12 Çile(受難)
【2025年7月28日12時05分 アンキュラ、カイセル・バクシュ】
ズィヤは時計を見た。待ち合わせ時間を10分過ぎた。
パヴルが時間にルーズなのはわかっていた。だが今日はこの後アイシェ・デミルを迎えに行って、14時までに聖テレーザ教会に行かなければならない。あまり余裕があるとは言えない。
iPortaを見て、パヴルのメッセージを確認する。
『KK Övle(賞賛)』
最初は何のことなのかさっぱりわからなかった。だが思い出した。KKは、Kadim Kehribar(いにしえの琥珀)だ。パヴルと初めて会った、あの……罠の場所だ。カイセル・バクシュにある古いビル。ズィヤがパヴルに嵌められ、誘い込まれたビルの一室。
Övle。オーレ。Öğleか。正午12時。軍の符牒でもこのまんまなので、パヴルが捻ったのだろう。
ズィヤは伍長にホテルまで迎えに来てもらい、このビルでダキアを降りた。11時45分に。伍長は、先にデミル家に行かせた。
つまりズィヤは、ここでもう20分も待っているわけだ。
タクティカル・ブリーフのショルダーストラップを少し直した。普段より、iPadaひとつとステーションシックスが入っている分、重い。銃の重さは分解してあっても変わるはずもない。ホテルに放置してくるわけにはいかなかった。
GTのiPadaは、パヴルにコピーしてもらうつもりだった。オリジナルは、エキンジに突き付けて自首を促すために必要だ。
そう、俺がやるべきだ。エキンジを警察に引き渡す。動かぬ証拠と共に。そしてGTの悪事を暴くのだ。パヴルにはコピーをネットで公開してもらう。これならパヴルは教会に近寄らなくて済む。
目の前を若者が数人、走って行った。バビュールと聞こえた気がしたが、気のせいか。パヴルはまだ来ない。昼食もまだだった。腹が減ってきた。
【12時06分 コジャテペ】
ギュネルはまだあのテラスにいた。ランチタイムだ。既にほとんど食べ終えていた。料理は『パトゥルジャン・ムサッカの茄子抜き』。
もちろんギュネル特注だ。本来は茄子とひき肉の煮込み料理なのだが、茄子抜きの時点でもう『パトゥルジャン・ムサッカ』ではなくなっている。パトゥルジャン、というのは茄子のことなのだから。さらに言えば『ムサッカ(野菜と肉の煮込み)』ですらない。ギュネルは子どもの頃から野菜は嫌いだった。
ギュネルは食べ終わると、またホットオレンジオラレットを音をたてて啜りながら、iPadaを見ていた。今回は画面に表示されているのは、ギュネルの眉目秀麗を極めた顔ではなく、聖テレーザ教会の警備配置図だった。
警備配置案は完璧だった。だがどうしても、このカアン・ギュネルの空前絶後の知能を持ってしても、カバーできない部分が一箇所だけあった。
教会の西側。フランク王国領事館の敷地だ。ここだけは特別使徒保安庁の権力が一切及ばないので、当然警備を配置することはできない。
だがそれはギュネルの責任ではなかった。知ったことではなかった。
【12時09分 聖テレーザ教会】
アリーは怒っていた。
教会の隣の建物の、青銀赤の3色の旗がたなびくポールの先端に止まっていたら、石かなにかを投げられ「Corbeau!」と罵声を浴びせられたのだ。アリーにはフランク語はわからなかったが、罵声であることはわかった。
その前から、アリーは機嫌を損ねていた。ジェイの肩に乗って教会の食堂に行こうとしたら、あの"いらつきおんな"に追い払われたからだ。
アリーは石を投げて罵声を浴びせた男に、憂さ晴らしの急降下爆撃を喰らわせてやった。アリーにしか製造できない、白い爆弾だ。爆撃は正確に目標を捉えた。
満足して再び旗竿の上に戻る。周辺には、"みはり"がたくさんいた。だが、"みはり"以外にも、人が集まってきているのがアリーにはわかった。サングラスではなく、黄色いなにかを手に持った人間が集まり始めていた。"みはり"と話をしている人間もいた。
アリーはその映像をジェイに送った。黄色いなにかが気になった。黄色は見づらいので嫌いだから。
【12時10分 アンキュラ駅】
パヴルが遅刻したのは、ルーズだからではなかった。十分間に合う時間に家を出て、バシュケントライでアンキュラ駅までは順調だった。
ホームに降りた時、いきなりサインを求められた。そこで意識して周囲を見回すと、自分が注目されていることに初めて気づいた。取り巻く人だかりができていて、iPortaのフラッシュが焚かれている。急いでトイレに駆け込みiPortaを見た。
通知が99+。スィビラばかりだ。
バシュケントライの車中ではこの後のことをずっと考えていたので、チェックしてなかった。以前から通知が多いのにも慣れていたので、いちいち確認しなくなっていた。
トレンドがヤバい。#EkinciyiAffetmeが1位、バビュールが2位。世界トレンドでだ。
エゴサすると、オズギュネシュ駅からバシュケントライ、アンキュラ駅まで、画像付きでスィビルスされている。
鏡を見る。ベースボールキャップを目深に被っているから大丈夫と思っていたが、全然甘かった。ブロンドの髪に触る。気にしたこともなかったが、アンキュラでブロンドロン毛の男はかなり目立つらしい。
