思っているのか。
だが、昨日は午前をフィジカル・トレーニング、午後を現場の下見という、非常に好ましい行動を始めている。
やはり私の手にかかれば、戦場の英雄も子猫みたいなものだ。私の天才的演技力が、あの頑固な石頭を豆腐のように柔らかく変えたのだ。私の熟達した演技で、私の朗々たるバリトンで発せられた至高のセリフ。感謝されてもいいぐらいだろう。11年ぶりに、鬱憤を晴らす機会を与えてやったのだから。
現場の保安状況のレポートを読み終えると、ギュネルはiPadaをスリープにした。真っ黒な画面が鏡のように、テラスを囲む木々の緑や、雲一つない青空を映し出している。
ギュネルはそれを顔の前に持ち上げて自分の顔を映すと、スリックバックから飛び出しているサンドベージュの後れ毛を指ですいた。そしてその髪色に近い明るいベージュのスリーピースのスーツのポケットから櫛をサッと出し、その後れ毛を撫でつけながら、頬のラインや顎の角度を確認するため、何度もクイっクイっと首を動かす。
今日の出で立ちは、昨夜帰宅してから2時間を費やしてコーディネートした自信作だった。
シャツは鮮やかな山吹色、タイはいつもの真紅のタイだ。このスタイルで葬儀ミサに出席すれば、参列した全員の注目を集めただろう。出席できないのが非常に残念だ。よりによって同じ時間に、首席審問卿とのミーティングとは。傲慢な女め。
テーブルに、毒々しいオレンジ色の液体が注がれたグラスが運ばれてきた。ホットオレンジオラレット。毎日これを飲む。子どもの頃からの習慣だった。このカフェでも、ギュネルが座るだけでこれが出てくる。やはり尊敬されていると、こういう役得もあるのだ。
ギュネルの生まれ育った家庭は裕福だった。父は有能な営業部長、母は慈愛に満ちた賢母だった。
ギュネルは成績優秀で、知力なら誰にも負けない自信があったが、背が低かった。身体も、健康だったが運動神経がほんの僅か、同級生たちに比べるとちょっとだけ、劣っていた。たったそれだけのことで、ギュネルは学級委員長選挙に僅差で敗退した。敗退は許されざる事だった。
いいだろう、ならば私がお前たちよりどんなに優れているか、教えてやろう。
ギュネルは体力や運動能力の向上には微塵も興味を示さず、演技力を切磋琢磨した。独学で。背の低い自分が他の木偶の坊たちを見下すには、自分を実際よりもずっと大きく見せることだ。そう固く信じ、彼は演技力の研鑽に全てを注いだ。
結果、それは大いなる成果をもたらした。誰もギュネルに近寄らなくなった。やはり私は衆を抜いて孤高の存在なのだ。そうギュネルは確信した。
オラレットを啜り、アンキュラの街並みを眺める。ジュムフリエット・タワーからの景色も好きだがここの眺望は最高だ。ウルスの貧乏人どもが住まう低い屋根の家々、それに覆い被さる如きアッカレの白い壁。そして足元のモンス・アポストリクス。全て我が手中にある。今日はアンキュラ、そして明日は……ローマだ。
首席審問卿。あの女はそろそろ身を引くべきだ。こんなにも優秀な私が控えているのだから。
ギュネルはもう一度、その優秀で、天才的な知能と熟達の演技力を備え、明日のローマの新たなる光となるべき男の美しい顔と邂逅すべく、iPadaを取り上げて凝視した。首席審問卿が傅く様を思い浮かべて。
11:45:14 2025/07/28
【警告:感情バイアス異常】
[対象:ギュネル、カアン アンキュラ]
解析ステータス:
自己親和性スコア:0.97(臨界値超過)
外部認識:0.04(遮断状態)
エラー:標準的表情を逸脱
予測ステータス:自己陶酔(強迫的)
[システム判定]
精神的トランス状態
推定心拍数:114bpm(上昇中)
信頼度:99.98%
ヴェシリア・セレン首席審問卿が、ギュネルのiPadaに仕込んだカメラを通して、彼の標準を逸脱した表情に向き合ったのは、今日だけでもう3回目だった。1回目は朝、出勤の直前。本気で山吹色のシャツで出掛けるつもりだとわかって、熟慮の末、14時にミーティングをブッキングした時が2回目。
この哀れな男の虚栄心が、これほどコンシリウムの進捗に影響するとは。
嬉しい誤算だ。
この男の慢心によるアドリブ、あの滑稽な演技過剰という劇薬が功を奏し、ズィヤ・シムシェキは予想より早く真実にたどり着いた。今や彼は、自分たちの敵は特別使徒保安庁であると確信した。コンシリウム通りに。