インウェニ・ハリタで検索して、一番近いのがモール内のKuaförだと確認すると、キャップで顔を隠しながらそこまで走った。
「すみません!急いでカットして!」
「お急ぎで?まあまずはチャイをどうそ」
アンキュラ流だ。仕方ない。サービスのチャイを啜る。
「長さは?……」
鏡の中で若い男の美容師が、パヴルのロン毛を持ち上げる。しかし見ているのは髪ではなくパヴルの顔だ。明らかに好奇心の塊のような目だ。
「丸刈り。やっちゃって」
美容師の目が大きく見開かれた。İlişなら、アラートが出るレベルだ。だが美容師もプロだった。無言でバリカンを手にすると、仕事を始めた。
「……あの。スィビルスとか、しないでくれると――」
美容師が耳元で囁いた。
「おれもバビュルスだ。任せろ」
鏡の中でウインク。
「おれも後から行くぜ、もうすぐシフト終わりなんだ。エキンジを赦すな!」
【12時32分 聖テレーザ教会食堂】
ジェイとヴィは、食堂で昼食を摂っていた。
先立って行われた昼の祈りでは、エキンジがクルチュの柩の横で詩編121を読み上げた。通常のローテーション通りで、内容は死者を送り出す際のもの。ちょうどいいとでも思ったのだろう。その後食堂では、他の教会から参列に来た司祭たちに囲まれて、詩編の選択について語り合っている。この日は、黙食でなくても良さそうだ。
ヴィは、隣でピラフをがっつくジェイを、内心では微笑ましく思っていた。使徒職で地震被災地に炊き出しに行ったこともあったが、それとは違う、母性本能、保護欲みたいなものを感じていた。だがそういう感情をこの男に悟らせるつもりはない。
「そんなに浅ましく。もう少し上品にできませんの?」
「あ……ごめんなさい。久々の食事なもので」
「久々?それはどういう……いえ、後で聞きますわ。それより、今日、あなたはわたしの叔父様。よろしくて?」
ジェイは鶏肉を口に放り込んで頷く。
「お父様の弟がフランクにおりますの。確か、60過ぎで……あなた、おいくつ?」
「この身体は確か、40歳です」
「40?」
思わず声が大きくなった。もっと年だと思っていた。
「……そうでしたの、それは……」
再び声を顰める。
「えー、そうなると叔父様は不自然かしら。いとこ。いとこにしましょう」
ジェイはピラフを頬張りながら頷いた。薄味だが、なんて美味いピラフだ。塩胡椒を振れば、もっと……。
「聞いてます?それと、食事が終わったらまず顔を洗ってきなさい。髪もなんとかして。あとその不精髭も……」
「シスター・ヴェシレ。いいですかな?」
エキンジが、2人の目の前に立っていた。チャイと、デザートの皿を持っている。
ヴィの拳に力が入った。何かを言いそうになるのを、唇を噛んで堪える。
「……エキンジ、司祭」
Pederとは絶対言いたくなかった。Monsenyörは高位聖職者に対する呼び方だが、他に思いつかない。本当は呼び捨てにしたかった。お父様を殺した男。この人殺しめ。
エキンジは薄笑いを浮かべた。
「こちらの方は?」
ジェイが、ヴィを制して立ち上がった。エキンジに一礼する。
「エキンジ司祭。ヴェシレの従兄弟、ジェイです。ヴィルヌーヴから来ました」
ヴィルヌーヴはアヴィニョンの対岸にある芸術の街だが、ローマにおいては有名とは言えない。アヴィニョンと言えば済むからだ。だがカトリックの司祭でヴィルヌーヴを知らない者はいない。
14世紀。「アヴィニョン捕囚」。多くの枢機卿が裁かれた街。
もちろん現代では、平穏な芸術の街に過ぎない。
「ほう、ヴィルヌーヴ……芸術家でいらっしゃる?」
「いえ、そんな大層なものではありませんよ。絵は描いてますが、あまり売れなくて」
エキンジはジェイの容姿を見て、納得したようだ。うんうんと頷く。
「此度は、ご愁傷様でございます。どうぞ、シスター・ヴェシレに寄り添ってあげてください」
エキンジは自分のテーブルに戻っていった。こころなし、急ぎ足で。
「ずいぶん、嘘がお上手なのね。あんなにスラスラと。ヴィルヌーヴですって?」
ヴィは呆れたように言った。
「嘘じゃない。本当に住んでた。絵も描いてた。600年前だけど」
ヴィは絶句した。そうだった。この人は見かけとは全然違うんだ。600年前って……。いや、たぶんもっと昔、気の遠くなるような大昔から、この人は世界のあちこちで暮らしてきたのだろう。そんな人が今、わたしの目の前で、味気ないピラフに舌鼓を打っている。
……だいたいこの人は、無口過ぎるのよ。聞かれたことにしか答えないし、それも自分が思ってる範囲での、必要最少限の答えしか返さない。ムカつく。
【12時45分 カイセル・バクシュ】
ズィヤは苛立っていた。もう1時間。来ないのか。それともメッセージの読み間違いか。パヴルに、もう何度もメールやメッセージを送ったが、返事はない。シミットのアラバが通りかかったので、2つ買って空腹を黙らせた。もう時間がない。
諦めてその場を離れようとしたその矢先、アンキュラの黄色いタクシーがズィヤの前で停まった。リアのドアが開く。
「"I am sorry. Did I let you down?"(すまない。待たせたかな?)」
奥のシートからパヴルの声が言った。
「Öğleじゃなかったのか」
怒りを抑えて、タクシーに乗り込む。
「だからごめんなさいって。ちょっとバタバタしちゃってさ」
パヴルがベースボールキャップを脱いだ。丸刈りだった。さらに幼く見える。ズィヤは驚いたが、それより時間がない。デミル家にピンを立てたインウェニ・ハリタを運転手に見せる。
「似合ってるじゃないか。運転手さん、ここへ行ってくれ」
タクシーが走り出す。パヴルがズィヤの真似をした。
「似合ってるじゃないか。……それだけ?もっとこう……まあいいけど」
ズィヤは外を見ていた。あちこちに若者が集まっている。月曜、もう昼休みも終わる時間だ。仕事がないのだろうか。これもハチュルの……と、若者たちの奇妙な共通点に気づいた。バラバラにあちこちでグループを作っているが、それぞれに必ず数人、黄色いなにかを持っている者がいるのだ。黄色いなにか。
「パヴル。あれは?……」
「うん、もちろん知ってるよ。スィビラがすごいことになってる。バビュルスのみんなだ。僕のメッセージを、ちゃんとわかってくれた」
ズィヤもパヴルのライブ配信は見ていた。だがこういう意味だったのか。
「それだけじゃない。『アンキュラ駅でバビュールを見ました!』っていうスィビルスが爆増してるんだけど、全部行き先がバラバラなんだ。バビュルスが手分けして、僕の、偽の足跡をばら撒いてくれてる。ほら見て」
パヴルが、操作していたiPadaの画面をズィヤに見せる。アンキュラの地図。アンキュラ駅から、赤いマークが放射状に広がっている。
「それはスィビラの、バビュール目撃スィビルスの位置情報。で、こっちは」
パヴルが画面をタップすると赤いマークが消えて、今度は黄色いマークが大量に表示された。聖テレーザ教会の東側の緑地に、密集している。南側の博物館の辺りもだ。
「この黄色はなんだ?」
【12時52分 特別使徒保安庁アンキュラ支局】
「虎の仮面です!虎の仮面を付けた若者が、大量に集まって来ています!」
中央監視室でスピーカーが叫んだ。
「なんだ?混信か?確認しろ」
室長の命令。オペレーターたちは急ぎ確認すると、報告した。
「周辺監視班、多数の不審者接近を確認。虎の仮面を着用しているとのこと」
「映像解析班、センサー・エラー多数発生とのこと」
「ネットワーク班、トラフィック増大、サーバー負荷、危険域」
【12時54分 カイセル・バクシュ】
「バビュール。やるじゃないか。」
「"We are a team. We are going to do this together."(僕たちはチームだ。一緒にやるんだ)」
キメ顔のパヴルに、ズィヤは聞いた。
「お前、さっきからなんで英語で喋るんだ?」
【13時00分 聖テレーザ教会上空30メートル】
アリーには"黄色いなにか"の正体はわからなかったが、人間たちが虎の仮面を付け始めたとき、戦慄した。
猫人間。ジェイが時々翼を生やすように、あいつらは顔だけ猫に変身した。なんてことだ。
猫は、アリーにとってこの世界で最も恐るべき捕食者だった。猫よりもっと大きい生き物はいる。狐。犬。人間。同族の巨大な猛禽。車。電車。飛行機。だが車とかはぶつかりさえしなければ脅威ではない。猛禽はアリーほど飛ぶのが上手くない。人間はアリーより頭がいいが、のろまだ。犬も頭は悪くはないが、敏捷性に欠けるしやかましい。
だが猫は……とても素早く、頭も良く、そして身体能力も飛び抜けて高い。そして、静かに獲物を狩る。
以前に1度、寝ている猫の上を3メートルほどの高さで通過しようとしたら、音もなくいきなりジャンプしてきて、あと僅かであの小さいが鋭利な爪の餌食になるところだった。驚いて心臓が止まるかと思った。
アリーにとって、それは悪魔が最も接近した瞬間だった。寝ていると思ったのに、気がついたらすぐ側にいたのだ。空を飛べるわけではないので、高度を取れば安全だが。
アリーは安全に監視を続けるため、舞い上がった。高度30メートル。この高さならまず危険はないし、半径200メートルの範囲を一望でき、猫人間や"みはり"の顔も識別出来る。風さえ注意していれば、人間たちの会話もはっきり聞き取れる。
ちょうどいい風が下から吹いていた。アリーは翼の角度を微調整し、上昇気流を利用してその場でホバリングした。
その様子は、アリーが見慣れている自然な光景ではなかった。すごい人数の猫人間がいた。黄色が多いが、黒いのや白いの、茶色で毛がぼうぼうのやつもいる。猫人間たちが、じわじわと、静かに迫ってくる。その内側に"みはり"がいて、猫人間たちの侵入を食い止めているようだ。
もうひとつ、第3の勢力もあった。大きな車。屋根に丸や尖った光るものがたくさんついた車。その車は、既に"みはり"の壁を突破し、教会のすぐ近くに来ていた。ジェイのロルフの周りにも何台もいて、その周りを黒い箱を肩に載せたやつや、小さな筒を持ったやつが蠢いている。そしてここにも、背後から、たくさんの猫人間が静かに迫りつつあった。
ジェイにロクツィオを送る。アリーは上空にいれば危険はないが、ジェイが心配だった。
(たいへん。せめてきた。
たくさん。ねこにんげん)
【13時01分 聖テレーザ教会礼拝堂】
(ねこにんげん?)