ギュネルの映像をゴミ箱に捨て、別の映像ファイルを開く。昨夜、シムシェキがステーションシックスを分解したあと、iPadaと差しでバーボンを飲んでいる映像。シムシェキは亡き妻と酒を酌み交わしているつもりだが、画面の奥から彼を見ていたのはヴェシリアだった。
シムシェキが、カフラマンが酒を飲めないことに気づくのは、時間の問題だった。彼の仕事、殉教者業務を考えれば気づいて当然だ。PTSDについての知識があれば。
だが時期については賭けだった。早ければ問題ないが、遅過ぎると効果が薄れる。それでもコンシリウムに支障をきたすわけではないが、ギュネルのおかげでベストなタイミングになった。シムシェキの元来の、衝動的で正義感が強くカリスマ性があるというパーソナリティが、最高に機能する。
ヴェシリアは、胸に手を置いた。母の心臓が、静かに規則正しく鼓動を刻んでいる。
もうすぐだ。もうすぐよ、母さん。そして父さん。
スィビラを開き、トレンドを見る。
【#EkinciyiAffetme】
1.ローマのトレンド
【バビュール】
2.ローマのトレンド
【サフィーエ】
3.ニュースのトレンド
【聖テレーザ教会】
4.ローマのトレンド
【エキンジ】
5.ローマのトレンド
衆愚の狂奔。浅薄な同調。沸騰する無知。
バビュール、パヴル・エルギュンよ。臆病な虎を奮い立たせるのに必要だったのは、愛か。悲愴なゴリラも、愛によって涙を拭いて目を開いた。
愛。所詮、人も愚かな獣だ。愛と共に、地獄に落ちるがいい。
インターホンのアプリを開き、秘書官との回線を開く。
「タリームに入ります。緊急以外は1時間後に」
返事を待たずに回線を切り、デスクトップもスリープさせると、カソックは纏わず専用エレベーターで地下4階まで降りる。エレベーターのドアが開くと、そこは地下特有の湿った空気に満ちた無機質な廊下だ。剥き出しのコンクリートの壁に、LEDが細長く光っている。
廊下を10メートルほど歩いた突き当たりの、壁と同色に塗られた何の装飾もプレートもない扉を開けると、中は道場だ。磨き抜かれた大理石の床、中央には艶のない灰色の訓練用マット。正面の祭壇には、銀の十字架の檻の紋章が鈍く光っている。
ヴェシリアは作法通り祭壇に一礼すると、脇の更衣室で道着に着替えた。黒一色、なんのロゴも装飾もない道着。帯も黒帯。しっかりと締め、マットの中央で、祭壇に向かって直立不動のまま、目を閉じて黙想する。呼吸を整え、右手をまた胸に置く。
5分の黙想の後、ストレッチ、歩様の確認。円を描くように、衣擦れの音すら殺して、関節や筋肉の連動を意識する。
続いて、シチュエーション・ドリル。数人の敵を想定し、関節や急所への打突、鋭い突き。マットを飛び出し壁を蹴って宙返りし、またマットに戻ってスピンしながら手刀を繰り出す。激しい動きだが、弧を描いて滑らかだ。
中央で静止。目を閉じて、背後の敵に裏拳を飛ばす。全ての動きを、思考を介さず反射的に行う。
再び中央で静止し、呼吸と鼓動を整える。
祭壇に近づく。祭壇には、正面からは見えない低い窪みに、カタナが置かれていた。
ヴェシリアのカソックと同じ、真紅に金糸の模様のある鞘。柄も同様。鍔は黒鉄、装飾はなくシンプルだ。極東の地、ジャポンの刀匠に個人的に誂えてもらった、ヴェシリアの為のカタナだった。
左手で鞘を掴み、目の高さまで持ち上げると、右手で柄を握り、ゆっくりと抜く。刀工の鍛えた美しい刀刃が姿を表す。地金に沿って一直線に光る直刃、獅子のたてがみのように波打つ小乱れ。70センチの刀刃の切先は、その獣の牙より鋭利だが、この牙はまだ、血を吸ったことはない。一撃必殺の硬度を極めるが故、僅かな歪みで砕けるこの氷鉄は、ヴェシリアの生き様の象徴だった。
無垢の切先に意識を集中し、真紅の鞘を置くと、振り返って一閃、上段から振り下ろす。文字通り風を切り裂き、床寸前でピタリ止める。1キロ近い重さがあるが、ヴェシリアは片手で完璧にコントロールしていた。
愛など、このカタナで叩き斬る。
刀刃を鞘に納め、祭壇に置くと、修練の終わりの礼をする。もうひとつの、獅子の咆哮を意匠した紋章。アスラン道の紋章に。
「愛のねがいにうながされ、翼をひろげて、
たのしい巣へと空をわたる鳩のごとく、
二人はディドのむれをはなれて、
あやうい空をこちらへのぼって来た、
わたしの情をこめたよびごえがつよかったので。」
——ダンテ『神曲』地獄篇(竹友藻風 訳)
11時50分。
iPortaのアラームが鳴り、ジェイは眠りから醒めた。アナドル文明博物館の駐車場の、ロルフ・カブリオレの運転席で。