ジェイには、アリーが何を言っているのかわからなかった。これまでの2年間の積み重ねで、アリーの思考はほぼ完璧に理解しているはずだった。だが、この言葉は初めてだ。
ジェイとヴィは礼拝堂の最前列の遺族席に座っていた。13時15分に、パイプオルガンの演奏が始まるとともに、正門が開く。まだ時間はある。ジェイはアリーの映像に集中した。
映像を見た途端、アリーの言う"ねこにんげん"の意味がわかった。
昨日、ジェイがヴィをロルフに乗せたイペク通りの、東側のエヴィ公園の草地を、人々がこちらに向かって歩いてくる。人々はそのほとんどが、仮面を着けている――虎の仮面だ。中には虎ではなく黒猫や三毛猫、ライオンの仮面を着けている者もいる。彼らが、アリーには"猫人間"に見えるのだ。
彼らの他に、黒いスーツの男も数人見える。黒いサングラス。"みはり"、手に武器らしい物は持っていない。恐らく警備や監視の目的で、警察か特別使徒保安庁が配備したのだろう。
猫人間たちも軽装だ。iPortaを手にしている者が多い。そして皆、何か低い声で呟いている。ジェイはその呟きに耳を澄ませた。
「……キンジィ……フェッ……」
「……ェキンジィァフェット……」
「……エキンジ・アフェットメ……」
(EkinciyiAffetme)
――エキンジを赦すな。
低い、静かな声だったが、その言葉の響きにぞっとした。外で何が起きているのか。
イペク通りから教会に通ずる路地へのT字路では、警備による検問所が設けられていた。葬儀へ参列するために来た車が全てここで停められ、参列者たちは身体検査をされてから徒歩で教会に向かっている。
昨日、ジェイのロルフがぽつんと停まっていたイペク通りの路肩は、今や長蛇の駐車場となっていた。数人の参列者らしい人々が歩いてきている。参列者たちは、特に気になるような会話はしていない。
(アリー。大丈夫。今のところまだ危険はない。少し高度を下げて、教会の周りを飛んで)
アリーはホバリングから左旋回に移行した。映像がパンする。
四日前、ジェイがあのカフェで、今と同じくアリーの映像で確認した教会の裏手は、今日も全くひと気がない。建物の影になっているので目視は出来ないが、警備によって完全封鎖されているようだ。
アリーが旋回し、今度は西側が映る。隣接するフランク領事館の大きなビル。ここも、職員や衛兵の姿がちらほら見えるだけで日常と変わらない。南側、領事館と教会に面した路地も、西はコンヤ通りで封鎖され、東から歩いてくる参列者たちと、教会の正門の警備員の姿しか見えない。
アリーは旋回を続け、ロルフが置いてあるアナドル文明博物館の駐車場上空に来た。
いつもは疎らな駐車場に、車と人がひしめいていた。
目立つのは、TVの中継車だ。マイクを持ったレポーター、カメラを担いだカメラマン。教会前の林に脚立が並び、黄色い規制線テープが張られている。
どうやら、今日の葬儀はマスコミにとっては美味しいネタらしい。だが、その背後の人の群れ、いや猫人間の群れの方が圧力を感じる。ミサが終わればいなくなるのだろうか。
葬儀ミサが終われば埋葬。クルチュが眠れば、あとは"狩り"の時間だ。"狩り"は邪魔されたくなかった。
その時、足裏や背中に、地鳴りのような震動を感じた。一瞬地震かと思ってアリーの映像から意識を戻した。隣でヴィが心配そうな目で見つめていた。
「あなた。大丈夫ですの?白目をむいて、ぼおっとして」
「気にしないで。それより、地震?」
「え?違いますわ。ペダル音を知りませんの?パイプオルガンの」
振り返って2階の楽壇を見上げた。銀色のパイプが、天にも届けと立ち並ぶ。音は聞こえない。だが、空気が振動していて息苦しい。左肩に違和感を覚えた。
パイプオルガンの側の壁に、大きな丸い壁時計が見えた。アイボリーの文字盤に、厳格なローマ数字。細長いスペード型の針。
13時15分。
いきなり、パイプオルガンが喘鳴を始めた。
突如始まった壮麗だが陰鬱な旋律が、礼拝堂を満たしていった。
【13時15分 デミル家前】
ズィヤとパヴルは、GTのiPadaをコピーしようとしていた。
タクシーは数分でデミル家に着いた。伍長のダキアが玄関前にあり、アイシェが後部座席からズィヤに手を振った。
「すみません、お待たせして。もう少しだけ待っててくださいね」
「まあ、いいんですよ、少佐!今日はわざわざありがとうございます!」
今日のアイシェは調子が良さそうだ。今のところは。
「で?これをコピーしちゃう?」
パヴルがGTのiPadaをパタパタさせて言った。
「ああ。頼む。それがあれば、エキンジもGTも一網打尽だ」
パヴルは眉を顰めて、iPadaをいろんな角度から睨んでいる。
「うーん。これ、GTがあんたに渡してきたんだね?」
「そうだと言ったろ」
聖テレーザ教会ではもう参列者の入場が始まる頃だ。急がないと葬儀ミサに間に合わない。ここから教会までは車で、混んでいなくても10分かかる。几帳面なズィヤとしては、遅くとも15分前までには教会に着いておきたかった。
「ターゲット・パッケージだよね?これ。映画でも冒頭に出てくるアレ。なおこのメッセージは……」
「スパイ映画の話はもういい。コピーできるよな?」
「出来なくはないよ。待ってて」
パヴルはそう言うと、iPadaを膝に置き、自分のiPortaを取り出した。そして、GTのiPadaの写真を撮る。肉眼ではわからないがiPorta越しだと、iPadaの小さな点のようなカメラが微かに紫色に光っている。続いてファイルを開き、中のデータを1ページずつ撮影し始めた。
「おい。ふざけてる時間はないんだ。ケーブル繋いでデータをコピーすればいいんじゃないのか」
パヴルは生返事で作業を続け、やがて全てのファイルをカメラに納めた。
「さてと。じゃあ、これ持ってて」
GTのiPadaをズィヤに渡し、リュックから自分のiPadaとケーブルを出した。そして、GTのiPadaに向かってウインクした。
「なにをやってる」
ズィヤの声には苛立ちが混じっている。パヴルはiPortaで動画を撮影しながらケーブルを接続し、数回タップすると、画面に"コピー中……"と表示が出た。それから、"残り30秒……"。
「よし。じゃあ――」
「待って待って。ここからが本番」
プログレスバーが止まった。次の瞬間、別のメッセージウインドウが開く。
"他デバイスとの接続は禁止されています。データ消去を行います"
ズィヤは目を疑った。データ消去?
「なおこのメッセージは自動的に消滅する」
パヴルがわざとらしい重々しさで言った。
「おい!なにをした!」
ズィヤが焦ってケーブルを引き抜き、画面をタップしまくる。
「無駄だよ。たぶん、外部デバイスにデータを転送やコピーしたりすると、全部消去するようなトラップ」
「そんな。大事な証拠が……」
「うん、そうだよね。大事な証拠だよね。それを外部の人間に、なんの保険もなしに渡す?たぶんトラップだけじゃない。ズィ、あんたずっと見られてたよ」
「……は?それはどういう意味だ」
「これの役目は、ただの資料じゃないってこと。資料、つまりターゲット・パッケージを渡したいなら、USBメモリとかでいいじゃん?わざわざiPada一台、このためだけに無駄にする?」
「なんだと……つまり……監視カメラか。盗聴器か。それを俺は、後生大事に持ち歩いていたと……くそ……なんということだ……」
エラの写真と酒を酌み交わしたのも見られていたのか。
ズィヤは拳を握りめていた。顔が紅潮している。怒りというより……パヴルは可哀想になってきた。
「そう落ち込むなって。ほら。」
iPortaを見せる。さっき撮影したGTiPadaの画像だ。
「法的証拠としてはちょっと弱いけど。改竄してないっていう証明が不可能だし。でもデータ消去トラップも録画したし、動画のネタにはなる。大丈夫。"Trust me"」
ズィヤはパヴルを見た。そして微笑んで言った。
「もうスパイ映画はいい」
【13時25分 コンスタンティノープル、首席審問卿執務室】
ヴェシリアは、デスクトップのモニターにアップになったパヴル・エルギュンのウインクを睨んでいた。数秒。
ギュネル経由でズィヤ・シムシェキに渡したiPadaにはポイズンピル、つまり自爆トラップが仕込んであった。作動すると、ヴェシリアのモニターに通知がくる。その通知がさっき来たのだ。
ヴェシリアはその、つめたく冷えた鋳鉄の瞳で画面を睨み続けた。そして――口角が上がった。
コンシリウム通りだ。コンシリウムは順調に進行中。
【13時27分 デミル家前】
その後、気を取り直したズィヤだったが、問題が解決したわけではなかった。
証拠はなくなったに等しい。パヴルの言う通り、デジタルデータでなければ、本物である証明が不可能だからだ。もう残された手段はひとつしかない。
それは、危険を伴う手段だ。
「お待たせしました。では教会へ」
ズィヤはダキアの後部座席、アイシェ・ハヌムの隣に乗り込んだ。続いてパヴルが、助手席に乗ろうとする。
「待て。お前は来るな」
「……はあ?何言ってんの?今のでわかったでしょ?僕が……その、役に立つって」
ズィヤはニッコリして、言った。
「役に立つ?それどころかお前は天才だ。お前がいなきゃ、俺はただのゴリラだよ」
「じゃあなんでだよ!まさかまた――」
パヴルの脳裏で、青いパトライトとフラッシュの光が溢れた。サフィ。
「――僕のために、とか言うなよ!そんなの勝手過ぎだからな!」
ズィヤはパヴルの澄んだ青い瞳を見つめた。アンキュラの空より青い瞳。
「そうじゃない。パヴル、お前にしか出来ないことを頼みたいんだ。さっき撮った写真。あれでまた動画をあげてくれ。頼む。今の俺たちには、あれが最後の武器だ。あれでGTをぶっ潰す。パヴル。お前ならできる。お前にしか出来ない」