昨日、ヴィを抱いてアッカレから舞い降り、ロルフでヴィを教会に送り届けた。正確には、帰り道を運転したのはヴィだったが。2度の飛翔の後では、ロルフを路肩に突っ込ませそうだった。
帰路の車内の10分間で、ヴィはジェイを質問攻めにした。主に、ジェイの体力消耗と、今夜2人でやろうとしていることへの影響についてだった。少し寝れば問題ない、とジェイは答えたのだが、ヴィは昼食を共にすることを高圧的に命令した。わたしと共にお昼を摂りましょう。明日12時に教会においでなさい。
この数日、頭を悩ませていた教会への侵入経路が、一瞬で解決した。その後は今まで爆睡した。
(おとこたち。みはられてる)
アリーのロクツィオがきた。静止画が次々と。教会の周囲、半径150メートルくらいの位置に、建物の影や路上駐車した車内から教会を窺っている、黒いサングラスの男たち。
(おきなかった。ジェイ)
(ごめん。眠くて)
アリーは舞い降りてくると、ロルフの幌の裂け目から頭を突き出した。トカゲを咥えていた。
(あげる。おくりもの)
ジェイはアリーの贈り物を受け取り、嘴を撫でた。
(ありがとう。でもこれからご馳走を食べられそうなんだ。アリーも行こう。でもその前に、見張りのやつらに気づかれないように教会まで行かないと)
(わかった。まかせて)
アリーは飛び立つと、教会ではなく東の方角へ向かった。どこへ行くのか。
ヴィはアリーにすぐに気づいた。
「あら。あなただけ?」
アリーはオリーブの木に止まっていた。黒い薔薇を咥えて。花弁が数枚しか残っていない。
「え?それ、わたしがアッカレで落とした?」
聖テレーザ教会とアッカレは、車だと迂回するので10分近くかかるが、直線距離は380メートル。アリーは1分で薔薇を拾って戻ってきたのだ。
「……まあ。賢いのね、あなた。カラスのくせに」
ヴィに悪気はなかった。だがアリーは同類を馬鹿にされたままでいる気はなかった。
ググゥーrrr……。
不服の唸り声。前回の反省を踏まえて、薔薇は落とさない。
「なあに?わたしにはカラスの言葉はわからないの」
ヴィはアリーから薔薇を受け取れるものと思って近づいた。
ヴィが最接近した瞬間、オリーブの枝を蹴って舞い上がる。細かい埃や小さな虫が、ヴィに降りかかってきた。
「ちょっと……」
アリーは空中で旋回すると、ヴィの頭を掠め飛ぶ。
「なっ……ちょっと!」
思わず手を上げるが、アリーはすぐに離れて、正門のスピアトップに止まった。
なんなの、あのカラス!薔薇を届けるのはもうやめたってこと?
アリーは門の上で、薔薇をヴィに向かって突き出している。何回も。
「あなた、どういうつもり?その薔薇はわたしのよ?そこに置きなさい」
ヴィは修道服の埃を払いながら門に向かって近づく。
あともう少しで薔薇にヴィの手が届く、その瞬間を待っていたかのように、アリーは門の外、道路を挟んだ向かいの林に飛び移る。
ヴィは門を前にして立ちすくんだ。パンツスーツなら門を越えるのは簡単だったが、さっき葬儀ミサのための修道服に着替えたばかりだ。鉄格子ごしにアリーを睨む。するとアリーも、小首を傾げて、明らかに馬鹿にする目つきでヴィを睨み返した。
ムカついた。昨日もわたしにケガさせといて、なんなのクソガラス!
ヴィはキッと横を向き、門の警備員に言った。
「鍵を!」
警備員は、ヴィのことをよく知っていた。ヴィが子どもの頃から。アスラン道の練習相手になって、向こう脛に一発くらったこともあった。あの時は小学生だったが、今は大人だ。今のカラスとのやりとりも全部見ていた。警備員は迅速に門を開けた。
鉄門が開き始めるやいなや、ヴィは隙間をこじ開けて外に出た。
クククrrr……。
アリーのその声は、ヴィにとっては嘲笑にしか聞こえなかった。ヴィはアリーを捕まえようと林に飛び込んだ。
ジェイが立っていた。ロルフの横に。ヴィはペットのしつけがなっていない飼い主に文句を言おうと、一歩近づいた。その時、頭に薔薇が落ちてきた。
ジェイはたまらず吹き出した。アリー経由でずっと見ていたのだ。
正午を告げる教会の鐘が、カン、カン、カン、と乾いた音を響かせた。
地獄の門が開く合図だった。
「かれは答えた、『あのものたちが、もっと近くへ
来るのを待て、そのとき、かれらをうごかしている
あの愛にかけてたのむがよい、さすれば来るであろう。』」
——ダンテ『神曲』地獄篇(竹友藻風 訳)