「そんな甘っちょろいセリフに騙されないからな!」
涙目だ。まるで子どもだ。そう。優秀な、子ども。未来がある。
「パヴル。頼む。敵はエキンジじゃない、GTだ。国家権力だ。一緒にいて2人とも逮捕されたら、誰がやつらを倒すんだ。お前はお前の――」
安全なところで。
「――戦場で、戦ってくれ」
「僕の……戦場?」
「そうだ。これが、ベストな戦略だ。俺はお前を信じている」
パヴルの青い瞳が、夏の湖のようにキラキラと光を反射していた。
「それとな。今後何があっても……いいか、何があってもだ。お前は、俺のことなど知らないと言え」
ズィヤは右手で、パヴルの手を取った。がっしりと握手する。
「いいな?2回でも3回でも、何度聞かれても、俺のことなんか知らないと言うんだ。俺も、お前なんか知らない。わかったな?」
パヴルの頬を、涙が伝い落ちた。ズィヤの大きな掌。温かく、強い掌。
「わかった。じゃああとひとつだけ。GTからもらったもの、iPadaだけじゃないよね?」
「な……なんのことかな?」
「とぼけんなって。ステーションシックス、だっけ?」
ズィヤは驚嘆した。
「出して。置いてって」
ズィヤは信じられない、というように首を振りながら、タクティカル・ブリーフを開け、サプレッサーを取り出す。
「全部。弾丸もね」
俺だけじゃない。ズィヤは思った。こいつも、俺のことを守りたいのか。
「パヴル。お前に銃を渡すわけにはいかん。法に触れるからな」
「またそんな……じゃあ、この人に預けて」
パヴルは伍長を示した。
「……馬鹿なことはしないでよ。あんたこそ、わかってるよね?」
ズィヤはふっと息を吐き、微笑むと、バラバラのステーションシックスとカートリッジを全て、伍長に預けた。
「ああ。馬鹿なことはしない。じゃあ、達者でな」
パヴルが吹き出した。眼鏡を外し、涙を拭う。
「達者でな?いくらなんでも古過ぎる。そういう時は――」
「伍長。車を出せ」
伍長はほんの一瞬躊躇った。パヴルは自分と同年代だ。だが、自分とは比べられないほど凄いやつだ。バビュール。伝説の瞬間に、自分は居合わせた。
「Sağol」
伍長はダキアを発進させた。後部座席に少佐とアイシェを乗せて、バビュールを置き去りに。
パヴルは、待たせてあったタクシーに乗り込んだ。
ズィ。あんたのことなんか知らないって?そうはいかない。僕があんたのことを、全世界に知らしめてやる。英雄として。
【13時31分 特別使徒保安庁アンキュラ支局】
「支局長。報告します。GPS信号ロスト。デバイスが失われた模様です」
ギュネルは執務室の姿見の前で、明るいベージュの襟にはねたトマトソースを落とすのに懸命になっていた。カフェから戻ってきてから気づいたのだ。30分後に、首席審問卿とのビデオ・ミーティングがあるというのに、由々しき事態だった。
「なんのGPSだ?なんのデバイスだ?いつも言っているだろう?主語を明確にしなければ伝わらないと」
演技の基本だ。全くこれだから素人は困る。ギュネルは上着を脱ぎながら思った。
「はっ!……失礼しました。その……子猫ちゃん、のGPSです」
ギュネルは上着を取り落とした。わざと。それから、両手をわなわなと震わせながら部下に振り向き、澱みなく捲し立てた。バリトンで。
「なんだと!子猫ちゃんを見失ったということか!どういうことだ!貴様、それがどういうことかわかっておるのか!このあと私は、それを報告せねばならんのだぞ?首席審問卿に!」
不運な部下は今すぐこのイカレた支局長の部屋を立ち去りたかった。だが仕事は最後までやり通さなければならない。
「最終確認地点はカイサル・バクシュ。5分前です。こ……小虎ちゃん、との接触後であります。報告は以上です。失礼します!」
不運な部下は言い終わるやいなや、逃走した。
ギュネルは上着を拾うと、デスクの上に広げ、しみ抜きを再開した。
ズィヤ・シムシェキとパヴル・エルギュンが接触し、私のプレゼントを壊したのか。それも許せんが、あの部下。この私の天才的なコードネームの命名を言い淀みおって。今度やったら飛ばすか。いや、そんな些細なことより、問題はこの後のミーティングだ。あの傲岸不遜な氷像になんと報告すべきか。私の履歴には一点のしみも許されない。
ギュネルは一心不乱に、上着の襟を擦り続けた。
【13時46分 聖テレーザ教会聖具室】
「Rabbim, beni akla ve kalbimi temizle(主よ、私を白く、清めてください)……」
エキンジは、古いオーク材の祭服箪笥に嵌められた大鏡の前で、アルバを羽織りながら、祈りを唱えていた。アルバの下に着込んだ防弾チョッキの暗色が透ける。カズラで隠せるだろうか。
「Rabbim, beni iffet kuşağıyla kuşat ve içimdeki kötü arzuları söndür……」
祈り続けながら帯をきつく締め、紫色のストラを首からかける。
ヴィルヌーヴから来た、だと?あの、ジェイと言ったか、芸術家崩れの男。
ヴィルヌーヴ。アヴィニョンの対岸に立ち並んだ豪華な屋敷。当時の枢機卿たちの腐敗の証。600年前の話だ。私とは何の関係もない。腐敗した聖職者は、なにも私だけではない。だがなぜだ。あの男があの街の名を口にした時、なぜあんなに息苦しさを覚えた?あの目つき。
「Rabbim, 'Boyunduruğum yumuşak ve yüküm hafiftir' diyen Sen(主よ、『わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い』と言われたあなた)……」
途中で唾を飲み込むため、祈りを中断しなければならなかった。
特別使徒保安庁。今日、参列予定だったアンキュラ支局長は欠席と聞いた。最初は安堵した。あの薄気味悪い男とは話したくない。だがなぜ急に参列を取り止めた?何か、知ったのか。
警察からは、特に何も言ってこない。これも初めは気楽に考えていたが、思い直してみると逆に不安になってきた。轢き逃げだ。調査は進んでいるはずだ。カフラマンやウラシュと私の関係は、ちょっと調べればわかることだ。私が疑われていないとしても、何も聞きに来ないのはおかしい。
香炉の炎が揺らめいている。風などあるはずもない。パイプオルガンの空震。私の震え。震えるなど……確かに、クルチュを殺したのはやり過ぎだった。私のアルバは血に染まった。だが仕方なかったのだ。ああするしかなかった。それが私の軛か。軽くはない。
「……huzuruna kabul edileyim(御前に受け入れられますように)」
エキンジは黒いカズラを纏い、鏡の前で立ち尽くした。鏡の中のエキンジが、胸元で十字を切った。そうではなかった。防弾チョッキの厚みを確かめたのだ。
防弾チョッキの左胸のプレートポケットには、いつも執務室の窓辺で撫でていた、銀色の十字架が入っていた。縦棒が20センチ、重さは1キロ近いこの銀の塊は、エキンジがまだ若い頃、虚栄心を満たすために30万リラで買い取った、功労褒章の記念品だった。もう私を守ってくれるのは、このゴワゴワした化学繊維の塊と、虚飾の銀塊だけだ。
カフラマンは死んだ。ウラシュも自殺した。神に召されたのだろうか?それとも……地獄に?
嫌だ。私は今や独りだが、構わない。絶対に地獄になど行きたくない。生き残ってやるのだ。なにをしてでも。
【13時58分 聖テレーザ教会礼拝堂】
アイシェの手を引いて、ズィヤは礼拝堂の入り口のアーチを潜った。なんとか間に合った。イペク通りで渋滞して、ダキアを停めるのに手間取ったのだ。パイプオルガンの音圧がすごい。
虎の仮面のバビュルス達は、エヴィ公園の草地に留まっていた。静かだが、数千、いや数万人。物凄い人数が集まっていて壮観だが、シュプレヒコールとか鳴物とかはひとつも聞こえない。パヴルの指示だろうか。
駐車を伍長に任せたが、珍しく不服そうに見えた。彼も参列したかったのかも知れない。
アイシェに寄り添いながら、数分歩いて教会に着いた。フラッシュが光った。向かいの林にマスコミがうようよいる。
警備は門に1人、入り口に1人。サングラスにスーツ、黒づくめの男たち。耳にはイヤホンが見える。ズィヤをチラッと見たが、それだけだった。
礼拝堂のベンチは満席だったが、最後列右端の老人がアイシェに席を譲ってくれた。ズィヤはアイシェの背後に立った。
身廊の先に柩が安置され、その向こうに祭壇。左右の壁際には黒づくめの男が3人ずつ。司祭たちはまだ入堂していない。パイプオルガンの演奏はピークを迎えて、空気が震動していた。ズィヤの立っているこの場所だと、真上から轟音が滝のように落ちてくる。耳を塞ぎたくなった。
その時、突然静寂が訪れた。
パイプオルガンが沈黙した。耳鳴りがする。エキンジは大鏡を見た。そこに映っていたのは、祭服に身を固めたエキンジ独りではなかった。
防弾チョッキのせいで厳つくなった両肩に。
顔。
カフラマン。半分、削れている。
ウラシュ。涎と血に塗れて。そして。
クルチュ。彼だけが、笑っている。綺麗な顔。柔和な笑み。その笑みが、他の何よりも恐ろしい。
気を失いそうだった。いっそ失いたかった。
「――司祭。エキンジ司祭?」
音が戻っていた。足音や、参列者の騒めき。
「お時間です、司祭」
他の教会の司祭たちがエキンジを振り返って見ていた。何の感情もないいくつもの目。エキンジは頷いたが、足が床に釘で打ち付けられているようだった。引き抜くように足を上げ、一歩踏み出した。
ちりん、ちりん。
侍者が鐘を鳴らし、司祭たちの列が入堂する。
「Requiem aeternam dona eis, Domine……」
参列者たちが立ち上がり、雑音とともに聖歌の詠唱が始まる。
エキンジは列の最後尾を歩きながら、視線は定まらなかった。唇の端が僅かに上がる。
「……et lux perpetua luceat eis.」
絶えざる光へ。今ここで逃げ出したら?逃げ出したい。どうしても。なんとかしてここからいなくなりたい。だが意志に反して、彼の足は列を追う。
司祭たちが所定の席についた。エキンジはただ独り、祭壇と柩
(クルチュ)
遺骸の傍らに残される。
(笑っている。クルチュ。)
ヴィはエキンジを凝視していた。入堂の瞬間からずっと。誰も気づかないが、小刻みに肩が、腕が、手が、指が震える。唇を噛む。
ジェイはヴィを見ていた。肩に触れかけるが、やめる。
ズィヤもエキンジを見ていた。怒りは感じなかった。戦場での経験は、そのエキンジの姿に脅えを見た。
香炉を取る手が震える。柩を一周し、煙を振り撒かなければ。腕を動かすたび、防弾チョッキの嵩張りが邪魔をする。壊れた人形のようにぎごちなく、それでも一周を終え、祭壇の中央に立つ。
「主は」
声が裏返る。
「――みなさんと、共に」
声が聞こえる。聞こえるはずのない声が。
『主はお赦しにならない』
嫌だ。主が赦してくださらなくても、クルチュ、あなたには
『……これが。これがあなたの免罪符だと?』
エキンジは後ずさった。まるで柩に引き寄せられるように。足がもつれた。身体が揺れて、カタファルクに手をついた。聖布が引っ張られ、白い幕が舞った。
ヴィには見えなかった。白い幕が、白いトラックのパネルがヴィの視界を遮り――
――ゆっくりと、柩が傾ぎ、一瞬の静寂、そして鈍い衝撃音。柩は大理石の床に落ち、蓋が乾いた音とともに開き――
14時11分。
柩から、腕が投げ出された。その手は、エキンジの足首を掴んでいるように見えた。
悲鳴。絶叫が聖歌をかき消した。
ヴィは立ち尽くし、抗う術もなく両手が口を塞ぐ。従者や司祭たちが柩に駆け寄り、ジェイがヴィを支える。
怒号。足音。騒然となった。
聖歌はもう、聞こえない。
今しかないと思った。エキンジを、闇から光の、法の元へ引き摺り出すのは、今しかない。ズィヤは駆け出した。身廊を真っ直ぐ、エキンジに向かって。タクティカル・ブリーフのストラップがずり落ち、右手で抱えて、走った。
ズィヤは、崩れ落ちた柩に縋り付くように座っているエキンジただひとりを凝視していた。正義を為すことへの衝動が彼を突き動かしていた。エキンジ一点に集中し、周囲から闇が迫り来て視界が狭まる。
闇はズィヤの世界を侵食しつつあった。
エキンジまであと数歩。手を伸ばせば届く。しかし突然、目前に黒い壁が現れ、さらに背後から、身体を掴む手を感じた。次の瞬間、ズィヤの身体は前のめりに倒され、潰され、頭を大理石の床に押し付けられた。
ジェイはそれを、突進してきた軍服の男が複数の黒服に取り押さえられるのを、間近で見た。ヴィを庇って前に出た。黒服にのしかかられながら懸命に顔を上げた男の顔を。
組み伏せられた男が、ジェイを見た。視線が絡み、そして――
背中の筋肉が疼き、血が逆流した。
なぜだ。
ジェイエルがジェイの肉体を、体内から破ろうとしていた。ジェイの意志に反して。ジェイエルの意志も無視して。
背中が、頭が、顔の皮膚が悲鳴をあげる。全身に震えが走る。眼球が燃える。
丘。雷雨。黒い空。稲妻。雷光に浮かぶ、3つの――
「ジェイ!」
ヴィの叫びが、ジェイを引き戻した。背中も頭も眼球も、もう何も叫んでいなかった。
ズィヤはエキンジを凝視していた。脅えて、生気を失くした目を。突然、その視界の片隅に生の火花を感じた。男。ズィヤと同年代の。だがすぐに、その火花は消えた。
後頭部に強い力がかかり、顔を床に押し付けられた。頬が冷たい。大理石の床。背中の重圧が肺を潰す。
遠くで、アイシェが叫んでいる。
ズィヤは抵抗をやめた。全身の力を抜いた。
腕を後ろ手に押さえられ、2人がかりで引き起こされた。タクティカル・ブリーフが奪われ、別の手が胸元に突っ込まれて、CanikTP9を引き出した。全身を探られる。背中で金属の音がして、手錠が手首に食い込んだ。
「シムシェキ少佐。典礼妨害だ。拘束する」
フッ、と、息が漏れた。込み上げてくる笑いを噛み殺した。典礼妨害か。
エキンジは長いため息をついた。足腰に感覚が戻ってきた。よろけながら立ち上がり、祭服の裾を直した。
ジェイはベンチに腰を下ろし、まだ考えていた。なぜだ、と。
ヴィはジェイの隣で、柩を見ていた。今ここで何が起こったのか、脳が理解を拒否していた。
修道士や従者が、柩の蓋を閉め、カタファルクに戻そうとしている。参列者たちの騒めきも、徐々に静かになっていく。
アイシェだけが、まだ衝撃の渦中にいた。保安庁に連行されていくズィヤに駆け寄ろうとして、他の参列者に引き戻され、それでもなお、声を涸らして叫び続けた。
「……行かないで!……連れて行かないで!お願い……エモ!」
ズィヤは最後にアイシェを見た。
心残りはそれだけだった。




